第六話:「隠しごと」②
「先生。こん中に、嘘ついちゅう人がおります」
小郷晴美ちゃんの突然の宣言に、ぼくは針先で胸を刺されたような小さな痛みを感じた。
みんなも息を呑んで静まり返って、晴美ちゃんの次の言葉を待っていた。晴美ちゃんは、その場で、椅子からすっくと立ちあがった。
「うち、着替えが終わって、教室を出たんが最後やったんです。
そん時、教室に向かう一人の生徒とすれ違いました。
その人がなんか知りゆう、思います。……そやろ? 坂本くん」
驚いて、すぐさまぼくの視線は、亜里沙ちゃんの後ろに座る恭介くんに向かった。
冷たい声で断罪された恭介くんは、慌てて、晴美ちゃんに声を荒げる。
「はあ?」
「ねえ。なにしに、来よったん? 亜里沙ちゃんの教科書を、盗むためじゃあねえん?」
「やっちもねえ(馬鹿馬鹿しい)。ゴーグル、取りに来ただけじゃ!」
「また、嘘? そんなら、生活室に行きゃあええが。そっちで着替えたじゃろ」
「机の中に忘れたんじゃ!」
顔に朱を注ぎ、飛び掛からんとするほど恭介くんは興奮して、まくしたてる。その様子を、晴美ちゃんは無感動な目で見ていた。
「だいたい、自分のがあるゆうのに、なんで、おなごの教科書なんて、盗まなあかんのじゃ。このあんごう(馬鹿)が!」
恭介くんは、机の中から、何やら教科書を取り出して、机に叩きつけた。ばしん、という大きな音が教室に響いたけれど、晴美ちゃんに動じた様子はなかった。
「さあ。教科書欲しいわけは、分からん。じゃけど、無いから欲しい、ゆうだけが盗む理由じゃなかろ?」
からかうような笑みを浮かべた晴美ちゃんに、ぼくは、はっとした。
彼女がなぜ、こんなことを言い出したのか、ひとつ思い当たる節があった。
「なんじゃ」
「言うてええの? ほんに?」
「おい。二人とも、落ち着けや!」
先生が声を張って、二人の言い合いに割り込んだ。でも、恭介くんにとっては不幸なことに、にやにやと唇を歪めている晴美ちゃんの言葉は止まらなかった。
残酷に可愛らしく、羊飼いが羊を呼ぶように、教室中にたっぷり言葉の意味が響くように、それは喧伝されてしまった。
「恭介くんはあ、亜里沙ちゃんのことが、好きじゃけえ」
よく似た光景が記憶にあった。
その時は、風邪をひいて学校を休んだ男子生徒あてに、今日の出来事や明日の時間割・連絡事項、お見舞いの言葉なんかをまとめた手紙を、晴美ちゃんが書く、という状況だった。
恭介くんは、熱心に手紙を書いている晴美ちゃんに向けて、しつこく茶々を入れたのである。もともと犬猿の仲、もとい、縄張りの違う猿と猿のように仲が悪い二人であった。
もっとも、晴美ちゃんは、その男子に良くも悪くも思い入れはなく、すなおに病人を見舞う気持ちのようで、恭介くんを軽くあしらっていた。
ただ、恭介くんが黒板にでかでかと、晴美ちゃんと男子生徒の名前を使って相合傘を描いたことで、最後には、晴美ちゃんが声を荒げるほどになっていたけど。
その出来事を、晴美ちゃんは根に持っていたに違いない。
教室には、居た堪れない空気が漂った。
恭介くんは、言葉を失っていた。
今度のことが、晴美ちゃんの一件と些か事情が異なるのは、男子のうち何人かが、実際に、恭介くんが亜里沙ちゃんのことを好きだと、知っていたからだった。
もし晴美ちゃんもその風聞を納得尽くだったとすれば、彼女の言葉が実に効果的に働くことを、自身で理解していたわけである。
ぼくは密かに、ぞっとするものがあった。
「なにを……やっちもねえ。誰が……誰がこねん」
恭介くんの震えた声に、ぼくは、耳を塞ぎたくなった。
その後に続く言葉は、きっと、亜里沙ちゃんを悪く言う言葉だと、思った。
「先生!」
突如、椅子をがらっと弾いて立ち上がったのは、亜里沙ちゃんの隣の、宗平くんだった。
その声は、驚くほど意気揚々としていて、難しい計算問題の解答が分かった、とでも言い出しそうな、酷く場違いな具合だった。
「わしも、亜里沙が好きじゃ」
ぼくは耳を疑った。
いや、誰もが耳を疑ったと思う。ぽかんとした顔で、恭介くんも、俯いていた亜里沙ちゃんですら顔を上げて、ガラス玉のような澄んだ目で宗平くんを見ていた。
「そんでん、クラスのみなも、好きじゃ」
宗平くんは、くるりと、快活な笑顔を教室に振りまいた。呆れたような笑い声が、どこからか小さく漏れる。
教室の空気が、一瞬で和らいだ気がした。
「つまり、こん教室でだれかの物がのうなったら、わしの仕業ゆうことじゃ。そねんことじゃねえけ、晴美?」
毒気のない顔を、晴美ちゃんにも向ける。彼女は、ばつが悪そうに口元を結んだ。
「それに、恭介が最後に教室に来よったけ、そん前には、晴美もひとりじゃった。
ほんなら、晴美じゃって、教科書を盗みゆうことはできゅうた。
もちろん、恭介のあとに誰かが入って来よって、盗みゆうこともできた」
宗平くんは、すらすらと言葉を続ける。
「だから、教室に最後におったのが誰かなんゆうことは、意味のねえ話じゃ。
わしも先生と同じで、こんクラスのもんが、教科書やらを盗んだとは思わん」
彼はきっぱりと言い切った。
その言葉には、妙な納得感があった。内心でぼくは、クラスの特定の誰かを疑いつつあったけど、宗平くんが言うならそうかもしれないと、ぼくはぼくを納得させた。
「うちもそねん思います」
続けて賛同の声を上げたのは、窓際に座る松木惠香ちゃんだった。
髪の長い女の子で、地毛だという茶色けた髪は夏の陽光を浴びて、琥珀のように輝いている。
そのぱちりとした気の強そうな目が、宗平くんに向かって、それから先生に向いた。
ぼくはその平坦な声に、もやもやとしたものを感じた。
でも、彼女が賛成したなら、たぶん、他の女子ももう不満を言わないだろうという、安心感もあった。
案の定、立ちっぱなしだった晴美ちゃんは、頼るところを無くして俯いて、そっと椅子に座り直した。
「わかった。先生は、他のクラスにも聞いてみるがじゃ。あと久住、着いてこい。スリッパ、貸しゆう」
先生は頷くと、亜里沙ちゃんを促して教室を出ていった。
普段から色の白い顔は、より一層に青白く、ぼくには感じられた。
ぺたぺたというスリッパの音を響かせながら、先生と亜里沙ちゃんが戻ってくると、国語の授業が再開した。
永遠かと思われていた静かな時間は、四十五分の授業時間の半分にも満たなかった。
それでもみんな、どっと疲れたようで上の空みたいな様子で授業を受けていた。
亜里沙ちゃんは、先生の指示で宗平くんの机と自分の机をくっつけて、教科書を見せてもらっていた。