第五十一話:白磁の塔①
『白磁の塔』
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窓から差す陽光が心地いい。周囲で話す人々の声は、まるで子守歌のように、眠気を誘う穏やかなものだ。耳元がくすぐったい。陽だまりのような夢見心地の世界が、ゆっくりと閉じてゆく。
「おい。久慈川センセイ。生きてるか?」
がたん、と目の前に座った人間の声で、閉じかけた目が覚めた。
「あ、はい」
私は、相手がだれかを確かめることもなく、無意識に返事をした。
「……こりゃあ、相当やられてるな」
呆れたような、聞き覚えのある声に、私はようやく覚醒した。目の前にいたのは、快活そうな褐色の肌をした男。
梶山宗平だった。
くっきりとした目鼻立ちに、力強い太めの眉。私とは比べ物にならないくらい、活力に溢れているように見えるが……。よく見ると、彼の目の下には血色の悪い隈がある。
ふと手元に気づく。丸く、なにかを掴んだ形のままで固まった手の横に、ボールペンが転がっていた。私は息を深く吸って、吐いた。
「少しは、目が覚めたか?」
「……ああ。おかげさまで」
深呼吸をすると、私の五官はようやく世界を取り戻した。周囲の音が、明瞭になる。時計を見ると、既に朝の七時半を過ぎていて、執務室内には出勤している医師や看護師らの姿があった。
はっとして、手の下にある紙に目をやる。幸いなことに、尺取虫が這い回ったような文字は、そこには無かった。おもわず安堵の息が漏れた。
見かねた宗平が、私を食堂に誘ってくれた。缶コーヒーを一杯奢ってくれるという。
申し送り事項を書き留めなければならなかったが、夜勤明けで散漫とした意識をこれ以上保っている自信もなく、宗平に従うことにした。
食堂は、まだ朝とあって院内スタッフの姿はない。外部から雇い入れている調理会社のおばさん従業員たちが、がたがたと仕込みをしている音が響いていた。その音に負けじと、声を張り上げて会話をしているので、なかなか騒々しい。
「ほらよ」
宗平が差しだしてきた缶コーヒーを、礼を言って受け取る。指先が痺れるほど冷たく、すぐに水滴がまとわりついて来た。
自動販売機のすぐ近くの席に、私と宗平は腰かけた。缶に充填された不活性ガスが噴き出す音がして、気が付くと、宗平は缶を一気に仰いでいた。
「タフだよね、宗平」
「カラ元気だよ。いくら研修医だからって、患者さんの前で頼りない姿じゃ居られんだろ」
にっと、笑って見せた。口元から覗く白い歯が眩しい。
「まあでも、こんな日が連日続くと、わしも厳しいかもしれん」
若い癖に、宗平の一人称は、わし、という。普段の彼は殆ど標準語で話すのだが、一人称だけは故郷の訛りが抜けないようで、わし、なのだ。そのギャップが外面と不釣り合いで、疲れていた私は、こんないつもの会話にも小さく噴き出した。こいつでも弱音を吐くことがあるのかと、意外にも思った。
「……そうかもしれないね」
この日など、緊急の患者が多く仮眠をとる暇もなかった。崩れ去った砂上の楼閣が、多くの人間を下敷きに巻き込んで、人々を追い詰めていたのだ。
バブル景気だ。
当時は、投機的投資の過熱により、株価や都市部の地価が急騰していた。投資はさらなる投資を呼び込み、企業収益や給与も一時的に上昇したが、それは蜃気楼のような虚像に過ぎなかった。
日本銀行が急激な金融引き締めに転じると、資産価格は急落し、バブルは崩壊。人々の資産はみるみる目減りして、暗澹たる雰囲気が社会に漂い始めていた。
その不穏当な波は、病院にまで波及しつつある。医療安全に支障ない範囲で、消耗品の不必要な利用を減らそうだとか、他に聞いた話では、給与の削減や、人員削減なども検討されていると耳にしたこともあった。
名のある大学附属病院であっても、このありさまである。市井の人々にとっては、その影響は計り知れない。
私は、今日、救急で処置したばかりの患者を思い出していた。
運ばれてきたのは四人の家族だった。密閉した車内でのガス中毒による心中。急性一酸化炭素中毒による低酸素脳症のために父親以外の三人は、助けられなかった。
その他にも、飲酒運転による事故の被害者や、行き過ぎた喧嘩により重傷を負って意識不明になった男性も運び込まれた。不安定な社会情勢に追い立てられ、人々の感情は針の筵のように逆立っている気がする。酒に溺れるか、誰かを傷つけるかして、痛みを忘れようとしてる。
そんな中で、助けることができた命があった。でも、助けられない命もあった。
悔しいと思った。でも、感情のキャパシティは疲労感に押し潰されて、立錐の余地をなくしている。だから、悲しいと思う気力は、なくなってしまっている。
「忙しいのは、わしらだけじゃないんだ。伊崎教授も、あの年で、バンバン手術をこなしてる。そんくらい、タフにならなくちゃいかん」
「そう……だね」
A大学附属病院の病院長であり、脳神経外科の教授でもある伊崎辰巳教授は、五十五歳という年齢にして、日に複数の手術を受け持ち、こなしている。その中でも最近では、バブル景気の人手不足で海外からの就労者が多いせいか、外国人を相手にする機会も増えていた。
「まあ、最近ちょっと多すぎるって気もしなくもないが」
「人間の命のことだし。波があって当然じゃない?」
私が言うと、そういうものかね、と宗平は呟いて、缶コーヒーを煽った。
彼につられて、私もようやく、プルタブを起こしてコーヒーを飲む。冷たい液体が喉を流れて、生き返る心地がした。水分を摂取したのも、久しぶりだった。
暢気に長々と休憩している暇もない私たちは、コーヒーを飲み終えると、すぐに執務室に戻った。日勤への引継ぎ資料を書かねばならなかったし、それに、八時半からは教授の回診に付いていくことになっている。それが終われば、ようやく夜勤が終了になる。
回診というと、私は医学部に入る直前にみたテレビドラマの『白い巨塔』ですっかり、回診というものを誤って理解していた。教授を先頭に、ぞろぞろと医師や研修医が列をなして歩く……。
そんなものを想像していたが、医学部に入って早々、先輩から、あれは誇張だという話を聞いた。実際に研修医となって回診に参加してみて、やっぱり誇張だったと納得した。
白髪の混じった、鳥の巣のように癖毛を散らかした伊崎辰巳教授と、病棟の責任者である桑原助教授を先頭に、後ろを六人の研修医がついて歩く。それだけの簡単なもので、病室で議論を交わしたりなんかもしない。それは、病室を出て廊下で行う。
自分が受け持っている担当患者の症状を教授に説明し、教授と問答するといったものだ。大変貴重な機会であることに間違いはなく、『教授の総回診』などという仰々しいものではない。
私は、救急で対応した、右中大脳動脈領域の脳梗塞患者を担当していた。
左上下肢の不全麻痺と、運動性失語があったので、保存的な治療で対応し、リハビリテーションを開始している患者だった。教授からは、経口での食事摂取状況の質問や、誤嚥性肺炎の兆候などを確認されたが、それ以外に特段の指摘はなかった。
回診の最後は、いつも、最も設備の整った病室で終わる。そして、病室には研修医は入ることはできず、伊崎教授と桑原助教授のみが入っていくのである。
「よほどのお偉いさんなんだな」
廊下で待つ研修医の一人が、小声で囁いた。
「なんでも、法務省で政務官をやってる冴木議員の娘らしいよ」
別の、女性の研修医が呟く。こういう噂は院内スタッフの間に、あっという間に広まる。
その女性患者の姿を、私は見たことがあった。
病室に掲示されている名前には、冴木那月とあった。私がその女性を初めて見たのは、院内で先輩医師に連れ立って手術に付き沿ったときのことである。車いすに乗った那月は、病棟に設けられた休憩所で、物憂げに外を眺めていた。
肩よりも長い艶やかな髪を垂らしている。年の頃は、二〇代の半ばから後半に見え、白皙とした顔貌は、ことによれば青白く見え、入院着の上からでも分かるほど、柳のように細い体躯をしていた。細い眉が、顔全体の印象を儚げにし、唇の朱は、浮かび上がるように白に映える。
美しく物静かなその女性は、窓の外に桜でも探して眺め、下界を羨んでいるのかと思った。
だが、うららかな春のこととはいえ、七階にある病棟からでは大都会東京の地上に僅かに咲く桜など、およそ目を凝らしたとて見えないだろう。そう思えば、まだ年若い彼女の物悲しさは、思い半ばに過ぎる所があった。
聞いたところによれば、那月は急性脊椎梗塞という珍しい病気らしかった。
脊椎梗塞は、脊椎の脊柱管外部の動脈に由来する虚血(血液が流動しない状態)により、重度の背部痛や四肢に筋力低下と感覚消失をもたらすという、恐ろしい病気だ。原因を治療することができる場合もあれば、リハビリのみで治癒を目指すしかない場合もある。
那月は後者で、すでに、彼女が入院をしてから三か月ほどが経っていた。
実家が太いからか、那月が入院する少し前に雇われた理学療法士の男性が、ほぼ専属に近い形で那月のリハビリを行っていると聞く。さらには伊崎教授自らが担当医師となって応対するほどの厚待遇で、専ら、回診に付いていく研修医たちの間では、冴木那月はまさしく、深窓の令嬢として名高い患者であった。
病室の扉の向こうに気配を感じて、研修医たちは慌てて口をつぐむ。すぐに、伊崎教授と桑原助教授が出てきて、こちらにちらと視線を向けたものの、何かを言うでなく、すたすたと歩いていく。
回診が終わった。
ようやく今日の勤務を終えられると、気持ちが浮ついた時だった。
どこかから、長く鋭い女性の悲鳴が響き渡った。




