第五話:「隠しごと」①
『隠しごと』
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水泳の授業は退屈にすぎる。
一年生だろうか、二年生だろうか、校舎の一階広間から聞こえてくるたどたどしい合唱の声をぼんやりと聞きながら、水が弾ける音がするプールを、ぼくは眺めていた。
学校の敷地に設けられている屋外プールは、冬場は存在が忘れ去られたように深緑の水を蓄えて、怪物でも潜んでいるという噂がまことしやかに囁かれるほどの惨状だけれど、この初夏にあっては底面が見えるほどに綺麗に澄んでいる。
それでも、退屈だ。
まず、生ぬるい。そして流れがない。
大沢の町を出て北に、十分か二十分ばかり自転車を漕いでいけば、吉野川は足がつかないほどの水深があって、川べりから突き出たような天狗岩から、度胸試しに飛び込んだりもできる。
ぼくたちの学年で、いっとう最初に天狗岩から飛び込んだのは梶山宗平くんで、その次が坂本恭介くんだった。
ぼくはそのとき飛び込めなかったんだけれど、彼らから遅れること一年たつ頃に、ようやく、飛び込むことができた。
それでも小学三年生だったのだから、上級の生徒に比べて早い方だったけれど、だからこそ宗平くんと恭介くんの肝っ玉にはほんとう、驚く。
とまれ、やはり、泳ぐならば川だ。
女の子の中には上手に泳げない子もいるみたいだけど、男の子はだいたい、川で泳ぐすべを身につける。
だから、水泳の授業なんていらないと思う。泳げない子だけ、泳いだらいい。泳げる子は、川に行くなんてどうだろう。
「ほら、慎二。次じゃ」
国木田先生に促された。
ぼうっと、前の子が二十五メートルプールを往復する様子を見ていたぼくは、はぁい、と生半な返事をした。
ゴーグルをした大野くんが、怪獣が登場するみたいに水を押しのけて、プールから上がってくる。
塩素のつんとした臭いが漂ってきた。
大野くんの身体を滴り落ちるプールの水は、臭いのせいで余計にそう感じてしまうのか、シロップみたいに粘っこく見える。
てらてらと陽光を跳ね返す水着が、余計に、その得体のしれない液体をぬるく気持ちの悪いものに思わせていた。
飛び込みは禁止されているので、そろりと、プールに着水する。じりじりと太陽に焼かれているよりは、プールの中はひやっと冷たくて、でもすぐ身体が慣れてぬるく感じる。
これから向かうレーンの先を見た。
一瞬、ぞわっと、背筋が寒くなった。吉野川の川幅は、二十五メートルもない。だからこれを往復すると思うと、ちょっと怖くなることもある。
真横のレーンの子が、必死で泳いでいるのが目に入った。
まっすぐ伸ばした腕にビート板をもって、ゆっくりと進んでいる。プールからのぞく、雪を欺くほど白い二本の腕をちらと見たら、それが久住亜里沙ちゃんだとすぐにわかって、ぼくはもう泳ぎ出していた。
泳いでいる間は何も考えられないくらい、クロールで水を掻いた。
必死に泳いで、危うく、プールの端に腕や頭をぶつけそうになったほどだ。とはいえ、プールの壁に右手の掌をしたたかに打ち付けてしまった。
一度直立して息を整え、振り返る。残りの二十五メートルを泳ごうとした時には、もう、亜里沙ちゃんはプールから上がったみたいで、その後ろ姿だけがちらりと見えた。
その時、ばしゃん、と大きな水柱が亜里沙ちゃんの居たレーンで上がる。
「こらぁ! 宗平!」
国木田先生の怒鳴り声が聞こえた。宗平くんだ。飛び込んだみたいだった。ぼくは、時を忘れてその様子を見ていた。
だが、なかなか、宗平くんは上がってこない。
慌てて国木田先生がプールに飛び込んだのと、宗平くんがプールの半分を超えたあたりで顔を出したのが、ほぼ同時だった。
彼は、潜水して泳いでいたのだ。
滑らかな泳ぎでぼくのすぐ隣まで来ると、くるりと反転して元来た方へ泳いでいった。
レーンの途中で、呆れたように直立する、国木田先生の胸元へ……。
◆
「わしは、悪ぃないじゃろ」
スカートみたいなゴム付きタオルを肩から被り、身体を拭いていた宗平くんは、口を尖らせた。てるてる坊主みたいだ。
ぼくは返答に困った。
「ありゃあ、先生のはやとちりじゃ」
隣の恭介くんは、浅黒い顔に、にっと白い歯をのぞかせて笑った。そうとも言える。でも、飛び込みは禁止だったから、やっぱり何とも言えない。
授業を終えたぼくたち男子は、生活室という、特別授業で使う教室で着替えながら喋っていた。
男子は、生活室まで行って水泳の着替えをして、女子は、いつもの四年生の教室で着替えをすることになっている。
「しっかし、ようけえ、なげえこと潜りおったなあ」
「練習したんじゃ。マーク・スピッツじゃ」
宗平くんは自慢げに胸を張る。
「ヒゲが足りんな」
いらん、と宗平くんは言下に言う。
宗平くんと恭介くんは仲が良かった。二人は近所に住んでいて、保育園からの付き合いである。
もっとも、この地域の生徒たちは大体が保育園からの顔見知りで、ごくまれに、一人か二人ほど他所からの出入りがあったりする。
ぼくや、亜里沙ちゃんがそうだった。
ぼくらは、三三五五に固まって時間つぶしの話をした。女子が四年生の教室を使っているので、誰かがぼくらを呼びに来ないと教室に帰れないのである。
昔は、男子が学年教室を使って、女子が特別教室を使っていたのだが、なにやら事情があって、それが逆転したらしい。そんな話を、ぼくは四つ離れた兄から聞いていた。
暇をつぶすぼくらの話はもっぱら、服に張りついたカエルだったりの漫画の話とか、宗平くんは読んだ本の話をしていた。
しかし、この日は、おかしかった。
普段なら、着替えて少し喋っている間に、日直の女子が呼びに来るのだが、ずいぶんと遅い。時計の針が、次の授業の開始時間に近づいているのに、誰も来ない。
呼びに来るのを忘れているんじゃないか、と不満の声が上がり始め、もう、教室に帰ろうという話が、そこかしこから上がって、ぼくらは教室に帰ることにした。
これで遅刻だなんだと怒られてはかなわないと、足早に向かう。
チャイムが鳴ったのと、教室から国木田先生が、難しい顔をして出てきたのは、同時の事だった。
「おう。はよう教室、入りんちゃい」
ぼくらに気付いた国木田先生はそう言って、踵を返して教室に戻っていった。
その声はどこか虚ろで、ぼくはてっきり、怒られるとばかり思っていたので、ぽかんとして国木田先生の後姿を見ていた。
他の男子たちも、なにか不穏当なものを感じたようで、無言で教室に入っていく。
ぼくは一足遅れて、教室に入った。
教室は、ぴんと張り詰めた糸のようだった。
足を踏み入れた途端、冷たく重苦しい空気がぼくを襲った。刺すような女子たちの視線を感じた。
誰にも言葉はなく、ただ、男子が歩いたり、椅子を引いて座ったりする、どこか無機質な音だけが、よそよそしく響いた。
「えー、授業の前に、みんなに聞きたいことがある」
全員が着席し、教壇に立った国木田先生が口を開いた。
首を回して教室を見渡した先生と、僅かに目が合った。みんな、と言いながら、言葉を向けた先が男子であることに、ぼくはそのとき気がついた。
「久住の上履きと、国語の教科書がのうなったんじゃ。だれか、知らんなら?」
しん、と教室が静まる。
ぼくの目線は、亜里沙ちゃんの座る席に動いていた。
湿って艶を失った髪が、元気なく背中に垂れている。彼女は、目を伏せ、耐えるように俯いていた。
女子たちの目線の意味が、ようやく分かった。
「水泳が始まる前には、あったんじゃ。なあ久住」
はい、と風鈴みたいに澄んだ細い声が、鳴った。
「だれか、知らんか」
静寂が、重石のように圧し掛かる。空気までが、重石で潰されてしまったように薄くなって、苦しくなった胸に、ぼくはこっそり息を吸う。
心臓の鼓動が、早くなっていた。ぼくも俯いた。
たっぷり、永遠とも思えるぐらいの時間がたった。授業の時間が終わってしまうんじゃないかと思う程に。
「……わかった。こねん場ぁで、ゆうのもえれえじゃろ。みな、目えつぶうて、わしがやりゆうモンは、手え上げるんじゃ」
ぼくは、目を瞑った。それでも、実は目を開けていると思われるのが嫌で、さらに深く俯いた。
ややあって、もうええぞ、という国木田先生の声が、閉じた闇の中で聞こえた。
目を開けると、窓から差す陽光に、目が眩んだ。
国木田先生は、口元を結んで、無言で教室を見回していた。それから、噛んで含めるように喋り出した。
「ええか。人のもん盗むゆうんは、ふうがわりい(みっともない)ことじゃ。ここに、そねんわるごはおらんと、先生はそう思うがじゃ。そんで、ええなら?」
どうやら、手を挙げた生徒はいないみたいだった。先生はそれで納得するつもりらしい。
息苦しさから解放される予感がして、ほっとした気持ちと、亜里沙ちゃんを可哀想に思う気持ちが入り混じって、なんとも言えずぼくは黙っていた。
ほかの生徒も何も言わない。
先生は沈黙を了承ととったように、小さく頷いた。再度、先生が口を開こうとした時だ。
先生の視線が、教室の隅を向いて固まった。
先生の視線を追うと、そこに、挙手をしている女子の姿があった。髪の短い子だ。
「小郷……」
「先生。こん中に、嘘ついちゅう人がおります」