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第四十七話:ある探偵の最期

 日も暮れなずむ頃だった。薄闇が広がり、世界の輪郭を曖昧にし始める刻。


 空の青は、赤とも紫ともつかぬ色に遷移しつつある。既に、白い骨のような小さな月が、黒塗りの闇と化した密林の端から登っていた。


 看護師——アビゲイル・シファは、現地人の医師と共に難民キャンプの中を回る往診助手としての務めを終え、手持ちの医療器具を拠点のテントへと持ち帰るところだった。細かい砂礫の地面は、よく見て歩かなければ足を挫きかねないほど、でこぼことしている。


 地面を俯いて歩く彼女の頭にあったのは、仕事を終えた幾許の疲労と、今日診た小さな患者の病状だった。


 まだ五歳に満たない患者は衰弱が進んでいるように見え、明確な原因は分からないまでも、早々に、中長期医療者用テントで重点的な治療が必要に思われる。だが、病床数も限られるテントでの治療を判断するのは、医師だった。その医師の判断したところは、経過観察である。


 アビゲイルは、下唇を噛んだ。


 自分たちの手は小さいのだと、思わずにいられない。医療資源も医療支援もままならないこの国では、受け止める端から次々と零れ落ちる水のように、救えるものと、救えないものがある。


 そんな無力感を、もう幾度となく繰り返しているけれど……その想いに、慣れは来なかった。無力に慣れてしまったときには、自分は、もう現場に立つことはできないだろう。


 思考に耽っていたせいで、大きく窪んだ地面に足を取られそうになって、アビゲイルは慌てて踏ん張った。


 そのときだった。


 パパパパ、という乾いた連続音が、アビゲイルの耳朶を打った。


 何気なく振り返る。後にしたばかりのキャンプの背後に茂る密林から、黒く小さな影が複数、ほの暗い空へ、ばさばさと飛び立っていった。


 その羽ばたきが不気味な余韻を残した。さきほどの音の正体に思考を回らせる束の間に、甲高い叫び声が遠くに聞こえ、アビゲイルは身を固くした。


 まさか。


 疑心と肯定、そして否定が、泡沫のようにアビゲイルの頭に浮き上がっては、消滅する。


 束の間の静寂に、彼女の中で張り詰めていた緊張が和らぎかけた時、再び、あの乾いた無機質な音が響いた。音は、深さを増しつつある闇に溶け込むように、消えた。


 怒号。長い悲鳴。


 アビゲイルは、向き直って駆けだした。心臓がばくばくと早鐘を打って、冷たい血液を全身に巡らせているのが分かった。


 襲撃は初めてだった。緊急時には一刻も早く撤退し、医療活動の継続可能性を残す。チームリーダーがいつもメンバーに掛けている言葉が、アビゲイルを動かした。


 一刻も早く、仲間のもとに、危機を伝えなければならない。


 拠点としているテント群は、すぐに視界に入った。住居用のテントから素早く飛び出してきた人影を見つけ、駆け寄る。背の高い、体格のいい同僚だった。


「おい。どうした? なにがあった?」


 男は、アビゲイルの姿を認めるなり、強張った声をあげた。


「わかんないよ。でも、あれはたぶん、銃声だよ」


 息を切らせながら、アビゲイルは声を絞り出した。


「リーダーは? アビィと一緒に、キャンプに行ってたんじゃなかったのか」


 血の気が引いていくのが分かる。彼は、まだキャンプにいる。


「もう少し、みんなと話をしてから、帰るからって……」

「くそっ」

「ねえ、どうしよう?」


 アビゲイルは、泣きだしそうな声で訊ねた。


「どうしようもあるか! 逃げるんだよ! 俺は、他のテントの奴らを叩き出して、治療テントに向かわせる。おまえは先に行って、ソウヘイに、患者と一緒に避難する準備をさせるんだ!」


 男はそれだけ言うと、踵を返して、林立するテントに走った。


 アビゲイルもまた、駆け出した。林立するテント群の端に、重傷者や重病者を治療するためのひと際大きな、遊牧民の使う(パオ)のようなテントがある。アビゲイルはテントに向かって、もつれそうになる足を必死で動かした。


 夜の(とばり)が白いテントの輪郭を曖昧にし、晦冥(かいめい)と混然となりつつあった。密林を背後に背負うテントはぼんやりと発光して、闇の中にその姿を浮き立たせている。室内の照明を点灯させているのだ。


 テントの入口を覆っていた幕が揺れた。眩い光源で目を細めたアビゲイルは、テントから慌ただしく飛び出してきた人影を認めた。


「ソウヘイ? ねえ、大変だよ!」


 アビゲイルが声をかけると、人影は怯えたように立ち止まってこちらを見た。明順応したアビゲイルの虹彩は光を絞り、その者のシルエットを黒い闇に同化させている。顔色は全くうかがえない。


「ソウヘイ?」


 一言も言葉を発することなく立ち尽くす人影に、アビゲイルがもう一度、怪訝な声をかける。声を契機に、人影は、弾かれたように密林に飛び込んだ。


「ねえったら!」


 その者の背中に向かって、アビゲイルが叫んだ。返事はなく、草木を掻きわける葉擦れの音と、小枝を踏みしめる騒々しい音を残して、その人物は密林の奥へ消えた。


 暫し呆然として人影を見送ったアビゲイルは、すぐ、気を持ち直した。先ほどのシルエットは、ソウヘイではない。姿勢が悪く、ソウヘイよりも些か小柄に見えた。


 再びテントの入口に足を向けたとき、すばしこいものが、アビゲイルの脇を駆け抜けていった。すれ違い際、暗がりの中で近づいたその顔が、辛うじて見えた。十代前半と思われる、小柄な少女だった。


 背後で、銃声が聞こえている。患者たちが慌てて逃げだしているのだと察したとき、アビゲイルは名状し難い感情に包まれた。不安に、胸を押さえつけられている。


 この銃声は、ソウヘイにも聞こえているはずなのだ。


 ——だとすればなぜ、ソウヘイは、黙ってテントの奥で息を潜めているのか。


 既に、避難をしてしまったのか。患者を置いて……。


 アビゲイルの歩は、遅々とした速度になった。一刻も早く避難すべきだという焦りと、首を掴まれて後ろに引っぱられているような感覚が混ざり合い、息苦しく浅い呼吸を繰り返す。


 テントの入口に立った時、消毒液の臭いに交じって、鉄くさい臭いが漂ってきた。


「ソウヘイ……?」


 テントの中は明るかった。直立する人影が見当たらず、目線を下に落とした時、その姿が目に入った。


 アビゲイルは息を呑んだ。


 床に転がるバイアル瓶と注射器。赤黒く染まった地面。

 そして今まさに、自らの腹部にメスを突き刺そうとしている男の姿が、そこにあった。


 アビゲイルの侵入した気配に気づいたのか、男は蒼白とした顔を気怠そうに持ち上げる。目が合った。

 男の口元が歪んでいく様を、アビゲイルは凝視していた。


「……頼む」


 血のあぶくを口の端から垂らし、男はかすれた声を上げる。


 日に焼けた顔には、微かな笑みを浮かんでいた。


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