第四十四話:同行者
新神戸駅の新幹線改札を通り過ぎた文治は、欠伸を噛み殺した。身体には気怠さがある。短い休息では、疲労を十分に取ることができなかったようだと、ぼんやり思う。
昨夜、神戸駅に降り立ったころには日付を越えていた。疲れ果てて宿を探した結果、駅から近いビジネスホテルに空きがあったのは助かったのだが、恵香の話を聞いた興奮のせいか、ベッドに入ってもなかなか寝付けず、ようやく眠ったのは朝方だった記憶がある。
今日とて東京での用事をこなすために、さほど睡眠を貪婪に貪る訳にもいかず、いつも通り朝七時に目を覚ました。
人の波に流されるようにして、文治は漫然と新幹線のホームへと急いだ。早く東京に向かう新幹線に乗って、少しでも睡眠をとりたかった。
午後からは、外務省の庁舎へ行き、担当者のもとを訪れる予定になっている。
ただ歩くことに没頭し、頭が判然としなかったせいだろう。文治がその声に気がつくのには、時間がかかった。
「ねえ。お・は・よ・う!」
後ろから追い縋ってきて、並び立った者の姿が視界に入る。その顔を確かめて、文治は少なからず驚いた。
「あ。梅澤愛華さん……」
「おはようございます」
にっ、と快活な笑みを浮かべて、愛華は頭を下げた。グレーのスーツを着た愛華は、昨夜のだらしない部屋着の姿とは印象が違い、清廉として見えた。
「もう。全然気づかないから、無視されてるかと思いました」
「すみません。ぼんやりしていて。こんなところで会うなんて、奇遇ですね」
文治がそう言うと、愛華は、意味ありげな顔をした。
「偶然じゃないですよ。強いて言うなら、必然ですね」
寝惚けた頭では、愛華の意のある所を掴みかねた。言葉を探している文治の眼前に、愛華から茶色い紙袋が差し出される。
「ほらこれ、シュークリーム。やわらかい奴なので、安心してください」
「はあ。どうも」
紙袋を掴んで引き取った。ずっしりとした重みを感じる。いくつか商品が入っているようだ。わざわざ先日の非礼を詫びに来たのかと、得心する。
「じゃあ、行きましょうか?」
愛華が、唐突に言った。
「え?」
「え? じゃないですよ。東京、行くんですよね?」
怪訝そうな顔をして、愛華はこちらをみた。その言葉が愛華の同行を意味すると気付くために、たっぷり数秒の時間を要した。
それから東京まで、文治の疲労は、重なる一方だった。
愛華の提案に従い、指定席券を買っていた便を後続便に繰り下げて、自由席に座らせられる(原則的に指定席券では自由席に座れないらしい。後続便ならば特例として可能だと文治は初めて知った)と、暇を持て余した愛華の話し相手になった。適当に相槌を打っても話は止まないどころか、不機嫌になって問い詰めてくる。
また道中では、愛華に唐突に袖を引かれて、名古屋駅で新幹線を降りた。
ホームの駅蕎麦屋で、きしめんを食べたかったのを思い出したのだと言う。朝食とも昼食ともつかない食事で空腹感はなかったが、幅広いわりに柔らかすぎずコシのある麵は、意外にもするすると文治の胃に収まった。
愛華は椀に残ったツユまで完食して満足げだった。不機嫌の理由には、彼女の腹具合のせいもあったのだろう。
「だからわたし、早起きしてほぼ始発から待ってたんですよ。東京に帰るんなら、新幹線口にくるだろうなあって、思って」
再乗車した東京行の新幹線で、愛華は幾度目かの話を繰り返した。彼女の手元のシュークリームは文治に渡されたものだったが、自分でも食べるつもりで大目に買ったらしい。
「別に、待っていてくれとは、言ってませんし……」
「連れない返事ですね。もう、一蓮托生みたいなものじゃない」
「……お仕事は、いいんですか」
「仕事? ご心配なく。もともと、今日は実家にいるつもりで、休暇を取ってたので」
「なるほど」
得心した、とばかりに頷いてみせる。その内心は、鼻白んでいた。
宗平叔父と縁故のある自分だから聞ける話こそあれ、野次馬のような愛華が居ては、取材対象の口が重くなるかもしれない。やんわりと、断る口実はないだろか……。
気がつくと、愛華がこちらを見ていた。訝し気な目が迫っている。
「いま、厄介払いしようとしてます?」
「……ええ、まあ。実際のところ」
一瞬の逡巡の末、本音が漏れる。疲労も相俟って、言辞を弄する気も失せてきていた。
「わかってないなあ」
愛華は、呆れたように言った。
「いいですか。数こそ力ですよ。梶山さんみたいな、うだつの上がらないオジサンが話を聞きに行っても、相手は、今までみたいに素直に話してくれるか分からないんです。そういうときは数で攻めるんですが、多すぎてもいけない。三人だと、相手に圧が掛かりすぎる。交渉ごとは、一対二の構成比が、最も上手くいくんですよ?」
愛華は、心得顔で説明した。
「オジサンって。……梅澤さんと、ほとんど歳は変わらないはずなんだけど」
文治は、苦笑する。
「だから、問題はそこじゃなくてですね。いまは、数の話なんですよ!」
眉を吊り上げて興奮した愛華は、いかに自分が有用であるか、話し相手が女性である場合には不可欠な存在であるかを力説する。
根拠薄弱の言い条に反論する余力もなく、静岡を通過するまで続いた論舌を、文治は不承不承ながら受け入れた。ようやく口を閉じた愛華は、満足したのかシュークリームを二個も平らげた。細身の割に大食漢のようだった。
車窓から富士山が過ぎ去ったころ、愛華がふいに口を開いた。
「……なんだか、拍子抜け」
窓際の席に座る彼女を振り向くと、それまで車窓を眺めていたらしい視線が、こちらを向いた。快活さを押し込めたまっすぐな視線を受け止め、文治は、彼女の言葉を待った。
「聞かないんですか? 私が付いていく理由」
「さっき、訊いたと思いますが。自分がいた方が便利だって」
「それは効用。理由とは違う」
憮然とした顔つきで、愛華は呟く。
「……じゃあ、理由を聞いても?」
「うーん。今は、やめておくわ」
そう言って、愛華は、車窓の流れる風景に視線を戻した。それきり、静かになった。
文治は静かに溜息をつき、瞑目した。気分屋の愛華とのやり取りで、どっと疲れた気がした。
真昼に東京駅に着き、新幹線の改札を出た。駅構内を行き交う人ごみは、互いに無関心に蠢いている。
「それで、どこに行くんです?」
後ろを付いてくる愛華が、訊ねる。
「外務省の本庁舎」
文治は、そっけなく答えた。
足早に地下鉄に乗り換えて、丸ノ内線で霞ヶ関へ向かった。その間、愛華は黙々として後をついて来た。
地下鉄出口から地上に出ると、蒸し蒸しとした熱気が襲い掛かってきた。
薄墨を溶かしたような雲が空を覆っている。日差しはないが、湿度が高く不快な暑さである。目の前には、八階建てほどもある庁舎が、嶷然と佇んでいた。
その外貌に圧倒され、文治は、しばし息を呑んだ。
政治部の記者なら慣れたものなのかもしれないが、自分のような人間には縁遠い場所である。目の前にある門扉には三人の警備員が立っていて、それぞれが入構する人間や車を監視しているのが、余計に気後れした原因かもしれない
警備員の一人の目がこちらに向いたのに気が付いて、はっとして歩き出した。
特別警戒実施中と書かれた物々しい立て板看板を通り過ぎて、中央門へと向かう。
手荷物検査や身分証の確認など、厳重な確認を経て庁舎内に入る。庁舎の中には再び受付があり、受付の女性に担当者の名前を告げると、ややあって、団子のような顔をした若い男がやってきた。
「梶山文治さんですか?」
文治は頷いてから、おずおずと話しかけてきた相手を見つめる。




