第四十三話:脚色されたストーリー
文治は、梅澤家を出た。エレベータを降りたマンションのロビーで、顔を真っ赤にして酔っ払った様子の男性とすれ違った。どこかで見たような丸顔をしていた。
ロビーを出ると、夜風が頬に触れた。興奮で火照った顔から、熱が奪われて心地よい。深夜に近いというのに、街燈は煌々として、道を照らしている。
鷹取から神戸駅へ向かう終電は、深夜零時直前だったはずだ。まだ、少し時間の余裕はある。もし乗り損ねたら、タクシーでもいい。
鷹取駅に向かう道すがら、文治は、恵香の語った話を思い返していた。
葬儀に現れた霧生薫——工藤海晴とは、いったい何者だったのか。単なる与太者であれば意に介する必要はないが、当てこするようにその名前を使ったからには、何か重大な意図があるとしか思えなかった。
しかし、よくよく考えてみれば、その名前は本来なら梶山家には通じないはずのものであり、男の動機は読み切れない。
問題は他にもある。先ほど聞いた話を記事にしたとして、どうしても悩ましい内容が含まれていた。
なぜ、宗平叔父はみすみす、霧生薫を逃がしたのだろう。
おまえを追いかける、と彼は言った。だが、霧生があの場から逃げてしまえば、本当に霧生を捕まえられるかどうかは不明で、決して叔父が望んだとおりの結末が訪れるとは限らない。
事前に早乙女佐助を呼び出していたなら、警察を待機させておくこともできたはずだ。その方がもっと確実に、霧生薫に罪を償わせることができたのではないか。
そんな簡単なことに、梶山宗平が気付かなかったはずはない。
だとしたら、なぜ……。
「おっ」
考え事をしていた文治は、目下に転がる黒いゴミ袋に気付かず、足を引っかけてつんのめった。蹈鞴を踏み、なんとか態勢を保つ。
「危な……」
思わず飛び出た独り言が、ひと気のない通りに響いた。ゴミ袋の山から、道端に転がり落ちてきたものらしい。暗闇と一体になって、見えなかった。
さあっと、血の気が引いていくのが分かった。呼吸の仕方を忘れてしまったみたいに、息ができなくなった。
もしかして、これなのか。
叔父がみすみす、霧生薫を逃がしたこと。
だがその一方で霧生薫が迎えた最期は、階段からの落下死という、あまりに出来すぎたストーリーであること。
そう。ストーリーなのだ。
すべては叔父が望んだストーリーなのだとしたら。
叔父は、ストーリーテラーである。
もし、夜の暗い階段に、目視困難で頑丈な糸が、張られていたならばどうだ。例えば、釣り糸か何かが。
——真っ先に駆けだしたのは、宗平だったわ。
——先頭を走っていた宗平が、ぴたりと足を止めたの。彼は手を伸ばして、私の進行を止めたわ。
——宗平が、気力を失ったように、しゃがみ込んだ。
霧生薫が軽トラックで絵画を運搬する光景を目撃してから、霧生と恵香に遅れて美術室にやってくる宗平には、トラップを構築する時間があった。
更に、他の者を犠牲にすることなく自分が真っ先に現場に駆け付け、周囲の人間が現場に目を奪われている隙に、仕掛けを回収することも……叔父には、できた。
でも、密かに呼びつけていた早乙女先生はどうする。西階段を通って美術室まで来られてしまえば、先に仕掛けにかかってしまう可能性もある。
いや、簡単だ。
西階段では美術室に足音が聞こえるなどと言って、東階段を上がるように伝えておけばいい。仕掛けは、維持される。
そこまで考えて、文治は首を振る。
考え過ぎだと自分でも思う。証拠は何も残っていない。霧生薫が必ず階段で転ぶ保証だってなかったはずだ。
第一、宗平は医者を志す人間である。そんな人間が、簡単に人を害そうと考えるとは、思えない。
——面白い真実はそのままに、面白くない真実は、面白く脚色しないといけないんだって。
ふいに、恵香の言葉が頭をリフレインした。いくら言い聞かせようとも、一度、頭に訪れた疑惑は、簡単には去ってくれなかった。
霧生の最期は、梶山宗平が自ら下した、裁きの鉄槌なのだろうか。
全ては、劇的な最期を演出するため、自らが描いた脚色だったのだろうか。
葬儀に現れた工藤海晴の正体は何者なのか。
真実は、夜の晦冥に深く溶け込んでいる。今は亡き、旧校舎に。
そのとき、また夜風が吹いた。
風は生暖かい。不快な熱が、まとわりつくようにして文治の頬を撫でていった。
~~~2章(了)~~~




