第四十一話:美術室のミヤコさん⑭
早乙女先生は、か細い声で、ぽつり、ぽつりと語ったわ。
男子生徒たちにいじめられていた早乙女先生は、その化学実験の作業中、ふざけた男子たちに、硫酸を近づけられていた。男子たちだって、もちろん硫酸をかけるつもりはなかったはずよ。
それが、どうしたはずみか、硫酸を手にしていた男子生徒がバランスを崩して、それが、早乙女先生にかかりそうになった。咄嗟にそれを助けたのが、園田美也子さんだった。
「俺のせいで、美也子ちゃんは大やけどを負った。なんで、美也子ちゃんが助けてくれたのか、俺には分からん。
俺は……美也子ちゃんが好きやった。でも、何度か渡した恋文も、美也子ちゃんは、返事をくれんかったし……。俺の事なんて、どうでもいい人間やと思っとったはずやのに」
早乙女先生は、うな垂れていた。
胸に迫るものがあったわ。園田美也子さんは、その美貌を疎まれて、硫酸をかけられたのかと思っていたけど……。実際は、早乙女先生を庇って、火傷を負ったのね。
先生のやるせない気持ちは、どれほどのものでしょう。自分が被るはずの傷を、偶然か意図してか、代わりに被った彼女のことを思えば、先生はさぞ自分自身を責めていたに違いないわ。
それも、自分がなぜ助けられたのかも、分からぬままに……。
ふと、脳裏に閃光のようなものが瞬いた気がした。
園田美也子さんは孤高だったわ。周囲との関りも、自ら避けていたようなのよ。それがなぜ、早乙女先生を助けようと、動いたのか。それはもしかして、彼女が唯一繋がっていた霧生と決別しようとしたことと、関係があるんじゃないかって。
全てが、一つの線になった気がしたわ。
「私は、分かる気がします」
早乙女先生の話を聞いて、胸が苦しくなって。でも、自然と、その言葉が口をついて出ていたわ。
他人のことが分かる、だなんて、偉そうなことだと思う。でも……そうね。そう思いたかったのかもしれない。
目を背けたくなるような悪意に触れて、美しいものに縋りたくなった。
だって、愛や信頼って、美しいでしょう?
「園田美也子さんは、美しく孤高だった。でも、決して、愛を求めなかったわけではないと思うんです。霧生先生と園田美也子さんとの間にも、最初は愛があったはずでした。でもそれは、偽りだった。
自らに施されるものが、愛ではなく打算だと、聡明な園田さんはどこかで気付いたんだと思います。その時から彼女は、更に孤独になった。そんな彼女にとって、早乙女先生の純然たる愛こそが、目もあやな美しいものに映ったのは……当然のことだったはずです。
だからこそ、彼女は早乙女先生を守りたかった」
「なら、どうして。俺になんも、返事をくれんかったんや」
美しいからこそ、よね。
だからこそ、その完全性を保ちたいと思うものじゃないかしら。私は、園田美也子さんには会ったことはなかったけれど、彼女のそれまでの行動を聞いていれば、その性状は推察できる。
園田さんの美への追求は、自らの身も心も犠牲にする、一途なものだったはずよ。そうだとすれば、考えるまでもなかった。
「……やましいことがあると、無償の愛を受け入れることができないものです。自分が愛に見合う人間なのか、考えてしまう。……だからこそ、園田美也子さんは、霧生先生との罪の清算を決意したんじゃないでしょうか。あなたの愛に、見合う人間になるために」
決意をしたのは、火傷を負う、もっと前。
早乙女先生を助けようとする前から、園田美也子さんは、罪の清算を決意していたのかもしれない。
私は、背筋が粟立つ心地がした。園田さんがコンクールに出す予定もない自画像を描いていたのは、早乙女先生に贈るためだったんじゃないか……。
早乙女先生は、床に屈みこんで、低く嗚咽していた。窓から忍び寄る薄闇が、先生の白いシャツを浮き立たせていた。
私は、その背中を美しいと思った。今は亡き彼女に捧げられた涙を。
隣室の物音は、気がつくと止んでいたわ。霧生薫が、証拠になりそうなものをもって逃げたのかもしれない。もう、どうでもいいことだった。
遠くで、激しい物音がしたのは、その時だったわ。続いたのは、獣のような低い唸り声。
私たちは、はっと、顔を見合わせた。
「霧生が、まさか誰かを……」
宗平の顔が青ざめていた。真っ先に駆けだしたのは、宗平だったわ。私たちは、急いで声の出所に向かった。
といっても、場所が分からなかったから、とりあえず美術室を出て、暗い廊下を駆けたわ。後ろから、早乙女先生がついて来た。
すると、先頭を走っていた宗平が、ぴたりと足を止めたの。彼は手を伸ばして、私の進行を止めたわ。ぶつかりそうになって、慌てて私も止まった。
そこは、西階段だった。
宗平の視線は、階段の下を見ていた。踊り場をね。
私は、その目線の先を追ったわ。そこには、大きな窓があって、うすぼんやりとした微かな明かりが、踊り場を照らしていた。
宗平が、気力を失ったように、しゃがみ込んだわ。宗平の後ろにいたから、彼がどんな顔をしていたのかは、見えなかった。でも、彼がしゃがんだおかげで、踊り場の様子がよく見えたわ。
私がそれを見たのは、一瞬のことだった。でも、しっかりと、目に焼き付いてしまった。
——旧校舎二階、西階段にある踊り場の鏡を夜に見ると、死に顔が映る。
六不思議の一つよ。鏡に映っていたのは、老人の死。
踊り場に転がっていたのは、霧生薫。
膨らんだ麻の袋が横に落ちていたわ。美術準備室から、証拠になりそうなものを持って逃げようとしたのでしょうね。
そして、彼の手には、あのとき私たちに突き出されたペインティングナイフが握られていた。
その切っ先は、他でもない霧生自身に向かっていたわ。
ナイフは、彼の口を耳まで引き裂くように、顔に深々と刺さっていた。踊り場は、少しずつ黒に染まっていく。
窓が揺れたわ。風が吹いたのでしょうね。そんなことを考える余裕は、その場にいた私にはなかったけど。
家鳴りがして、ぎいと短い音を立てて、旧校舎が軋んだわ。
それはまるで、女性が低く啜り泣いているようだった……。
/////////




