第二十二話:目撃者
静かな病室で、アビゲイルは、すうっと息を吸った。
クーラーで快適な温度に下げられた冷気が、肺を満たす。冷えた肺は、血液まで冷やしていくような心地がした。
ここは、リサラではない。襲撃を受けたゴマでもない。完璧に管理された場所なのだ、とアビゲイルは思う。
この場所は安穏そのものだった。耳を弄する爆撃音も聞こえなければ、口や喉にへばりつき肺まで侵すほどの砂塵も舞っていない。
しかし、極限に保たれた清浄に相対するような日常を、アビゲイルは否応なしに思い出してしまう。言い知れぬ不安が胸を塞ぎ始める。
自分は、あの地に戻れるだろうか。
仕事に、戻りたいだろうか。
病室のドアを叩く甲高い音がして、アビゲイルは、はっとした。
「アビィ。お客さんよ。入ってもらっていい?」
「ああ。いいよ」
聞きなれている、太った女性看護師の声だった。アビゲイルは、客を迎えるために上半身を起こした。
何気なくベッドの正面壁に飾られている時計を見ると、時計の針は十四時きっかりを指し示している。
その几帳面さに、思わず苦笑する。日本人とは、皆、こうなのだろうか。
もし恋人が分刻みのスケジュールを強要してきたら、自分は発狂してしまうかもしれない。
もっとも、恋人なんて作る暇もないのだけど。
「失礼します」
流暢なフランス語が聞こえた。
やぼったい鼈甲色の眼鏡をかけ、乱れのないグレイのスーツを着こなした若い日本人の女が、お辞儀をして入ってきた。
背中に垂らした黒髪のポニーテールが、ふわりと揺れた。アビゲイルに一瞥をくれ、無言のまま部屋を横切る。
アビゲイルは、もはや見慣れつつある静謐な女性を目で追った。
在コンゴ日本大使館の外交官、椎名真麗。並んで立ったことはないので分からないが、たぶん自分より背が高くて、一七〇センチはある。
ハリのある肌をしていて、まだ三〇代かもしれない。
アビゲイルが彼女を苦手に思っている理由は、外見だけではなかった。
刃物で切って開いたような鋭利な目つきが、心を見通そうとするようにこちらを見つめてくるのだ。
冷たく鋭いのは目だけではなくて、彼女が口角を上げたところだって、いまだ見たことがない。
まるで、感情をどこかに置いてきぼりにしたみたいだった。
キンシャサの暑さのもと、スーツを着ているのに汗一つかいていないところにだって、人間味が無い。
「今日は何を話したらいいの?」
無言の真麗に掛けるアビゲイルの声は、自然とそっけない言い方になる。
「事件のことです」
真麗はためらいのない足取りで歩き、ベッドサイドに置かれた面会者用の椅子に座った。座っても目の位置は依然として高く、見下すような目つきになる。
アビゲイルはずっと真麗を目で追っていたが、その顔は入室時から全く変化していないように見えた。
「何度来てもらっても、同じだと思うよ」
「話しているうちに思い出すということも、あるでしょうから」
「……どうかね」
再三の来訪を受け、うんざりしつつある。でも喋らなければ頑なに帰ろうとしないので、アビゲイルは今まで、記憶をひねり出すように語らざるを得なかった。
真麗のしかつめらしい顔を見ながら、アビゲイルは思う。この女には、病人をいたわろうという気持ちは、無いのだろうか、と。
鬱屈した気分と不満とが、唐突に悪戯な心を喚起させ、アビゲイルの口を開かせた。
「あんた、恋人いないでしょ」
そう言って、アビゲイルはじっと真麗を観察した。わずかにだが、真麗のへの字に曲がった唇が尖がったのが見えて、密かに心が浮き立った。
しかし、期待した変化はそれだけだった。すぐさま、淡々とした声が返ってきた。
「随分と、お元気になられたようですね。結構なことです」
「ああ。こんなところに長々と閉じ込められてちゃね。あんたからも医者に言ってくれよ。わたしはもう大丈夫だって」
「私は医者ではないので判断しかねます。まだ入院しているのは、医者の指示でしょう?
患者の自己診断がどれほど信用ならないものか、看護師のあなたなら分かるはずでは?」
「看護師だから分かるのさ。問題ないってね。大方、病院が金をせびりたいだけなんじゃないか?
今の私なら、共和国のブラザヴィルまでコンゴ川を泳いで渡ることだって、できるだろうさ」
アビゲイルが鼻を鳴らす。それを見て、真麗は眼鏡を押し上げた。きらりと、眼鏡が照明で煌いた。
「それは結構。今日は、いつもより長くお話を聞けそうで、私としても何よりです」
見せつけてやるつもりで、アビゲイルは溜息を吐いた。やっぱり、この女には人をいたわる気持ちがない。
ふと、インターネットで見た、日本の首都トウキョーの風景が脳裏にちらついた。
時間きっかりに到着する電車と、乗客を電車に押し込めようとする鉄道社員だ。動画によれば、マンインデンシャという日常の儀式らしかった。
箱に押し込められて送り出される人々の顔に、表情はない。
椎名真麗もそれに似ている。
感情を鋼鉄の箱に仕舞って、時間と規範という歯車で動く、機械仕掛けの人形。
アビゲイルは、大した期待もなく真麗の反応を窺う。少しばかり怯んでくれればいいと思った。
あからさまな溜息にも視線にも、真麗に動じた様子はない。それどころか、真麗は僅かに椅子から身を乗り出してきた。
いよいよ戦闘態勢に入ったのだ。
長い戦いを予想して、アビゲイルは天を仰ぎたくなった。
真麗のまっすぐな瞳が、こちらを見つめる。
「さあ、無駄話はここまで。話してみてください。そして、思い出してほしい。
難民キャンプに襲撃があったあの日、ドクター梶原の医療テントから出てきた二人の人間は誰だったのか。
証言できるのは、生き残ったあなたしか、いないのですよ」




