第二十一話:看護師<アビゲイル・シファ>
窓の外を見やると、眼下の大通りを挟んで対面するビルに陽の光が反射して、アビゲイル・シファは目を細めた。
白く清潔な病室は目が眩むほどの光を吸収し、燐光したように室内の輪郭を曖昧にしている。
三日、晴天が続いていた。雨を降らすような黒い雲は、見渡す視界のどこにもなかった。
窓の向こうでは高低さまざまなビルが乱立し、大通りの背後に広がる視界を遮っている。ビルの背後にはコンゴ川が流れているはずだった。
アビゲイルは、ビルの隙間に目を凝らし、ようやくコンゴ川の流れを見つけた。川の周囲に、押し込められたように僅かに茂る緑に目をやって、薄い溜息を吐いた。
コンゴ民主共和国、首都キンシャサ市。
ここキンシャサ市は、約一五〇〇万人が暮らすアフリカ有数のメガシティである。
大通りには統一感のない高層建築が立ち並び、通りを外れると背の低い家々や緑の木々が広がっている、人工と自然が共存した都市だった。
様々な人種、物、思惑が行き交う街でもある。アビゲイルは、肥沃な緑を追いやって人間の思い通りに作り変えられたキンシャサの街なみが、好きではなかった。
——そろそろ、外に出たい。
さしもの彼女も、ぼんやりと思った。
町に出て、何かをしたいわけではない。ただ、一年のうちたった四ヶ月しかない乾季の一週間近くを、すでに外を眺めるだけの生活に費やしている。
長い雨季の間に溜め込んだ、黒く粘着質な泥のような汚れを、カサカサに乾かして取り去ってしまいたかった。
しばらく帰省していない故郷リサラの情景が無性に懐かしいのは、こんな時だからかもしれない。
アビゲイル・シファは、コンゴ民主共和国モンガラ州リサラの生まれである。
コンゴの内陸部北西地域、赤道直下に位置するリサラは、陸路を行けば首都キンシャサから約三〇〇〇キロも離れた距離にある。
これはちょうど、北海道北端の宗谷岬から、九州最南端の佐多岬までの距離にほぼ等しい。
リサラは鬱蒼と茂る熱帯雨林に周囲を囲まれながらも、コンゴ川沿いに発展してきた街だった。
人口約十万人が暮らし、モンガラ州の州都でもある。空港に大学、病院が立地し、コンゴ民主共和国の中でも比較的治安の安定した地域だった。
街といえどキンサシャとは対称的に、森の中に家々が追いやられているような、自然溢れる土地だ。
道もコンクリートではなく、風が吹けば砂塵が舞う砂だらけの未舗装路で、雨季には道がどろどろになって通行が困難になってしまう。
アビゲイルは、そんな自然に囲まれたリサラの行商人、アントニー・シファのもとで五人姉弟の長女として生まれた。
商魂逞しいアントニーは、不自由な陸路ではなく、コンゴ川の水運を巧みに利用した。
コンゴ川の下流域はキンシャサ市、上流域は内陸部の大都市キサンガニまで、オナトラ船という巨大な船で往来したのだった。
オナトラ船とは、一隻の動力船に五隻のはしけをワイヤーでつないだ、全長二〇〇メートルにも及ぶ巨大船である。もっとも、船と言っても鋼鉄で作られたような立派なものではない。離れてみれば、板の上に市場が浮いて流れているようにも見える。
川は便利が良かった。
コンゴ川を下ったならば、陸路で三〇〇〇キロともなるリサラからキンシャサまでの行程は、一〇〇〇キロ程度まで短くなり、遠距離の陸路や未開の熱帯雨林を突き進むよりもはるかに安全に、はるかに少ない労力で行き来ができたのだ。
この地の民族が生来そうであるように、気さくで人当たりがいいアントニーに商売は向いていた。
財務の才も彼に味方した。取引相手の足元を見て手練手管を弄するのではなく、誠実な取引や広域な流通網も幸いして、アントニーの商売は着実に利益を上げていった。
アントニーのおかげで、妻イレーヌとアビゲイルたち姉弟は、リサラの街で不自由なく暮らすことができたし、アビゲイルは、学校にも通うことができた。彼女にとって唯一の不満は、商売のため父が家を留守にしがちなことだった。
幼少のアビゲイルは、学校が終わると、よくコンゴ川の河畔へと走った。
リサラの船着き場にある桟橋に座って、遥か遠くに見切れるコンゴ川の水平線に目を凝らすのだ。
父アントニーが往来に使う不定期船を待つためだった。アントニーが遠方への商売の度に買ってくる土産が楽しみだったし、何より、優しく力強い父と会える日を、アビゲイルはいつも待ちわびていた。
傾いた夕陽が川や森を真っ赤に燃やすまで、アビゲイルは待った。もちろん、不定期船が着岸するのは朝や昼といった時間帯の方が多かったのだが、それでも、彼女は待った。船が来ないと分かると、父を詰りながら帰った。
そして幸運にも父の帰船に遭遇したときには、手の舞い足の踏む所を知らずといった調子で狂喜した。
巨大な船影が、コンゴ川が描く水平線からゆっくりと姿を現し、その全貌を露わにする。
甲板や通路にはおびただしい人間がひしめき、煮炊きし、商売をし、行水をするものもある。
ヤギやサルまでが紐に繋がれて飼われ、さながらノアの箱舟のような船の甲板で、父はいつも黄色い目立つ服を着ていたから、アビゲイルには一目でわかった。上陸した父に抱き着くと、父には、もっと女の子らしくしろと窘められたのは一度では済まない。
一月待ち、二月待つことはざらだった。父は帰ってきた。
三月や、四月待つこともあった。父は変わらぬ様子で帰ってきた。
そして、一年がたち、二年がたったときだ。
父は、帰ってこなかった。
キサンガニへ行くと言って、消息が知れなくなった。母のイレーヌは、父は死んだのだと嘆いた。
イレーヌの知る限り、これほど長い間、家を留守にしたことはなかったからだ。
けれど、頑固で勝気なアビゲイルは母の言葉を信じなかった。誰も、父が死んだところを見ていない。
リサラに居れば、死んだ人間のことはすぐわかったから、死んだと分かっていないなら、生きているのだと、彼女は思った。
その頃の彼女は、学校で学んだ机上の世界を、実在として知覚するには幼過ぎた。
実在の世界では……このコンゴ民主共和国にすら一億人近い人間がひしめき、その生死も行方も知れぬ例など、数限りがないことに。
アビゲイルは、学校を卒業するとリサラを出てキンシャサに向かった。働きながら看護師を目指すためだった。
父を失ったシファ家を長女として支える必要があったし、働く女性として彼女が真っ先にイメージしたのは、医療に携わる看護師だった。
リサラには病院もあったが、車やバイクで遠方から訪れる医師や看護師たちの方が印象深い。
アビゲイルが一度、酷い病気にかかって運び込まれたのは、彼女らのテントだった。看護師がてきぱきと処置を施していく様に、憧憬を抱いた。肌の色の薄い女性だった。
高熱にうなされるアビゲイルを、心配そうに見ている顔を、覚えている。
もっとも、医療を学べば、どこかに居るかもしれない父を救える……そんな潜在意識が、彼女にあったのかもしれない。
看護師として、人道支援団体の門を叩いたこともまた、コンゴの深き熱帯雨林に消えた父を探したい思いが、そうさせたのかもしれない。
いずれにせよ、アビゲイルは自らの根幹に潜む父の影を自覚しないまま、看護師を続けて十数年になる。
彼女が反政府武装勢力による襲撃に巻き込まれたのは、僅か一週間ばかり前の事だった。




