第二話:死の真相
フライト中は、結局一睡もできなかった。
神戸空港を出ると、札幌と打って変わって、多湿の熱気が身体に襲い掛かってきた。
見上げた空には薄墨色の雲が広がり、陽は遮られているが、十分に暑い。西の方に、分厚く黒い雲が見えた。じき、雨が降るのかもしれない。
じっとりと、背中に汗が滲んでいく感触があった。
文治は、空港で購入したミネラルウォータ―で口と喉を潤してから、電車で六甲駅へと向かった。
六甲駅を出て、徒歩五分ほど歩いたところに、梶山家はある。
大通りを折れて、車二台がすれ違うのがやっとという坂を上っていくうち、じんわりとした郷愁の念に打たれた。
小学校へ向かう道すがら、ぼろぼろでお化け屋敷のようだと、自然と早足に通り過ぎた陋屋が、いまや更地になっていた。
就職してしばらく足が遠のいていたから、久しいこと七年近い。
毎年、正月は帰るのかという母の問いに、仕事が忙しいと言って帰らずにいた。
付帯情報として、「邦彦が帰ってくるけど」、「博之が帰ってくるけど」といった言葉が母の問いに加わるにつけ、気分は黒い靄のように暗く停滞したものだった。
家に近づくにつれ、足は重くなった。背中に背負った大きめのリュックサックが、襟首をつかんで後ろに引っ張っているようだった。
かといって、それほどもたもたとしている時間もなかった。
家では、両親が慌ただしく準備をしている頃だろう。飛行機を降りたところで母から来ていた連絡に気がついた。
兄貴と博之は、それぞれ東京から直接、岡山へ向かうらしく、自分はといえば、両親と神戸で合流したのちに、岡山へ向かうことになっている。
見覚えのない赤い屋根をした新築を通り過ぎると、道の両脇に立つ家々に狭められていた薄灰色の空が突如開けた。
Y字に分岐して更に登っていく二つの坂道と、道に挟まれた狭い墓地に着いたのである。
石垣を組んで段々になった土地に、古いのと新しいのが混じった墓石が屹立している。墓を越えた向こうに、青い屋根の家が見えた。
目頭がかすかに熱を持ち、文治は目を瞬いた。
日本という規模で見ればさほど珍しくもないはずの宅地の情景に、曰く言い難い感傷が刹那に膨れ上がり、そして、萎んで消えた。
あとには、ささくれのような目に見えぬほどの棘が残り、じくじくとした仄かな痛みが確かにあった。
文治は、額に滲んだ汗を腕で拭う。ふう、とわざとらしく息を吐き、残り僅かの帰路を上り詰めた。
自宅に着くと、玄関で出迎えた母の秋子は、曇らせた顔に口元だけの笑みを浮かべた。
「あんた、痩せたんやない?」
そうかな、と返す。母さんこそ、と続けそうになった言葉を、文治は飲み込んだ。元々小柄だった母が、記憶と比べ一段と小さくなった気がした。
自分だけが時の歩みに取り残されているうち、母は着実に七年の歳月をその身に刻んでいる。
文治は、目線を落とした。再び顔を上げる間に、母はまたぞろ、歳を重ねるのではないかと思えた。
「喪服、俺の部屋にあるよね」
靴を脱ぎながら、母の顔を見ないで、訊いた。
「出しといたよ」
二言、三言交わすと、母は荷造りのために引き返していった。
リビングに入ると、部屋着姿の父、勲夫が、ソファでテレビを見ていた。お昼のニュースが流れている。
「ただいま」
勲夫は、おう、とこちらを振り向いて答えた。学校から帰ったのか、とでも言うように淡泊な声だった。
勲夫の頭髪には白いものが、よく目についた。枯れ木の樹皮のような乾いた肌に、丸顔の額には皺が寄っている。垂れ目気味の瞳は、穏やかだった。
「ようけ、早う着いたな」
午前中には着く予定だと伝えていたので、時間通りで、それほど早くはない。新幹線なら二時間くらいか、という父の問いには、北海道から来た、と答えた。
それから、父は色々と仕事について尋ねてきた。L字に配置されたソファの、父から遠いところに、しずしずと腰を下ろした。
そこが子供の頃の定位置だった気がする。しかし、見慣れたはずの視界が、余所の家のように落ち着かない。
家に融和したような父に比べ、自分の存在が、屋根色の如き青の原色の中でマーブル状に別離した、毒々しい紫のように思える。
足の置き場も、荷物の置き場も、一挙手一投足が家に拒絶されている心地がした。
父は、相槌もそこそこに、質問を繰り返した。元来、父は口数の多い人では無い。その姿は、抜け落ちた時間を埋めるようであり、また、何かを考えまいとしているようでもあった。
しばしの質問を終えると、沈黙があった。
ニュースは、天気予報に変わっていた。午後から雨が降るらしい。しばらく雨が続くのだという。
反射的に、雨に濡れる取材機材の心配が頭をよぎり、嫌気が興った。
だが思い返せば、休暇にしろと係長に言われ、機材は全て北海道に置いてきたのである。
叔父の死を取材しようと思っていたはずが、これでは、何をしに来たのか分からない。
——ちゃんと、悼んで来い。
普段は口うるさい係長の、口数少ない言葉が蘇る。自分は叔父を悼みに、帰ってきたのだろうか。
違う気がする。
腹を揺さぶられている。
あの悠揚として迫らざる叔父が、才気煥発を体現したような男が、いかなる最期を遂げたのだろうかと。
その感興が己の袖を、幼子のようについついと引っ張って已まないのである。
腹の底に蠢いたものが、喉元までせり上がっていた。
「叔父さんは」
先ほどまで話していたはずの喉から、乾いた声が漏れた。沈黙の間にテレビへと目を向けていた父が、こちらを向いた。
「どうして、亡くなったの」
途端、父は色を失った。
豊かに茂る眉に、力が籠ったのが分かった。真横に引き絞られた口元は小刻みに震え、耐え難いものが溢れようとするのを、必死で堪えているようだった。