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第十九話:想いは、いつか

 宗平の取材をしたいと言う藤枝記者を前に、祖母は俯いた。


 藤枝が去った今もなおである。祖母は宗平の自殺を思い浮かべたに違いなかった。

 ともすれば、祖母はまた自身を責めていたのかもしれなかった。

 母としてなにか出来ることがあったはずだ、と。


「……ばあちゃん。心配するな」


 文治は、父の傍らで俯く祖母に言う。その言葉には、ゆるぎない決意があった。


 祖母は、濡れそぼって赤くなった目を、文治に向けた。力ない瞼に覆われた眼を、文治は正面から見据える。


「俺がなんとかする」


 叔父の死が自殺ではないという思いは、今をもって確信になっている。

 思えばあの時、叔父の書いた一作を目にした時から、蜃気楼のように曖昧として揺らめいた感情が、実在になった気がした。これは、宗平からの啓示だ。


 誰よりも早く。

 誰よりも正しく。


 宗平の死を明らかにするのは、今の自分に託された使命であると、そう思った。



 宗平の火葬を待つ火葬場の待合室で、文治を除く梶原家の面々は気の抜けたようになっていた。


 葬儀を終え、よそ様の目が無くなって緊張が解けただけではない。

 藤枝記者の襲来が、将来訪れるに違いない騒乱への漠然とした不安を生じさせていた。待ち時間のために用意した菓子に手を付ける者は一人として居なかった。


 待合室は、六人の人間が入るには広すぎる部屋だった。二十人から三十人はゆったりと座ることができるように、一人掛けのソファがいくつも並んでいる。


 巣穴で縮こまる鼠みたいに、部屋の隅の一角に占めた梶原家は一様に黙り込んでいた。


 黄ばんで古臭い見た目をした空調の駆動音が、断続的に響く。

 建設当時は白かったはずの壁紙は、灰色にくすんでいる。この部屋が見送ったであろう、数えきれない遺族による故人への悲哀が、深くしみ込んでいるようだった。


「……宗平叔父さんは、自殺じゃないと思う」


 文治は、しんとした室内で呟く。ゆっくりと、皆の視線が集まるのを感じた。


 覇気のない皆の顔を、文治は見回す。


「俺が調べる。それまで、誰の取材も受けないでくれ」

「調べるたって、どうやって……。もう……焼いとるんやぞ」


 父が声を震わせ、苦い顔をした。


 焼いとる、という言葉が冷たく響き、文治の耳朶を打った。

 宗平がもはや取り返しのつかない、物になってしまったような口ぶりに、言いようのない怖気を感じ、文治は返す言葉を失った。


「もう、ええやろ。取材なんぞ、全部断っとったらええ。そしたら、世間様も忘れてくれる。はよう、忘れた方がええ」


 父の声は悲哀に満ちている。それでも父の言葉を、到底受け入れることはできなかった。

 

 文治は、首を振る。


「忘れていいわけない。父さんだって、分かってるだろ。叔父さんは自分で死を選ぶ人じゃない。

 死ぬまで生きようとする人だ。俺はそう思うし、今日集まった、叔父さんを慕うたくさんの人達だって、そう思ってると思う」


「そんなこと言うたって、どうしようもないやろが! いつまで駄々こねとる? もう、ガキやないやろ」


 突然、火がついたように激した父に、文治は思わず、息を吸って怯んだ。

 普段は温厚な父の目が、かっと見開かれている。


 父の怒りは、文治にも容易く伝染した。


 知りたくない、見たくないと駄々をこねているのは、いったいどちらの方か。

 顔が熱くなって、そう言ってやりたかったが、すんでのところで思いとどまり、長い息を吐いて冷静さを取り戻した。


「……俺は父さんや母さんのガキやし、宗平叔父さんだって、ばあちゃんのガキや。

 いつまでたってもな。だから俺は、宗平さんが、ばあちゃんが信じとる通りのガキやったことを、証明する」


 父の語気につられるようにして、文治も早口の関西弁が出た。


「だから、そんなことが……」

「できる。……やるよ。アフリカにだって、行ってやる」


 言下に言い切る文治に対し、激していた勲夫は顔を真っ赤にして、肩を震わせている。

 父が次に飛ばす文句を受けて立つつもりで、文治は待ち構えた。


「俺は賛成する」


 静まり返った場に響いたのは、意外にも兄の声だった。文治は、にわかに驚き、兄の方を見た。


「ブンの言うことはその通りだと思う。叔父さんが自殺したとは考えられないし、宙ぶらりんにして呵責(かしゃく)に苛まれるなんて逃避を、俺は望まない。

 それに、俺たちの中でこういうことに一番向いてるのは、ブンじゃないか」


 邦彦が、噛んで含めるように父に語り掛ける。


 父は、烈火のごとく怒りを燃やし、目を剥いて立ち上がった。


「おまえは黙っとれ! 自分が、いったい何を言うとんのか、わかっとんのか!」

「……ほんに、お父ちゃん譲りじゃ」


 ぽつりと祖母が漏らした声に、父は、はっとした顔で振り向いた。


 祖母はかすかに俯いて、視線をテーブルに這わせている。なにかを懐かしむような、穏やかな眼差しだった。


「ジジも、頑固じゃった。言い出しゆうと、なあんも聞かん。

 血いゆうのんは、争えんもんじゃ。……おめえも宗平も。ほんで、文治もじゃ」


 掠れた声だった。だが、確固たる意志を感じさせる声だった。


 重く垂れた瞼から祖母の黒い瞳がのぞき、じっと父を見つめた。


「文治がやるゆうんや。やめろゆうても、やるじゃろ。やらせたりゃあ、ええけえ」

「お、おふくろまで……。そりゃ、あんまりにも、勝手じゃろうが」


 父の怒声が、今は泣きそうな声になって震えた。赤子がいやいやをするように、首を左右に振る。


「俺は、許さん。俺は止めるけえ。おふくろじゃって、言うとったじゃろ? 

 宗平を海外なんぞへ、行かすんやなかったと。おふくろは、孫にも同じ間違いをさす気か? 

 自分と同じ後悔を、親である俺にもさす気なんか?」


 文治は、ぐっと歯を噛みしめ、渾身の力で口元を結んだ。

 鼻から息を吸う。鼻腔を通る空気は酷く冷たく、目頭に集まった熱がいや増すように感じられる。気を緩めれば、声が震えてしまいそうになった。


 息を止める。決意はもう、腹の中で固まっている。


「心配せんでいい。俺は、ちゃんと帰って来て、宗平叔父さんの話を記事にする。誰にも文句言わさんような記事を書く。俺は、記者やから」


 記者魂。


 ジャーナリズム。


 ……そんなもの、当に忘れている。


 言われたことをやるのが仕事で、任された仕事は何があっても遂行しなきゃならないのが会社員。

 人が死に、遺族が滂沱(ぼうだ)と涙していようが、絶望にわななく口に無慈悲にレコーダーを突き出すのが仕事だ。

 取材対象が、妻子ある男性と親密げに腕を組んでいるさまを密かに連写するのが、仕事だ。


 憎まれ口を叩かれても、塩を投げつけられても、誰かがやらなきゃいけないことだからやっている。

 自分が書いた記事や撮影した写真が週刊誌にのると、幾許かの達成感とともに、苦難を噛み締める。

 自分は苦難の見返りに金銭を得る、ただのサラリーマンだ。


 そう思っていた。そう思わないと、心胆寒からしめるような群衆の怨嗟なぞ、耐えられるものか。


 だから、自分は記者だ、などと自然に口を衝いて出たのには、文治は自分でも驚いた。だが、彼はすぐ得心する。


 真実を追い求めようとするその一点のみ、やはり自分は記者なのかもしれない。

 ……いや、きっとこれも違う。本当に言いたかった言葉が、言えなかっただけだ。

 やはり俺は、叔父の背中を見ている。


 幼少に見た叔父の笑みと言葉が、幻影のようありありと脳裏に浮かんでくる。


 ——探偵っていうのは……。誰かや何かのために、真実を追い求める人、だろうか。


 俺は探偵だと、本当は言いたかった。誰かや何かのために、真実を追い求める人であるのだと。


「……俺がやめろと言うても、行くんやな」

「行く」


 父は、深い溜息を吐いた。口を真横に一線にしたまま、鼻から息を吐いていた。それから、重たそうに口を開いた。


「本当は反対や。宗平のやつには悪いけど、俺は、今を生きとる人間の方が、大事やと思う。

 亡くなった命は取り返しがつかんが、生きとる命は選択次第でどうにでもなる」

「……うん」

「そやけど、どう生きるかは本人の人生や。行きたきゃ行ったらええ。

 ただ、俺らを悲しませるようなことをするんやない。……おまえの葬式なぞを、親にやらすんやない」

「……分かってるよ」


 目元を赤くした父が、頷く。それならええ、と小さく呟いた。


 部屋は、静寂に戻った。しかしそれは、先刻の、絶望に浸したような静寂ではなかった。



 火葬場の職員が、お骨上げを始める旨を伝えに来て、梶山家の面々は待合室を出た。

 部屋を出る直前、家族には少しばかりの会話と笑みが戻っていた。文治もまた、どこか晴れ晴れとした朝を迎えたような気分で、職員のあとについていった。


 待合室の外は、大理石の廊下が続き、廊下を進むとひらけた入口のロビーに差しかかった。


 そのとき、入口の自動ドアが開き、入ってきた人物があった。その姿を見て、文治は言い知れぬものを予感し、思わず立ち止まった。


 肌の白い老婦人だった。


 年は、五十代頃に見える。輪郭のはっきりとした形のいい鼻をしていて、黒髪ではあるが、やや日本人離れした顔立ちをしている。


 文治が見つめていると、老婦人と目が合った。雪に光を透かしたような、青味がかった瞳をしている。


 弾かれたような衝撃を感じ、文治は、やおらに老婦人に近寄る。

 まるで夢の中を歩いている心地で、床を踏みしめる感覚が無かった。


 老婦人は、文治に気付くと小さくお辞儀をした。


「梶山家の方でしょうか。この度はご愁傷さまでございました」

「あの、お名前は」


 この人の名前を、知っている。


「わたくし、木崎亜里沙と申します。こんなところまで押し掛けてしまい、恐れ入ります。どうか、お焼香をあげさせて頂けませんか」

「し、失礼ですが、故人とのご関係は……」


 心臓の鼓動が早まるのが分かった。耳もとを流れる血潮が盛んになって、じんじん熱い。


 文治の直感は、問いの答えを半ば確信していた。


「小学校の同級生でした。その後……急に父が亡くなり、ながく母方の家がある海外におりましたの。今の家は東京ですが、宗平くんがお亡くなりになったとニュースで聞き、参った次第で……」


 文治は、思わず笑い出しそうになった。


 なんのことはない。そうした事情だったのだ。


 木崎亜里沙の背後で入口の自動扉が狭まり、蝉の鳴き声が、夏の風と共に舞い込む。

 木崎亜里沙……久住亜里沙の髪が、風になびいた。


 あの夏。


 宗平少年は、どんな気持ちで彼女を見つめていたのだろう。

 不意に、別れの手紙に刻まれた一節が、文治の脳裏に蘇ってくる。

 聞いたことのないはずの少女の声が、どこからか、はっきりと響いた気がした。


 ——好きだという気持ちは、どうしたって届くのです。


 五十年である。


 それは、どれほど遠い距離か。

 削れ、倒れ、摩耗し、風化し、焼尽する距離だ。(おぼろ)に霞む、果てしない距離だ。


 婦人の言葉は続く。


 文治は彼女の声に耳を澄ませる。そうして、もはや屋外を立ち上って消えゆくはずの煙に黙して祈った。


 願わくは——。


 彼女の声が、遥か、天へ届くように。





~~1章(了)~~

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