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第十六話:松木惠香の隠しごと

 前夜には通夜が終わり、梶原家は告別式を迎えていた。


 この日は、雲のない快晴で、朝からじりじりとした熱気が町全体を覆っている。


 文治は一連の葬儀の受付役を買って出ていた。

 いったいこの町のどこにこれだけの人が居たのかと思うほど、多くの参列者に相対した。

 話を聞くところによれば、地域の人間だけでなく、彼の学生時代の友人や、職場で縁故のあった人間、果ては古くに治療を受けた患者など、故人との関係は多岐にわたっていた。


 かくして、文治の目論見は叶った。


 坂本恭介と、松木惠香に会ったのだ。


 恵香は梅澤と苗字が変わっていたものの、幼馴染だった、という話を聞いてすぐにピンときた。

 恵香という名前の女性が、幼馴染に二人以上いようはずもない。

 濃い茶色の髪、細面で輪郭のいい顔立ちや小皺があるが切れ長の目に、陶器と形容された少女の面影を見た。


 文治は、受付以上の言葉を恵香に掛けるべきか、にわかに逡巡した。

 結局、弔意と香典を受け取るに留めた。


 『隠しごと』の中で、未だ不明確な部分を明らかにする材料は、恵香が持っているのではないか。

 そうした疑念が、文治の腹の中を蠢いていたのだ。

 事件が起きた、その動機である。


 教科書を隠したのは、久住亜里沙その人だった。教科書が無くなれば、隣席の梶山宗平と教科書を共有し、席をくっつけることができるから……。


 宗平はそう紐解いたはずだ。


 しかし、文治には腑に落ちない点があった。

 なぜ、久住亜里沙は、これほどまで婉曲な方法を選んだのか。


 うら若き少女の、語れ得ぬ恋心、などと詩的に言ってしまえばそれまでだし、乙女心の分からぬ奴だと罵られれば面目ないのだが、やはり合点がいかない。

 不幸にも上履きも同時に無くなったがゆえに騒動は思わぬ事態に発展したものの、教科書が無くなったと嘘を吐くだけでも、久住亜里沙は相応の覚悟を必要としたはずである。


 久住亜里沙は大人しい少女であったように思える。

 とはいえ、クラスを巻き込む大噓を突く勇気があれば、好意を素直に伝えることもできたのではないか。


 だが、彼女は一貫して好意を伝えようとしていない。

 事件を読み解いた宗平によって好意は伝わってしまったものの、久住亜里沙が願ったのは好意の充足であった。

 

 伝えるつもりがなかったのだ。


 しかし、なぜ、伝えるつもりがなかった?


 文治の疑問は堂々巡りを繰り返していた。


 そうした経緯で、女子のことは女子なら分かるのでは……ならば松木惠香がふさわしいと思うに至ったわけだが、見ず知らずの宗平の甥が、五十年ちかく前の出来事を突然に問えばどうなるか。


 どうやって過去の事件を知ったのかという追及は、国木田老人を出汁にすれば免れるかもしれないが、ともすれば宗平の書いた物語を白日のもとに晒しかねない。

 それは、宗平も久住亜里沙も望まぬことだろう。


 文治は沈黙を選んだ。松木恵香が、坂本恭介ら同級の者たちのもとへ去っていく背中を、文治は見送ったのだった。


 告別式はつつがなく進行した。


 喪主の挨拶、坊主の読経が終わると、焼香に移る。

 祖母や両親らに続いて、文治たち甥の番が回ってきた。


 祭壇前に置かれた、焼香台に歩み出る。抹香(まっこう)を香炉へ落として、祭壇の遺影を仰ぎ見た。


 いつ撮影されたものだろうか、宗平叔父の姿は、記憶の中よりも額や口回りに皺が目立った。

 顔の肉も落ちているものの、細めた眼や、微笑した口元から覗く白い歯は、温雅だった彼の温もりを、見る者に伝えてくる。


 合掌し瞑目すると、見たことのないはずの宗平少年が生き生きと話している姿が浮かんだ。

 そこは木造校舎の教室で、笑い合う久住亜里沙と、国木田がいる。


 目頭が熱を帯びた。


 込み上げたものを隠すように、文治は目を開いた。二度、三度と瞬きする。

 僅かにぼやけていた視界の縁が、明瞭さを取り戻した。

 だが頭の中ではまだ、宗平少年の姿が、熱をもってそこにあった。


 自席に戻った。


 文治は遺族の一人として、他の親類や一般の参列者たちが焼香するたびに、一礼を返して、弔意に応えた。

 その人物の名前と顔を一致させる試みを繰り返すうち、次第に、熱く火照った顔が、ゆっくりと熱を冷ましていった。


 宗平の同級の者たちの番になった。


 松本恭介が一番だった。染めているのか分からないが髪は黒々として、体格もいい。

 父と数歳しか違わないようには見えない容姿である。


 続いたのは松木惠香だった。彼女は、じっと遺影を仰ぎ見てから、合掌した。

 その時間は心なしか、長く感じられた。

 

 最後に、こちらを振り向いて行儀のよい一礼をした恵香を見て、文治は、はっとした。


 口元を結んだ恵香が、紅涙を絞っていた。きらりと、頬に光るものがあったのだ。

 それを拭うこともなく、彼女は祭壇を後にした。


 次に焼香に現れた人物の姿は、文治に認識されなかった。

 硬く閉ざされた氷が解け、今、赤々とした真実の篝火が、彼の目前で火勢を増しつつあった。


 ——もしも、である。


 松木惠香もまた、梶山宗平への恋慕を、隠していたとしたら。


 真実は分からない。想像に過ぎないかもしれない。

 だがそう考えれば、久住亜里沙の行動にも説明がつく。


 久住亜里沙は、どうして宗平への好意を直接的に伝えなかったか。


 豁然として視界が開けた気がした。その答えが、分かったかもしれない。

 女子のことは、女子ならわかる……か。

 そうなのだ。


 久住亜里沙は、松木惠香の恋慕に、気付いていたのではないか。


 文治は、はたと考える。思えば、疑問だった。

 久住亜里沙は、仲が良かったはずの松木惠香と、三年生から四年生に掛けて疎遠になった時期があった。

 しかし、いざ久住亜里沙が転校した段にあっては、双方にわだかまりがあったようには思えない。

 亜里沙の別れの手紙は惠香に渡されたし、惠香もまた、教科書泥棒の汚名を半ば覚悟してまで、密かに亜里沙に手紙を送ろうとしていた。


 互いに互いを嫌っていたわけではないのだ。ならば、何故二人は疎遠になったのか。


 ここでもし、親友である松木惠香が宗平に好意を抱いていると、久住亜里沙が知っていたとしたら、何が起こるのか。


 簡単なことだ。


 久住亜里沙は、身を引いたのだ。願ったのは、最愛の友人の幸福だった。


 宗平と恵香は幼馴染だ。もし惠香と行動を共にすれば、自然と梶山宗平との関りも生まれる。

 だから久住亜里沙は、松木惠香から自ら距離を置き、孤独になる選択肢を選んだ……。

 松木惠香の恋慕を尊重しながらも、彼女に罪悪感を抱かせないために。


 文治は、小さな嘆息を漏らす。


 ——それは、最後の夢想だったのか。


 誰にも伝えられない。

 知られてはいけなかった。

 自らをも溶かしてしまうような、雪の少女の、夢だったのか。


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