第十四話:Why done it ?(なぜ小説は書かれたか?)
文治は、PCをタイプする手を止めた。
すぐ終わると思っていたが、夢中で作業する間に想像以上の時間を要し、気が付けば夕食も間近に迫る時分だった。
全部を打ち込んでから、文治は迷った。この内容を記事にするのは、些かの躊躇があった。
この物語を書いた小学四年生の宗平叔父に、思いを馳せる。
思うに、この作はノンフィクションである。
そう考える根拠の一つが、視点である。
この作は、慎二という第三者の視点で書かれていながらも、その実、宗平叔父にしか見えなかったはずの視点が垣間見えるのである。
特に、久住亜里沙が宗平に目線を送る場面などがそうだ。
教室の中で、慎二は後方の席から、亜里沙と宗平を見ている。
だというのに『亜里沙が澄んだ目で宗平を見ていた』と書いてある。
ところが、亜里沙がどのような目をしていたかなど、後方の慎二には分かりようが無いはずだ。
つまり、この『隠しごと』は、慎二というカメラの視点を借りて、宗平叔父自ら幼少時代を客観的視点で書いた物語、ということだ。
そう思うと、文治は肌の粟立つ心地がした。
宗平少年は、ただ怜悧であったのみならず、他者の目に映る自分の姿を冷静に捉える、俯瞰的視座を獲得していたように思われるのである。
だが、そう思うにつけ、反問する声も自己の内側に湧き出る。
なぜ宗平少年は、そもそもこの物語を書くに至ったのか。
しかも、自分ではなく慎二という同級生を主人公にして。
自分の才覚を、手柄を自慢したかったのだろうか。
しかしながら話を追う限りでは、宗平は自己を執拗に顕示する性質ではない。むしろ自分の思いを隠して、人には見せない性状のように思われる。
文治は、はっとした。
思わず知らず洩れそうになった嘆息を、唾と一緒に飲み込む。
この物語は、まさに宗平そのものなのだ。巧みに、自分の思いを隠しきっている。
腕時計を見ると、まだ時間に余裕はある。
文治は、原稿用紙を手に立ち上がった。
◆
車は、母が邦彦と博之を迎えに行くために使うというので、文治は祖母が使っている錆に汚れた自転車を借りて、梶山家を出た。
時刻は十七時を過ぎている。
雨はあがり、空一面を灰の雲が覆っていた。札幌や東京であればまだ明るいと言える時間帯だ。
しかし大沢町は、曇りというのみならず、町の西にそびえる山に日が遮られるようで、すでに薄墨の闇が町全体を浸している。
か細い悲鳴のような軋む音を鳴らしながら、文治は自転車を漕ぐ。
よほど整備されていないらしくペダルは重い。九十歳代の祖母が漕いでいるとは思えないトルクを足に感じていた。
祖母に聞いた目印を口の中で反芻しながら、町を北に向かった。
十分も経たないうちに、目当ての家は見つかった。国道から外れた枝道を行くので迷いかけたものの、運送会社の横の家、という特徴的な立地で、場所を特定することができた。
国木田家は、古い日本家屋を想像していた文治の案に相違して、瓦屋根などは古さを感じさせるものの小綺麗な外観をしている。
真新しい塀や門扉、ガレージなどは近年、手が加えられた痕跡があるので、国木田老人夫妻のみでなく、子や孫の世帯も同居しているのかもしれない。
インターホンを鳴らすと、はい、という女性の声がした。用件を伝えると、中年の女性が玄関を開け、家の中へ通された。
客間も純日本然とした立派な装いである。
逸る思いを一時忘れ、客間を見渡して文治は気後れした。
床の間があり、山水画らしき山岳河川を描いた掛け軸が飾られている。畳敷きの部屋に絨毯や座椅子などを置いている和洋折衷な梶原家の客間とは、大違いだった。
雨が止んだからか、障子は開け放たれていて、手入れされた灌木が植わる小ぢんまりした庭が見えた。
風がそよぎ、自転車で火照った身体に吹き付ける冷気が、ひんやりと心地がいい。
風と一緒に、雨上がりの草木の匂いが香ってきた。
——りん。
どこかで、風鈴が鳴った。
「お待たせしたな。よう、ござった」
「夕食どきに突然、すみません」
障子を開けてのそのそと現れた国木田老人は、浴衣姿だった。和装が板についている。
国木田老人が座布団に腰を下ろしたのを見計らい、文治は口火を切った。
「さきほどは、どうも。梶山宗平の甥の、梶山文治と言います。週刊誌の記者をやっているものです」
「かか。そねん、固くならんと。ゆったりしゆう」
白くなった眉毛を上下させて、国木田は顔をほころばせた。
格式ばった立派な客間に気圧されていた文治だったが、ようやく、老人につられて頬を緩めた。
「時間も時間ですので、あまり長くならないようにさせてもらいます。宗平叔父さんの書いた作品のことで……」
「おお。もう読んだか」
「ええ。当時の叔父の様子が、手に取るようにわかりました。幼少から、破天荒な気質だったようで」
「ちっと、手に負えん小僧っこじゃった」
国木田は、懐かしむように嘆息した。
座布団の上で、文治は威儀を正した。ここからが、本題である。
「『隠しごと』は元々、二部あったのではないですか?」
国木田は、白く茂った眉を動かした。口元の皺が、口角と共に持ち上がる。
「なんで、そう思いよるんじゃ?」
歌うような調子で、国木田は質問を返した。声に滲んだものの正体は、肯定だと文治は受け取った。
「気になったんです。宗平叔父さんが、どうしてこの作品を書いたのか。この話は、実際に起きた出来事なんでしょう?」
文治が問うと、国木田は嬉しそうに、こくりと頷いた。
果たせるかな、図に当たった文治は、鼓動が早まるのが分かった。
「そうすると、叔父は備忘録としてこの物語を残したかったのだろうか。
最初はそう考えたのですが、二つの疑問があった。
一つは、なぜ一人称視点の物語形式をとったかということです。事実の羅列でもよかったはずだ。
第二に、なぜ叔父は、この英雄譚の主人公を自身とせず慎二少年を主人公にしたのか。
慎二という人間を一人分、余計に舞台に引き上げる手間をかけてまで」
「……余計?」
その問いに、文治は頷く。
「ええ。慎二少年が、実際の人間であるはずがない。物語でも分かりますが、叔父は幼少から、人間の心理把握に長けていたように思います。
教室で、久住亜里沙への好意を晒し上げられた坂本恭介をかばったように。
そうした叔父の性質を踏まえれば、慎二が実在した同級生なら、
『慎二という少年が久住亜里沙を好いている』という告発にも似た物語など、叔父は書くわけない」
「かか。いかにも。あの作品に創作があるとすれば、慎二じゃ。そねえ名前の生徒は、おらんかった」
国木田は、満足げに首肯する。それを見た文治の口元に、微かな笑みが浮かんだ。
「推測が当たって、ホッとしました。
ともあれ、実在しない慎二が居たことで、この作品は備忘録以外の一面を持っていたことが、はっきりしました。
そして別の一面とは、物語という構造に端を発しているように思いました。
物語は、人の記憶によく残る。時間や場所、情動を伴うエピソード記憶と言われるものですね。
ここで僕は、一つの仮説を立てて物語を読み直しました。
この物語は、誰かに記憶しておいて欲しいという動機のもと、書かれているのではないか。
物語でも分かるように、叔父は自分の手柄や成果を大っぴらに喧伝するような性格ではないことを踏まえても、この仮説は大きく外れていないと思いました。
記憶という観点で俯瞰すれば、作中の情景は全て慎二という狂言回しの目を通している。
読む人間は、慎二に感情移入をします。そこに、叔父の真意があるのではないか。
僕は、目が覚めた思いでした。宗平叔父さんはあえて慎二を書いたに違いないんです。
自分が主人公の物語では駄目な理由があった」
文治は、そこで言葉を切った。
国木田が、夢想するように瞑目したからだ。そうして、彼は無言で頷いた。
閉じた瞼の裏に、在りし日の宗平少年を思い出しているのかもしれなかった。
深く息を吸いこみ、文治は話を続ける。
「慎二が、だれよりも感情を暴露していることを考えれば、答えは簡単でした。
慎二の存在は必要不可欠です。
もし宗平叔父さんが主人公だったならば、自分の思いを、自分のものとして文字にしなければならないから。
でも、宗平叔父さんにはできなかった。
どんな思いで久住亜里沙を助けたか、書くことができなかった。
本心を暴露し、あまつさえ記憶しておいてもらうなど、彼には耐え難かった。
少年らしい羞恥心ゆえ、と言えるでしょうね。
だから自分の思いのすべてを、架空の慎二に預けたんです。
見る人が見たときに、すぐにそれとわかるように。
そのように考えれば、この物語が書かれた理由が分かりました。
『隠しごと』とは、事件の発端となった、久住亜里沙に秘められた恋心を指してるのではない。
事件で久住亜里沙の好意に気付いた宗平叔父さんが、正面を切って伝えられなかった自身の思いを、物語にしたためたもの……これは彼の返歌で、恋文だった。
遠く東京へと転校する少女に覚えていてほしいと願いを込めた、餞別だった。
この物語が隠していたのは、他ならぬ宗平叔父さんの恋心です」
国木田は、黙したままだった。
数十秒はそうしていた。それから、やおら瞼を震わせ始めた。
目尻に刻まれた深い皺から、堅い老樹の表面をなぞるように、落涙が伝い零れる。
「……宗平の、甥っ子じゃな。あん子の御霊が、降りてきたような気がしゆうわ」
濡れた眼が開かれる。黒目がちの瞳が、文治を見据えた。