第十二話:「隠しごと」⑧
翌朝、教室に入ると、いつもよりうるさかった。
ぼくはというと、亜里沙ちゃんや恵香ちゃんとどう接したものだろうかと、もやもやした気分でいた。
だから、隣の太一くんに話しかけられるまで、すっかり騒ぎの源に気付かないでいた。
なあなあ、と話しかけてきた太一君は、目に見えて興奮していた。
「亜里沙の上履き、返ってきゆうたらしい」
「え?」
ぼくは、飛び上がるくらい驚いた。
太一君から話を聞くと、上履きを見つけたのは朝一番に教室に入った晴美ちゃんらしい。
日直だった晴美ちゃんが、掃除用ロッカーから箒と塵取りを出して、床に目立つゴミを拾い上げていた時のことだ。
なんと亜里沙ちゃんの席の椅子の上に、上履きが揃えて置いてあるのを発見したのだという。
少しばかり、汚れていたようであるが。
「誰か分からんが、やっぱり、反省したんじゃなあ」
と、太一君は呟いた。
ぼくは、亜里沙ちゃんの席を見た。空席である。まだ登校していないらしい。
このことを知ったら、少しは亜里沙ちゃんの気分も晴れるだろうと思って、ぼくは安心した。
教科書もそのうち、返ってくるかもしれない。
ぼくの視線は、そのまま、亜里沙ちゃんの隣の席の宗平くんに移った。
宗平くんは、ぼんやりと、何も書かれていない黒板を見つめている。その様子が意外だった。
てっきり、喜ぶか、あるいは推理が足らなくて悔しがるか、なんて様子を想像していたから。
でも、ぼくは宗平くんを気にするどころじゃなかった。
たぶん、それはぼくだけじゃないんだろうけど、亜里沙ちゃんが来るのが待ち遠しかった。
上履きが見つかったんだ、と驚かせて、喜ぶ亜里沙ちゃんの姿が見たかった。
亜里沙ちゃんは、いつものように、はずかしそうに照れ笑いをするんだろうと、そんな光景を想像した。
でも、駄目だった。
亜里沙ちゃんは、来なかった。
その日も、次の日も。そのまた次の日も。
一学期最後の日が来ても亜里沙ちゃんは欠席で、そのまま、夏休みになってしまった。
ぼくは、夏休みの間、亜里沙ちゃんの上履きが見つかったあの日の事を考え続けていた。
あの日の放課後のことだ。
宗平くんがぼくと国木田先生を生徒指導室に呼んで、浮かない顔で、ぼくらに語った。
「もう、犯人探しはやめじゃ。探しても、だれも喜ばん」
その宗平くんの変わりように、ぼくはひどく驚いた。
それ以上のことは何も話してくれず、国木田先生もまた、宗平くんの話を素直に受け入れた。
なんでも、先生は亜里沙ちゃん本人から、この話はもう忘れてほしい、という連絡を貰ったらしかった。
ぼくは、すっかり一人だけ取り残されてしまった気分のまま、夏休みを過ごした。
宗平くんや、ほかの男子と遊ぶこともあったけど、亜里沙ちゃんのことは話題にならなかった。
宗平くんは、ぼんやりとした様子であることが多かった。
町の夏祭りにも出かけた。
毎年、女の子たちは女の子たちで固まって、お祭りを楽しんでいる所を見かけていたのだけど、今年はその集まりの中に、亜里沙ちゃんの姿はなかった。
恵香ちゃんはいたものの、とても楽しんでいるという様子では無くて、心ここにあらず、というように気の抜けた顔をしていたのを、よく覚えている。
ぼくは、もやもやして、早く学校が始まってくれるといいと思った。
そうして、亜里沙ちゃんに会って、彼女を慰めたかった。傷ついた彼女を、助けたいと思っていた。
でも。
やっぱり、駄目だった。
夏休みが終わって、二学期の最初の日——。
ぼくは、不安とわくわくが入り混じった気持ちで、登校した。一か月ぶりに、亜里沙ちゃんに会えると思っていた。
でも、亜里沙ちゃんは学校に来なかった。
いや、それは正しくなく。
正確には、亜里沙ちゃんはもう二度と、学校に来ないのだった。
ちょっとした違和感が、実は朝からあった。
始業式に亜里沙ちゃんの姿がなかったのはもちろんにしても、他にもある人物の姿が無かったからだ。
始業式を終え、ぼくたち四年生が教室に戻ると、国木田先生が話してくれた。新学期を迎えたとは思えない、悲しげな顔だった。
「久住は、家庭の都合で東京に転校したがじゃ。急なことで、あいさつも出来んと、ごめんなさい、ゆうことじゃ」
国木田先生が苦しそうに話す言葉を、ぼくは、外国の言葉みたいに聞いていた。
音だけは耳に入るのだけど、いっこうに頭の中で形にならなかった。きんきんと、耳鳴りがした。
ぼくの目は、亜里沙ちゃんの席を通り越して、宗平くんに向かった。彼は、やはりぼんやりとした目で、黒板を見つめていた。
夏休み前の宗平くんの影が、重なった。
ぼくは、このショックを誰かと共有したかった。誰かを求めて、ぼくの目は動いた。
鼻をすする音が、どこかから聞こえた。
「松木。話してくれるか」
国木田先生が、なだめるように柔らかな声で言った。
ぼくは、当の松木惠香ちゃんを目で追った。窓際の前方、惠香ちゃんが椅子から立ち上がって、教壇に立つ先生の横に並んだ。
手元には、白い紙のようなものを持っていた。
「久住からの、みんな宛の手紙じゃ。松木が代表で、受け取ったもんじゃ。松木、頼む」
「はい」
なぜ恵香ちゃんが。という疑問が、ふっと湧いてくる。
惠香ちゃんの顔は、やっぱり陶器みたいに、狂いなく整っていた。その目だけが、赤く潤んでいた。
どこかで鼻をすする音がして、先ほどと同じその音の主が、惠香ちゃんだということが、ようやくわかった。
「読みます。
拝啓、四年生のみんな。そして、先生。
急な転校で、本当にごめんなさい。まずそのことを、謝らせてください。
どうしても、お父さんの仕事の都合で、東京に戻らなければならなくなったのです。
みんなと離れることになると知ったときのわたしの様子は、きっとみんなには想像できないと思います。
おかあさんと、おとうさんをたくさん困らせました。一晩中、困らせました。わたしはその一晩の間に、この町に来た時のことを、思い出していました。
わたしが大沢町に来たときは、まだ、二年生の時でした。
すごい昔のように思いますが、この二年間は、とても楽しい二年間で、本当にあっという間でした。
二年生の四月。
みんなとの最初の出会いを、まだ覚えています。わたしはとても緊張して、心配していました。
友達ができるだろうか、仲良しになれるだろうか、不安でいっぱいだったのです。
でも、そんなわたしを、みんなは拍手と笑顔で迎えてくれましたね。
わたしは、とても嬉しかった。これもみんなには、分からないかもしれません。
わたしを優しく受け入れてくれたのは、みんなで、先生で、学校で、そしてこの町のすべてでした。
豊かに、色とりどりに茂る草花。
澄んだ鳴き声の鳥たち。
自然の香りをいっぱいに含んだ、頬を撫でる涼やかな風。
夜を眩しいと感じてしまうほどの月と星々。
ワイワイと賑やかな夏祭りは、どきどきしたし、こがね色の稲穂を揺らす秋の田んぼの景色は、どれほど眺めていても飽きないくらい、ほれぼれしました。
夏になると、川で泳いでいるみんなが、実は羨ましかったのは、内緒です。
わたしは、泳ぐのが苦手だったので。もっと練習したら、みんなと泳げたかな。
学校にもたくさん、たくさん、思い出があります。みんなと授業を受けたり、給食を食べたり、運動会をしたり、いっぱい。
語り切れないぐらい、たくさんの思い出があります。
だから、みんなと離れ離れになることは、とても悲しいです。でも、みんなが悲しんでいることは、もっと悲しい。
わたしは東京で元気にしています。だから、何も心配しないでください。
これからも、元気いっぱいの四年生のみんなで、いてください。
この手紙は、大沢町でできた、わたしの最初の友達に渡します。
惠香ちゃん。ありがとう。
惠香ちゃんのおかげで、この二年間は宝石のような時間になりました。
きっとずっと、大人になっても忘れないと思います。
夕陽に光る、赤いルビーのようなあなたの髪を、忘れない。あなたのことが……大好きです。
四年生のみんな。
仲良くしてくれてありがとう。みんなのことが、大好きです。
だからまた、いつの日か……わたしたちは……きっと会えると信じています。
好きだという気持ちは、どうしたって届くのです。
また会うその日まで、どうかお元気で。
久住亜里沙より」
恵香ちゃんは、声を震わせて、手紙を読み終えた。
静かな涙が頬を伝って、床に落ちた音まで、聞こえた気がした。
惠香ちゃんは、すたすたと自分の席に戻って、窓の方を向いた。その肩が、堪えきれず震えていた。
誰も、声を上げる者はいなかった。少なくとも、ぼくには聞こえていなかった。
なにも。
なにも、聞こえなかった。