第十話:「隠しごと」⑥
「惠香ちゃん……?」
夕陽に赤く照らされた、真っ赤な教室。
光線を受け、紅葉のように輝く赤い髪をおどらせて椅子から立ち上がったのは、松木惠香ちゃんだった。
すぐ、世界がねじれているような違和感があって、はっと、その正体に気がついた。
惠香ちゃんの机は窓際前方である。
いま、惠香ちゃんがいるのは、教室中央の前寄り……亜里沙ちゃんの席だった。
恵香ちゃんは、亜里沙ちゃんの席で、何かをしていたのだ。
それに気づいたぼくは、ぼくらは、すぐに言葉が出なかった。惠香ちゃんも驚いたようで、血の気の引いた顔でぼくたちを見ていた。
それはごく短い間のことで、何をしているの、と口を開く前に、惠香ちゃんは振り返って、走って教室を出て行ってしまった。
「おい、松木!」
先生は教室を飛び出して、惠香ちゃん向かって声を上げた。その後に、軽い足音だけが聞こえた。
惠香ちゃんは止まることなく、去っていった。
ぼくらは、互いに口をきかなかった。何を言ったらいいか、ぼくにはわからなかった。
クラスのみんなを信じていると言った宗平くんも、国木田先生も、なおさら、言葉が見つからなかっただろう。
でも、確かに思い当たる節はあった。
松木惠香ちゃんは、クラスの女子たちのリーダーみたいな存在だった。
男子に負けず気が強いし、頭もいいし、運動もできて、何でもできる。宗平くんと渡り合う、ただ一人の女子と言ってよかったかもしれない。
二人は、保育園の頃からの幼馴染で、ずっと競い合ってきたようである。
亜里沙ちゃんが雪のように静かな綺麗さなら、惠香ちゃんは陶器みたいに整った、冷たい強さだった。
彼女の周りには、いつも女子が居て、女子たちは彼女を中心とした大きなグループになっていた。
でも、そのグループから外れた者もいた。それが、亜里沙ちゃんだった。
亜里沙ちゃんが転校してきたころ、一年間くらいは、女子たちを束ねるリーダーとして、惠香ちゃんはむしろ積極的に亜里沙ちゃんと仲良くしていたと感じる。
交換日記をしたり、亜里沙ちゃんのさらさらとした髪を、恵香ちゃんが櫛でとかしていた穏やかな日々を目にしたことも、一度や二度ではない。
そうして通じ合っていた二人が、いつ、うまくいかなくなってしまったのか、明確に覚えていることはない。
ただ、三年生の夏ころには、亜里沙ちゃんと惠香ちゃんは、別々に休み時間を過ごしていたように思う。
三年生の夏と考えて、ぼくは、はっとした。
ちょうどその頃、学期末のテストがあったのだ。
男子のトップは、全教科連続一〇〇点満点の宗平くんで、次がぼくだったりするのだけど、女子のトップの入れ替わりがあった。
それまでトップだった惠香ちゃんが、亜里沙ちゃんにトップを譲ったのである。
惠香ちゃんは、失点こそちょっとしたミスだったのだが、それ以降も調子が悪いのか、すっかり女子のトップは亜里沙ちゃんで固まっている。
その悔しさが、亜里沙ちゃんと恵香ちゃんの仲を悪くしたのかもしれない。
そうして、ぼくが……ぼくら男子が知らないだけで、その頃から惠香ちゃんは、亜里沙ちゃんに……。
亜里沙ちゃんの歩く、寂しげなぺたぺたとしたスリッパの音で、ぼくは考え事から覚めた。
その小さな背中は、親鳥を亡くした小鳥みたいに、痛々しい。
彼女の後ろを、宗平くんが追った。
「亜里沙。机の中のもん、見た方が」
宗平くんの声には、元気がなかった。彼もまた、長い付き合いの恵香ちゃんのしたことに、強いショックを受けているに違いない。
亜里沙ちゃんは、机の中から、底の浅い箱型の引きだしを引いた。
真っ青な青色をしているので、ぼくらは青箱と呼んでいる。中をのぞいた彼女が、ぴたりと動きを止めたのが、わかった。
「……久住。先生に、見せてくれんか」
亜里沙ちゃんは、さっと、顔を上げた。黙ったまま、首を振る。
その目からは、今にも涙がこぼれそうになっていた。
「……すまん。久住が、そねん目に遭いよったんじゃと、先生は知らんでおった。ほんに、すまん。
じゃけえ、こればっかりは、ちゃんと知らなあかん。おめえのためじゃ。松木のためでもあるんじゃ。なあ……」
びりっ、という紙か何かが裂ける音が、教室に響き渡った。
亜里沙ちゃんが、何かを手に握りしめていた。
「久住。頼む」
先生は再び、震える声で言った。
怯えるように首を振った亜里沙ちゃんは、先生を見て、それから宗平くんを見て、最後に、ぼくを見た。
彼女の頬に、一筋の涙が光って、彼女はまるで恵香ちゃんの後を追うみたいに、走って教室を出て行った。
先生は、呼び止めなかった。ぼくも、彼女を呼び止める声は、掠れて、音にならなかった。
ぼくらは、少しの間、黙っていた。どうしたらいいのか分からず、亜里沙ちゃんが消えた扉を、ぼうっと眺めていた。
最初に動いたのは、宗平くんだった。彼は、亜里沙ちゃん机から中途半端に飛び出た引き出しを引っ張って、机の上に置いた。
「そ、宗平くん!」
ぼくは、思わず声を上げていた。それは、彼女が涙するほどに、隠したかったものではないか。
その行為は、彼女の思いを踏みつけるものだと、咄嗟に思った。
しかし、宗平くんはまるで聞こえていないかのように、引き出しに収まっていた教科書やノートやらをぱらぱらとめくっていった。
その光景を、ぼくと先生は黙ったまま、じっと見ていた。
「ない」
最後の一つを見終えて、宗平くんはぽつりと言った。
「何が、無いんじゃ?」
「のうなっとるもんは、なんもねえんです。国語の教科書以外、全部ある。
およそ、授業に必要なもんで、なんかがのうなった様子はねえ。いたずら書きをされたゆう様子も、ねえです」
ぼくは、よく分からなくなった。
だとしたら、恵香ちゃんは放課後の教室でいったい何をしていたのか。亜里沙ちゃんは、何を持っていったのか。
二人だけの秘密の何か、なのだろうか。
「ここ、破れとります。たぶん、亜里沙はこれを破いたんじゃ」
宗平くんは、ぼくと先生にわかるように、ノートを持ち上げた。
よくあるノートに見えたが、表紙の下の方、ちょうど名前を書くところが、大きく破り取られている。
ノートの角の三角形を切り取った、みたいな形で破かれて、中のノートに書かれた文字が見えた。
「なんのノートなんじゃ?」
「国語です」
「ふうむ」
国木田先生が、ぽつりとこぼした。
きっとそこに、亜里沙ちゃんを傷つけた何かが、書かれていたに違いない。
ぼくは、胸がずきずきと痛むような気がした。惠香ちゃんが、そんなことをするとは、まったく、思っていなかった。
だから、彼女の悪意が、突然、ぼくの胸にもナイフのように突き刺さった。亜里沙ちゃんの痛みを、ぼくは亜里沙ちゃんのように、感じていた。
「あのう」
廊下から聞こえた声に、驚いて振り返った。
そこには、用務員の茂男さんがいた。
ぼくらより背は高いが、大人にしてはずんぐりとしていて、小さい。
たぶん、五十歳くらいの茂男さんは、顔も、薄青色をした作業着からのぞく腕も、黒々と日焼けしている。
黒くがさがさとした額についた汗を、首に巻いたタオルで拭った。タオルは、土か何かで、ところどころ茶に汚れている。いつもの服装だ。
そうしていつも汚れているからか、女子からの評判は、すこぶる悪い。
「大きな声が聞こえたんじゃが……なんか、ありましたろうか」
「ああ、いえ。なんもないんです」
国木田先生が慌てた。
あっ、と声を上げたのは、宗平くんだった。
「茂男さん。茂男さんは、五時間目のとき、どこにおったんじゃ?」
そういえば、茂男さんのことをすっかり忘れていたことに気付いた。
挨拶をしたら小さな声で返してくれるけど、それ以外は黙って、静かに作業をしているものだから、ついつい、茂男さんのことは忘れてしまいがちになる。
「わしか? そこの廊下で、照明の交換をしよったけんど」
茂男さんは、隣の五年生教室の前辺りを、指さした。
ぼくらは、驚いて顔を見合わせた。こんなところに、有力な目撃者がいたのだ。
国木田先生が、今日の出来事を茂男さんに説明した。
すると、茂男さんは、息を漏らして、ああ、ああ、と頷いた。
「見ゆうた。見ゆうた。水着を着た女の子が出てって、すれ違いざまに、男の子がやってきたんじゃ。男の子はそれから、少しして、教室を出ていきおうたなあ」
「それは、どんくらいの時間でした?」
「うーん。ものの、一、二分じゃ。中の様子は見えんかったけえ、中でいったいなんしようかは、分からんがじゃ」
晴美ちゃんと恭介くんは、嘘をついていなかったようである。
でも、ぼくの盛り上がった気持ちは、急に坂を転げ落ちるみたいに沈んでいった。
結局、分かっていたことが、また別の人から聞けただけだ。
「他に、なんか見ませんでした? 怪しい人やら」
宗平くんは、諦めずに茂男さんに尋ねた。
「怪しい人は、見やあせんけど……。ほうじゃ、女の子が出てきた」
ぼくは、てっきり茂男さんが呆けたのかと思った。晴美ちゃんのことは、さっき聞いたばかりだ。
ぼくは呆れ混じりに言う。
「髪の短い子の話ですよね?」
茂男さんは、驚くべきことに、首を横に振った。
「いんや。ほら、さっき走っていった、髪の長い女の子、おったじゃろ?
あの、ちょっと髪色の赤っぽい子。そん子が、男の子の後に、教室から出て来たんじゃ。
男の子が出た後、教室の戸がちょっと開きよったから、中が見えたんじゃけど、ちょうど教室の真ん中あたりで、立っとったなあ。それから、教室から出て来たんじゃ」