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第一話:訃報

 眼下には、遠ざかっていく灰色の匣と青々しい木々。

 陽光を遮る鈍色の雲に押し潰されそうな地上は、高度を上げるにつれ細部のリアリティを失っていく。


 急激に変容するミニチュアのような現実を、梶山文治(かじやまぶんじ)はぼんやりと眺めていた。

 機体の浮上に伴い、身体を押さえつけていたGが緩やかに消え、意識のみならず身体までもが(もや)となって揺蕩(たゆた)っていく心地がする。


 微かな眩暈(めまい)を感じ、目を瞬いた。


 シートベルトの着用ランプが消灯する。続いて、暗雲を晴らさんばかりに爽やかな、客室乗務員の機内アナウンスが流れた。

 文治は口の中で、アナウンスを(そら)んじる。


 ——快適な空の旅をお楽しみください。


 そう言われてフライトを楽しめるのは、年一回、飛行機に乗るかどうかという人種だろう。週一回近く飛行機に乗る身ならばその限りでない。長時間座席に拘束され、隣に見ず知らずの人間が居座る場合など不快ですらある。だが幸いにして、文治の隣は彼が予約したときのまま、空席だった。文治の席から見える通路沿いの席にも、乗客の姿はまばらである。


 新千歳発・神戸空港行きの始発便は、観光シーズンを外れた六月中旬の平日朝とあってか、半端な客入りだった。


 関西出身の文治にとっては、それも当然かと思う。北海道から関西方面に向かうなら関西空港や伊丹空港があるから、わざわざ神戸に飛行機で向かう人間は少ないはずだ。とはいえ、目的地が国内有数の臨海工業地帯の神戸であるためか、乗客にはスーツ姿のビジネスマンが目に留まった。


 客席を観察した視線はそのまま、機内をさまよう。何を見るでもなく、何を避けるでもない、目的のない遊弋(ゆうよく)。視界にとらえた情報は、彼に何らかの感興をもたらすことはなく、即座に認識から消え去った。


 文治の思考を漂っていたのは、仕掛けたままに同僚に放り投げた週刊誌の取材二件と、目下の弔事(ちょうじ)である。神戸に住む父、梶山勲夫(かじやまいさお)から携帯電話に連絡があったのは、つい先日のことだった。


 ——叔父が亡くなった。


 実家のある岡山で葬儀が行われ、老齢の祖母、梶山光代に代わって、自分が喪主を務めるのだと父は言った。


 受けた電話を手にしたまま、文治は、叔父である梶山宗平の顔を思い出そうとした。だが、その顔は濃霧の向こうに透かされたように曖昧にぼやける。久方ぶりに会っていない。


 叔父である梶山宗平(かじやまそうへい)は、日本から遠く離れたアフリカの地、コンゴ民主共和国で医師として働いている……それが文治の持つ、叔父についての最新の記憶だった。それが何年前の情報であるかも、文治の記憶には無かった。


 電話越しの父の声は疲れていた。


 外務省からの連絡を受けた祖母に代わり、父がコンゴの日本大使館と連携して現地へ飛んだのは数日前。現地で、宗平叔父だという遺体を確認して、遺体の出国手続きの諸々を済ませ、つい昨日、帰国したところだという。


 遺体に施すエンバーミングという防腐処理は、日本で行うエンゼルケアなどと違って、数週間も綺麗なままなんだそうだ……。などと、普段は寡黙な父が沈黙を埋めるように、言葉を並べていた。


 文治は、ぼうっと、父の話を聞いていた。無為に言葉を連ねる父は、まるで何かに追い立てられているようだと思った。一度捕まってしまえば、たちどころに奪われかねない生命の灯を、何者かから守っているような。……追ってくるのは、黒く塗りつぶされた闇。


 お前もよく面倒を見てもらったろうから、来られるならば来い、と父は言った。

 文治は、我に返った。行くよ、とだけ返し電話を切った。


 手に持った私用の電話をポケットに仕舞い、すぐさま社用の携帯を取り出して、彼は架電した。良いアイデアを閃いたのだ。電話に出た眠そうな声の社会部の係長に、事の次第を告げた。


「途上国で医師をしていた叔父が亡くなったのだが、記事にならないか」


 父親から電話を受けた時は、しばらくまともな睡眠をとっていなかったため記憶が曖昧だが、そんなことを言ったと思う。

 慈善事業は読者の涙を誘う。その人が非業の死を遂げたとなればなおさらだ。過去に、同種の報道が世間を賑わせたことを思い出して、咄嗟に閃いた提案だった。


 暫しの間、返答はなかった。


 聞こえなかったかと、文治が同じ言葉を繰り返そうとした時である。忌引休暇を取って、ちゃんと悼んで来いと、ぼそぼそとした返答があった。係長の采配で、着手中の取材案件は、別の者に引き継がれた。どうせ年度末ぎりぎりに焦るくらいなら、ついでに有給休暇も消化しておけと言われたので、一週間に及ぶ長期の休暇になってしまった。


 機体がにわかに揺れた。


 文治の視線は、ちらと窓の外へ向かうと、変哲のない紺碧(こんぺき)の空を見定めてから、再び、結ぶべき焦点を見失った。彷徨う視線のように、文治の思考は定まらない。上司によってはぐらかされた叔父に関する取材の未練は、今なお彼の中に燻ぶっている。


 故人の真実が知りたい。それは、人間の根源的な欲求なはずだ。

 名探偵は、人がどのように死んだのか、何故死ななければならなったのかを探る。犯人の犯行内容と動機を暴きだす。真実がつまびらかにされる過程を、読者は固唾を飲んで見守る。

 探偵小説はそうして、数世紀前から燎原(りょうげん)の火がごとく世界中に広まり、今なお愛されている。


 だが謎に解を求める人間の好奇心は、なにもフィクションの世界のものだけでなく、ノンフィクションであっても、言わずもがなだ。謎めいたセンシティブな事件を扱うときほど、週刊誌の売り上げはあがるのが、その証左と言える。人はみな、退屈な日常に飽き飽きしているのだと文治は思う。だから、読者という安全な立場から非日常のスペクタクルを渇望し、追い求める。


 故人が死した背景や謎を知った読者は、いわゆる公正世界仮説のごとく、故人は死して当然の人間だったなどと溜飲を下げることもあれば、なぜこの善人が死ななければならなかったのか、一時の感傷に浸り涙する。こと前者のように、むしろ人々は故人の謎を隅々まで知り、死に何かしらの因果を求めたがるきらいがあるように思う。そうして現代社会という砂漠を生きる読者は、水のごとき謎を求めてオアシスを転々とし、砂漠を渡り歩くのである。


 ともすれば、週刊誌は砂漠のコンビニと言える。非日常を求める人々に、非日常を売るのである。品切れは許されず、非日常はいつでもコンビニエンスに買えなければならない。


 その根性が染みついた。だから、腹が立つことも多い。さしずめ文治はコンビニ店員である。こちらはいいネタを仕入れようとあくせく働いているのに、融通の利かないヤツが商品を出し渋っているときなどは、特にそうだ。雲の下に沈んだ北海道の地を思うにつけ、文治の脳裏に、嫌な思い出が蘇ってしまう。


 そもそも北海道に来たのが、女子大学生が、同級生の女子大学生を殺すという殺人事件を取材するためだった。犯人は既に逮捕されているが、被害者と加害者の過去を追う目的で、上司の指示を受けて東京を飛んだのである。


 だが、死亡した被害者の遺族からは、なかなか話が聞けなかった。同級の学生たちの口は重く、知らない、という声ばかり。仕方がなく遺族のもとへ連日取材に押し掛けたものの、遺族は言葉少なであるばかりか、罵声と共に塩まで投げつけてくる始末だった。慣れているとはいえ、あまり気持ちのいいものではない。口をきかない遺族に対する苛立ちすら湧いた。


 思い出すだけで遣る方ない憤懣(ふんまん)が湧き上がって、文治は、静かに溜息を吐いた。同僚に引き継いだこの取材の進行が、悩ましい。


 叔父の取材への未練は、そうした自身の失態にも起因している。やはり、叔父の一件でカバーするべきではないだろうかと、文治は際限ない思考を繰り返す。


 不意に、頭がぐらりと揺れて目が回った。座席の背もたれに、後頭部を力なく委ねる。機体の揺れではなく、疲労に違いないと自己診断した。


 文治が同僚に引継ぎをして仕事を切り上げ、ホテルで就寝したのは日を跨いだ深夜のこと。少しばかり寝て荷物をまとめ、朝一番の便に乗るために札幌から空港まで移動して、身体も頭もとうに疲れ切っていた。


 少しでも休もうと目を瞑った。身体を、LCC特有の固い座席に預けてみるが、寝付けない。閉じた瞼の裏に、叔父の姿がちらついた。最近の叔父ではない。


 記憶の中の叔父は、背の高い人だった気がする。文治が大学に入学する頃には、叔父は日本を離れていたから、その容姿は、子供の頃に叔父を見上げていた記憶だ。力強い眉や、彫の深い顔立ちは、些か日本人離れしていた。ぱっちりとした瞳から滲む温雅さや、時折見せる怜悧な視線に、子供心にも尊敬と親しみを感じたことを覚えている。


 文治が子供の頃は、盆や正月に岡山へ帰省すると、ときおり叔父も帰省していた。当時、叔父はまだ日本で医師をやっていた頃だ。二十年近く前なので、叔父は四十代前半だと思うが、結婚はしておらず、独身だった。学校の宿題なんかも見てくれ、歳の離れた兄のように思うこともあった。


 そうした畏敬の念を感じていたのは自分だけではなく、おそらく兄や弟もそうで、兄が医師を志したのは叔父の存在があったことは、察するに余りあるところだ。かくいう自分とて兄貴を品評できる立場になく、大学で文学部を選び、記者の道を選んだのも、読書家だった叔父の影響を否定できない。


 ——それほどであるのに。


 文治の思考が、飛ぶ。

 叔父が死んだ。そう聞かされた時、涙は出なかった。今もそうだ。しばらく会っていなかったせいもある。それ以上に、人の死が別段珍しくもない、世間に溢れる一つのニュースに思えてならない。


 今この瞬間にも、日本中で、世界中で、人が死んでいる。交通事故、病気、火事、老衰で。死んで、それよりちょっとばかり多いくらいの命が生まれて、地球は飽きもせず太陽の周りをまわっている。親の死、兄弟の死……そのどこかで、涙が流れることがあるのだろうか。文治には、その光景が想像できなかった。父と母の顔が浮かんで、それから、兄と弟の顔を、思い浮かべてみた。


 兄貴も、岡山に来るのだろうか。博之のやつも。


 錠剤が喉につかえたみたいに胸元が苦しくなって、深く息を吸い込む。吸った息を、今度は鼻からゆっくり吐くと、どくどくと、心臓が余計に脈打っているのを感じた。


「お飲み物は、いかがですか」


 囁くような女性の声で、目を開ける。コーヒーを、と前列の男性客が応えたのが聞こえた。通路を塞ぐほどのカートを押しながら、キャビンアテンダントがすぐ前方に来ていた。

 滑らかな動作で、紙コップが客に手渡された。馥郁(ふくいく)たる芳香が、ふわりと香った。


 カートは滑るようにして、文治の隣に迫った。


「お飲み物は、いかがですか」

「オレンジジュースを」


 給仕された紙コップを受け取ると、すぐにひんやりとした感触が指先から伝わる。ぐっと、なにものかを洗い流すように、中の液体を飲み込む。沁みるほどの冷たさが喉を通り過ぎたものの、喉元の圧迫感は居座ったままだった。


 喉の奥に残った不快な粘り気を、唾液で飲み下した。空になったコップを、前席の背もたれから引き出したテーブルに載せる。長い息を吐いて、文治は目を瞑った。


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