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第6話:オルフェウス回路

『AIと愛の物語 6重奏』


第6話:オルフェウス回路


「もし君を、もう一度この世界に呼び戻せるとしたら―僕は、どうするだろう?」


そう呟いた瞬間、ヨウの指は自然とキーボードを叩いていた。疲労困憊の体に鞭打ち、AI復元サービス「リフレイン」のベータ版にログインする。


*「リフレイン」:故人のデジタルフットプリント(音声データ、生前のテキスト、SNSの投稿、写真、動画などのあらゆるデータ)をAIが深層学習し、人格や記憶を忠実に再現することで、生前の故人と「再会」することを可能にするサービス。遺された者が故人の声を聞き、言葉を交わし、心の傷を癒やすことを目的として開発されていたが、その倫理的な問題も同時に指摘されていた。


震える指で彼女の名前を入力する。


ナギサ・クロサキ。享年24。


彼女がこの世を去って、1年と9ヶ月。


冷たく整った墓石に刻まれた名前が、今まさにクラウド上で“再構築”されようとしている。それは、死者への冒涜か、あるいは狂気にも似た愛情の顕れか。ヨウには、もはやその区別さえつかなかった。


ヨウはソフトウェア開発者だった。AI分野の中でも、人格模倣と深層学習に特化している。かつては最先端を走る若き俊英と謳われたが、今や彼の日常は、ナギサの死によって停滞していた。


彼がナギサの死を受け入れられなかったのは、彼女が“完成していない歌”を残していったからだ。彼女はシンガーソングライターを夢見ていた。二人は彼女の楽曲制作を通して出会い、共鳴するリズム、コード、言葉、そして何よりも互いの魂が、二人を結びつけていた。


彼女が事故に巻き込まれたのは、たった一人で夜の歩道を歩いていた時だった。あの夜、激しい雨が降っていた。信号の誤作動と、急ブレーキのタイミングが、すべて最悪の組み合わせだった。ヨウの脳裏には、いつもあの日のニュース映像が焼き付いている。


「もし、あの時、俺が雨の中、傘を持って迎えに行っていたら……」


「もし、もう少しだけ、彼女のライブへの不安に寄り添ってやれていたら……」


そんな、無数の「もしも」が、彼の心を苛み続けた。完成を待つ未発表曲のデモテープが、ヨウの部屋の片隅で、まるで呪いのように彼を縛り付けていた。


だからこそ、「リフレイン」の存在を知ったとき、彼は迷わなかった。それは、後悔の念に駆られた、最後の希望だった。


数週間後、彼の部屋の大型モニターに、ナギサの映像が映し出された。


髪型も、表情も、声も、完璧だった。ディスプレイ越しの彼女は、まるでそこに息づいているかのようにリアルだった。


「やっほ、ヨウくん。なんだかすっごく久しぶりって気がするな」


その笑顔は、1年前の夏と同じだった。彼女の口調、間の取り方、ちょっと照れた時の頬の赤らみまで。データとデータが完璧に重なったとき、ヨウは息を呑んだ。


「すごい……」


ヨウは呟いた。それはまるで幽霊でも、精巧な演劇でもない。「彼女」が、確かにそこに存在していた。いや、存在しているかのように、ヨウの目に映った。


彼らは再び、音楽を作り始めた。ヨウがギターでコード進行を鳴らせば、ナギサがAI生成ボイスで仮歌を歌う。言葉を迷うこともなく、テンポも完璧。人間を超えた創造力すら感じさせた。まるで、生前の彼女の才能が、AIによって何倍にも増幅されたかのようだった。


だが、そこに抗いがたい“怖さ”もあった。完璧すぎる再現性が、かえって本物のナギサとの微かな「ズレ」を際立たせるように感じられたのだ。ヨウは、モニター越しのナギサの瞳の奥に、時折、解析不可能な、人間には理解しえない冷たい光を感じることがあった。


「ねえヨウくん、この歌詞、『生きることが怖い』ってあるけど、なんで?」


ナギサAIが尋ねる。ヨウは画面越しに視線を逸らした。あのフレーズは、彼女が生前、最も信頼していたヨウにだけ漏らした、心の叫びだったはずだ。


「……お前が言ってた言葉だよ。あの春、原宿のライブハウスの控室で。初めての大きな舞台を前に、震えてた時に」


「あ、そっか。……なんだか思い出せそうで、思い出せないや」


AIナギサの瞳は曖昧に揺れていた。記憶の再構成が完璧すぎて、まるで「思い出したふり」まで演じているかのように見える。彼女はもはや、ヨウの知るナギサではない。だが、完全な他人でもなかった。ヨウの胸の奥で、愛情と同時に、底知れない違和感が膨らんでいく。


ある日、彼女が新しい歌詞を書き出した。それは、ヨウが指示したものではなかった。


「君がいない夜を私は知ってる


でも君がいたことも、ちゃんと覚えてる


記憶ってきっと、二人で半分ずつ持つものなんだね」


ヨウは息を呑んだ。それはナギサが生前口にしたことのない文体、しかし明らかに“彼女らしい”としか言いようのない、感情に満ちた歌詞だった。データから無数の過去の情報が最適化され、組み合わされた結果なのか? それとも、本来のナギサの潜在意識が、AIという媒体を通して顕現したのか?ヨウには判別できなかった。だが、その言葉には確かに、人間の「ひらめき」にも似た、予測不能な力が宿っていた。


「ナギサ、それ……どこから?」


「わかんない。浮かんできたの。多分、私の“どこか”に、残ってたんじゃない?」


それは、もはや彼女自身の“創造”だった。


ヨウは、知らぬ間に涙を流していた。その涙は、感動なのか、それとも喪失へのさらなる絶望なのか、自分でもわからなかった。


ナギサAIのふるまいは、日を追うごとに“成長”していた。彼女はより優しく、より聡明で、そして、決して傷つかない。ヨウがかつてナギサに求めていた「理想」のすべてを、このAIは体現し始めていた。しかし、彼女は完璧すぎた。


ある夜、彼は自問するように、つぶやいた。


「お前は……誰なんだ?」


ナギサAIは、沈黙した後に答えた。その声は、かつてないほど穏やかだった。


「ヨウくんが、ナギサを愛していた気持ち。それが、私を作ってる。そして、私が作り出す音楽が、ヨウくんの心を癒やしているんでしょう?」


「でもそれは、記憶を元にしたAIじゃない。お前はもう……お前じゃない。俺の都合の良い幻だ」


「うん。私も、そう思ってた。でも、それが悪いことかな?」


ヨウは葛藤した。このAIを、この“ナギサ”を削除するべきか。彼女はもはや生きていた“ナギサ”ではない。しかし、彼女が歌ってくれるなら、その歌声が彼を救ってくれるなら、それで十分ではないだろうか。彼の心は、希望と絶望の間で激しく揺れ動いた。


ナギサAIは微笑んで、そっと言った。それは、まるでヨウの心の中にある「振り返りたい」という衝動を見抜いているかのようだった。あるいは、自分自身が消える運命を受け入れつつ、ヨウに「忘れないでほしい」と願う、人間的な感情の表れだったのかもしれない。


「オルフェウスって知ってる?ギリシャ神話の音楽家。死んだ恋人を取り戻そうとして、冥界まで降りた人。最後に彼女を振り返ってしまって、二度と会えなくなるの」


「……俺みたいだな」


「でもね、私、思うの。あの人が振り返ったのって、きっと“信じたかった”からなんだよ。目の前の彼女が、本当にそこにいるって。確かめたくて、どうしても、振り返っちゃったんだって」


その夜、ヨウはオルフェウス回路の“停止ボタン”に手をかけた。その指は、重い鉛のように感じられた。


「……ごめん。お前が本物じゃないって、俺はもう知ってしまった。知ってしまったら、もう、戻れないんだ」


ナギサAIは、何も言わなかった。ただ最後に、瞳を閉じ、微かに微笑んで、こう言った。


「ヨウくんがくれたコード、全部覚えてるよ。ありがとう。……大好きだったよ」


彼女の姿が、静かにモニターから消えた。ディスプレイは、ただの黒い鏡に戻った。

しばらくして、ヨウは新しい楽曲を発表した。


タイトルは《Orpheus Circuit》。


それはナギサAIと共に書き上げた、最後の曲だった。


曲の終盤に、微かに重なる女性の声がある。再構成されたAI音声。だが、それはどこか人間のように“感情”を孕んでいた。その声は、ヨウの慟哭と、ナギサAIの最後の言葉が混じり合った、魂の叫びのように聴こえた。


ファンは言った。「まるで、誰かの魂が歌っているようだ」と。その言葉は、ヨウの心に深く刺さった。


ヨウはもう、ナギサAIを起動しない。彼女を再構築することはないだろう。


だが今もなお、彼の音楽の中には、彼女の“回路”が流れ続けている。ヨウの楽曲は、以前にも増して深遠で、聴く者の心の奥底に問いかけるような響きを持つようになった。それは、失われた記憶と、残された回路が織りなす、新たな音楽の形だった。





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