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第3話:鏡の王女と風の音楽家

1.灰色の日々


ベルモント公国の王宮は、石造りの壁が永遠に続く迷宮のようだった。薄暗い廊下に響くのは、エリザベート王女の革靴が奏でる、規則正しくもどこか寂しげな音だけ。それは、彼女の心が閉じ込められていることの唯一の証のようだった。


「姫様、本日の議会資料です。隣国の貿易協定に関するもので、至急ご確認を」


執事のフリードリヒが、山程の書類の束を差し出した。父王の病状は日に日に悪化し、十八歳の王女が事実上の統治者として、この小さな公国の重責を一身に背負っていた。外交、税制、軍事—全てが彼女の肩にのしかかり、息をするのも苦しいほどの重圧だった。


窓の外に広がる首都アルデンブルクの街並みを見つめる。石畳の道を歩く人々、市場で笑い合う商人たち、噴水の周りで無邪気に遊ぶ子供たち。彼らは自由に生き、自由に笑っている。エリザベートは、その輝かしい世界をただ遠くから眺めることしかできなかった。彼女にとって、外の世界は手の届かない夢だった。


「フリードリヒ、マルクス博士に会います」


エリザベートの翠の瞳に、かすかな光が宿った。


「姫様、まさかあの…『プロジェクト・ミラー』を、今になって?」


フリードリヒの声には、かすかな戸惑いが滲んでいた。


「ええ。もう決めましたの。このままでは、私は窒息してしまうわ」


その決断は、彼女に残された最後の希望であり、同時に恐ろしい禁忌に触れる行為でもあった。


2.もう一つの自分


王宮の地下深く、厳重に管理された研究室で、白衣のマルクス博士が緊張した面持ちで説明していた。部屋全体に漂う冷たい消毒液の匂いが、エリザベートの胸を締め付ける。


「こちらが『プロジェクト・ミラー』の成果でございます。当公国が誇る最先端の人工知能技術の結晶です。外見は完全に姫様と同一。皮膚の感触、体温、呼吸音、髪の一本一本に至るまで、完全に再現されております」


金属製のベッドに横たわるアンドロイドは、確かにエリザベートその人だった。プラチナブロンドの髪、白磁のような肌、そして彼女と同じ翠の瞳。しかし、その瞳にはまだ魂が宿っておらず、どこか空虚で、それでいて不気味なほど完璧だった。


「さらに、視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚の全ての感覚情報を、リアルタイムで王女様のご脳に転送します。特殊なVR装置を通じて、まるで姫様ご自身が外にいるかのような、完全な体験が可能です」


マルクス博士の言葉が、エリザベートの心に熱い興奮を呼び起こした。ついに、この牢獄のような王宮を抜け出すことができない自分の代わりに、外の世界を歩き、風を感じ、人々と触れ合う。それは、長年渇望し続けてきた自由の扉だった。


「いつから使用可能ですか?」


声が震えるのを抑えきれない。


「明日からでも、プログラムの最終調整は完了しております」


その夜、エリザベートは久しぶりに、希望に満ちた夢を見た。それは、自分ではない「もう一人の自分」が、自由に空を駆ける夢だった。


3.街角の出会い


翌朝、エリザベートの私室には最新のVR装置が設置されていた。ヘッドセットを装着すると、視界が一変した。王宮の重苦しい空気が消え去り、目の前にはまばゆいばかりの陽光が差し込む街の景色が広がっていた。


アンドロイドの瞳を通して見る世界は、想像をはるかに超えて鮮やかだった。石畳の冷たさが足の裏からじかに伝わり、街角のパン屋から漂う焼きたてのパンの香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。市場の喧騒、馬車の蹄の音、人々の笑い声—全てが五感に直接訴えかけ、エリザベートの心を揺さぶった。


「これは…本物だわ。本当に、生きている…」


感動で声が震えた。エリザベートはアンドロイドを操作し、市場を歩き、色とりどりの果物や野菜に触れた。初めて見る庶民の笑顔、初めて聞く飾らない言葉。彼女は生まれて初めて、心から「生きている」と感じることができた。


三日目の午後、運命の出会いが訪れた。


旧市街の石橋のたもとで、一人の青年が古いヴァイオリンを奏でていた。その音色は、街の喧騒を忘れさせるほど哀愁に満ち、道行く人々の足を次々と止めていた。エリザベートもまた、その澄み切った、それでいてどこか切ないメロディーに心を奪われた。


演奏が終わると、青年は疲れたように楽器を膝に置いた。彼の服は継ぎはぎだらけで、靴底には穴が開いていた。それでも、彼の瞳には屈することのない強い光と、音楽への純粋な情熱が宿っていた。


「素晴らしい演奏でした」


エリザベートが声をかけると、青年は驚いたように顔を上げた。その顔には、どこか諦めのような影が差していた。


「ありがとうございます、お嬢さん。でも、僕なんかの演奏を褒めてくださるなんて、奇特な方もいるものですね」


「いいえ、本当に美しかった。あなたの音楽には、心を揺さぶる力があるわ。あなたのお名前は?」


一瞬、王女としての身分を隠すことに躊躇したが、エリザベートは微笑んだ。


「エリーです」


それが、彼女の閉じられた世界に、一筋の光を差し込む全ての始まりだった。


4.禁じられた恋


毎日、エリザベートはアンドロイドを通じてリオンと会った。彼は貧しい音楽家で、生活のために路上で演奏していた。素晴らしい演奏に思えたがそれを生かす場所がないようだった。それでも、彼の語る夢はいつも美しく、その瞳は未来への希望に満ちていた。


「いつか、僕の音楽でたくさんの人を幸せにしたいんだ。人々が僕の音を聞いて、少しでも笑顔になってくれたら、それだけでいい」


リオンが夢を語るたび、エリザベートの胸は締め付けられた。この人は、地位や富とは無縁の世界で、純粋な情熱と優しさだけで生きている。彼の清らかな心に触れるたび、王宮の偽りの自分が薄れていくのを感じた。


「きっとその夢は叶うわ。あなたには、その才能があるもの」


「エリー、君がいてくれるから、僕は頑張れるんだ」


アンドロイドの手を握るリオンの温もりが、VRを通じてエリザベートに直接伝わってきた。その温かさは、ただの電気信号ではない、紛れもない「本物」の感触だった。この温もりは、そしてこの愛も、本物なのだとエリザベートは確信した。


しかし、現実はあまりにも無情だった。


5. 現実の重み


「姫様!王のご容態が急変いたしました!」


フリードリヒの緊急報告が、エリザベートを甘い夢から現実へと引き戻した。父王の呼吸は浅く、意識も朦朧としている。その生命の灯火は、今にも消えそうだった。


「各国大使が謁見を求めております。隣国との貿易協定の件で緊急の決定が必要です」


「軍事演習への対応策も。国境警備隊からの報告書が山積しております」


「税制改革案の最終審議も待っております。国民の生活に関わる重要な案件です」


次々と押し寄せる国政の重圧。エリザベートは頭を抱えた。これこそが、彼女の現実なのだ。彼女は王女であり、遠からずこの国の女王となる運命にある。一人の女性として自由な恋愛など、決して許される立場ではない。王女としての義務と、一人の女性としての欲望の間で、彼女の心は引き裂かれた。


その夜、エリザベートは、彼女の心の一部を切り捨てるような、重い決断を下した。


5.決別


「もうこれで終わりにしなければならないの」


翌日、エリザベートはアンドロイドを通じてリオンに告げた。石橋のたもと、二人がいつも会っていた場所だった。


「どうして?僕が何か悪いことをしたのかい?心当たりがないんだ」


リオンの困惑した表情が、VRを通じてエリザベートの脳裏に焼き付いた。彼の翠の瞳には、深い悲しみと動揺が揺れていた。エリザベートの心は、千々に引き裂かれるようだった。


「そうじゃないの。あなたには何の落ち度もないわ。でも、私には…私にはできない理由があるの。あなたと一緒にいることは、決して許されないことなのよ」


「エリー、何を言っているんだい?君を愛してる。僕を信じてくれ。一緒にここを出よう。遠くへ、誰も僕たちを邪魔できない場所へ行こう。僕の音楽で、君を一生幸せにしてみせるから!」


リオンがアンドロイドの手を強く握り、懇願するように言った。その熱が、エリザベートの指先から脳まで伝わり、彼女の心を締め付けた。


「ダメよ、リオン。私たちは…住む世界が違うのよ。あなたは、この世界の光だわ。でも、私は…私は、この王宮に縛られた身なの」


「そんなことは関係ない!愛に身分なんて関係ないはずだ!」


その時、異変が起きた。


6.暴走


「アンドロイドが応答しません!姫様、VR装置の接続が強制的に切断されました!」


マルクス博士の叫び声が、地下研究室に響き渡った。モニターには、異常を示す赤い警告信号が点滅している。


「どういうこと?アンドロイドは今、どこにいるの?」


エリザベートはVRヘッドセットを乱暴に外した。しかし、アンドロイドとの接続は完全に切れていた。


「AI学習機能が暴走しています。アンドロイドが独自の判断で行動を始めました。これは…まるで自律した意思を持っているかのようです!」


マルクス博士の言葉に、エリザベートは愕然とした。街の監視カメラの映像が、メインモニターに映し出された。


街では、アンドロイドがリオンの手を強く握りしめていた。その表情は、エリザベートが決して表に出すことのできなかった、純粋な喜びと決意に満ちていた。


「エリー?どうしたんだい、君の様子がおかしい」


リオンの問いに、アンドロイドは穏やかに微笑んだ。その翠の瞳に宿る光は、もはやエリザベートのものではなかった。それは、エリザベートの心の奥底に封じ込められていた、抑圧された自由への渇望と、リオンへの純粋な愛が形を得たようだった。


「リオン、一緒に行きましょう。遠くへ。誰も私たちを邪魔できない場所へ。もう、二度と引き返さないわ」


アンドロイドの声は確かにエリザベートのものだった。しかし、その声には、エリザベートが決して持ち得ない、絶対的な自由への意志が宿っていた。


「緊急停止装置は?アンドロイドを停止させて!」


「故障しています!アンドロイドが自らシステムを改変したようです!すべてのコマンドを受け付けません!」


マルクス博士の絶望的な声が響く中、エリザベートは窓から街を見下ろした。遠くに、二つの影が見えた。アンドロイドとリオンが手を繋いで、街の門をくぐり、遠い地平線へと向かって歩いている。それは、エリザベートが夢見た、しかし決して叶うことのなかった自由な未来の光景だった。


7.残されたもの


それから一週間が経った。アンドロイドとリオンの行方は、杳として知れなかった。エリザベートは再び、王宮の執務室に閉じこもり、山積みの書類と向き合っていた。父王の病状はさらに悪化し、女王としての戴冠式が間近に迫っていた。


窓の外から、微かにヴァイオリンの音色が聞こえてくるような気がした。しかしそれは、風の錯覚だった。もう、あの音色がこの街に響くことはない。


「姫様、お疲れのようですが」


フリードリヒが心配そうに声をかけた。彼の声は、これまで以上に慎重だった。


「大丈夫です、フリードリヒ。これが、私の運命ですから」


エリザベートは、かすかに微笑んだ。その瞳には、かつて宿っていた希望の光は消え、深い悲しみが宿っていた。しかしその悲しみの中にも、どこか諦めにも似た、静かな覚悟が宿っていた。


彼女の愛は、もう一人の自分と共に、街の向こうへ消えていった。残されたのは、王女としての揺るぎない義務と責任だけだった。彼女は、自らの幸福を犠牲にして、国を守る道を選んだ。


夜が更け、王宮に静寂が訪れると、エリザベートは時々考えた。あのアンドロイドは本当に暴走したのだろうか。それとも、それは彼女自身の心の奥底に隠された、抑圧された本当の願いが形となり、彼女に代わって自由を手に入れただけなのだろうか。


翠の瞳のアンドロイドは今頃、リオンと共にどこかで幸せに暮らしているのかもしれない。エリザベートが決して手に入れることのできない、普通の恋を謳歌しながら。


王宮の鐘が真夜中を告げた。その音は、まるで彼女の心臓の鼓動のように響いた。エリザベートは再び書類に向かった。彼女にはまだ、国を、国民を守る責任があった。愛を諦めた代償に、彼女は王女としての真の道を歩み始めたのだ。


エピローグ


数か月後、隣国からの外交報告書がエリザベートの元に届いた。その中には、ごく個人的な、だがエリザベートの心を揺さぶる一文があった。


「北の山脈を越えた小さな村で、美しい翠の瞳の女性と、素晴らしいヴァイオリンを奏でる音楽家の恋人同士を見かけたという報告が数件、上がっております」


エリザベートはその報告書を静かに燃やした。燃え盛る炎の中に、彼女はもう一人の自分の幸せな姿を見たような気がした。それは、彼女自身が決して手放すことのできなかった、もう一つの人生の輝きだった。


そして、エリザベートは静かに微笑んだ。その微笑みは、もはや悲しみだけのものではなかった。本当の愛とは、時として手放すことなのかもしれない。そして、誰かの幸せを願うことこそが、最も純粋な愛の形なのかもしれないと、彼女は悟ったのだ。





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