7
蜜夏がフォークだと分かってから何回目かの金曜日。
面談予定リストに入っていない生徒が、毎週のようにカウンセリング室にやってくる。
「ももせんせ」
砂糖のように甘い声で蜜夏の名前を呼び、カウンセリング室に入ってくる棗。
彼は後ろ手にドアを閉めたあとカチャリと鍵を閉め、机の前で俯いている蜜夏の後ろの窓の鍵もカーテンも閉めた。
カーテンが閉まって少し薄暗くなった室内。
静かすぎる室内にドキドキと忙しなく脈打っている心臓の音が響き渡らないか、蜜夏は俯いたまま緊張していた。
高校生相手に何を怖がっているんだと思われるかもしれないけれど、棗の匂いが近づいてきただけで蜜夏の頭の中は支配される。
蜜夏はフォークで本来なら捕食者なのに、逆にケーキの棗に飲み込まれるんじゃないかと錯覚するほど彼の重く濃厚な匂いにずくりと体が重くなった。
「ももせんせい、一週間お疲れ様でした」
「……ん」
「あ、でも、ももせんせーのクリニックは土曜の午前までやってるんだっけ。明日まで仕事だ」
「そ、だね……」
「でも一週間頑張ったご褒美、ね?今週はいいでしょ?」
するり、蜜夏の後ろから太くて長い指が顎を撫でて、熱いため息がもれた。
顎を撫でていた指が頬を撫でたり鼻を撫でたりして、もう片方の手は蜜夏の首筋や肩に絡みつくように撫でていた。
平常心、平常心、と思いながらも彼が手を動かすたびに甘い香りが鼻をかすめてごくりと唾を飲み込んでしまう。
蜜夏が我慢しているのが伝わったのか頭上からフッと小さな笑い声が降ってきた。
「ずっと俺を拒否し続けるのもしんどいでしょ、せんせー。そろそろ素直になりなよ」
「……そんなこと、しちゃダメだって分かってるでしょ?棗くん」
「分かってるけど、分からない。ももせんせーのことしか、分かんないよ」
実はあの日以来、棗には触れられているが蜜夏からは一切触れていない。
だから彼の甘い匂いだけを毎回嗅いで、その甘さを舌で味わうことには一生懸命抗っている。
そんな蜜夏が面白くないからか、棗はしつこく絡んでくるのだ。
「俺、もも先生にしか食べてほしいなって思ったことないんです」
「へ……?」
「こんなこと、蜜夏さんにしかしないよ」
不覚にも、きゅんとした。さすがモテ男は言うことが違う。
蜜夏がもし棗と同級生だったり棗のことが好きな女性だったり、学校関連で出会ってなければ絆されていた。
もうすぐ「分かった」と言いそうになるのをグッと堪える。言葉を飲み込んだ蜜夏に気が付いたのか、見下ろしてくる棗はむっと唇を尖らせた。
「ももせんせーって本当に頑固だね」
「っこれでも一応、先生、だから……」
「の、割には欲しくてたまらないって顔してるけど」
「これは、生理現象で……っ」
「俺がももせんせーに食べられたいのも、生理現象なんですよね」
「ほんっとうに生意気な高校生だなぁ……」
「よく言われます」
金曜日の放課後、鍵を閉めて20分。
予定表に名前がない生徒をカウンセリング室に入らせたまま追い返さず、自分の体を生徒に好き勝手に触らせている時点でこちらから触れていないとしても立派なルール違反だ。
今のところ他のケーキの生徒と接触しても『食べたい』とは思わないけれど『美味しそう』だと感じることはある。
たがやはり棗は別格だ。
ただ近くにいるだけで脳が支配されるような甘い匂いに、彼が蜜夏に触れてくる体温さえもじゅわっと溶けてシロップになりそうなほど熱くて甘い。
これをただただ強い精神のみで我慢している蜜夏を誰か褒めてほしいものだ。
「ももせんせい、フォークになったこと誰かに言った?学校以外で」
「……言ってないよ。校長先生とクリニックの院長くらいかな」
「周りにケーキはいる?」
「多分、いない。本能的にそうかもって思う人と出会ってないから……学生時代の友達にケーキはいたけど……」
「ふうん、そっか。他に学校の生徒で食べたいなって思った人は?」
「……いるわけない」
少し言い淀んだのは、棗に対してはそう思ってしまったから。
彼がケーキだと分かり迫られた時に、彼のことを食べたいと思ってしまったのは確実に覚えている。あれは蜜夏の意思ではなくフォークの本能がそうさせたと言い訳したいけれど、棗と会うたびに一瞬思ってしまうものだからどうしようもない。
「"他の生徒"にいないってことは、俺のことは食べたいと思ったってことだよね」
「……は?」
「嬉しいなぁ、蜜夏さんもそう思ってくれてるなんて」
「ちょ、まって、そんなこと言ってない!」
「照れ隠しでしょ?俺にはちゃんと伝わってるから大丈夫ですって」
「何も大丈夫じゃない!先生の話を聞きなさ……!」
いい加減にしてくれと立ち上がって怒ろうとしたら、時間が止まった。
ふう、と熱い息がお互いに唇にかかってしまいそうなくらいの至近距離に棗の顔が迫っていて、蜜夏は思わず言葉も動きも止まってしまったのだ。
「……ももせんせ、そのままきていいんだよ?」
「や、め……っ」
「甘くて美味しいケーキが誘ってるんだから、本能に従ってみて」
「だめ、だめだって、なつめく……」
「お願い。俺、杏先生に食べられたい」
「あ……っ!」
ぐいっと腰を引き寄せられて、抵抗する間もなく唇が重なってしまった。
蜜夏はふるふる震えながら頑なに唇を閉じていたのだが、それに気が付いた棗に「口開けて。じゃないと食べられないでしょ」と言われても首を横に振った。
「まじでももせんせーって強情だね。でもそういう硬派なところも好きだよ。女子が密かに狙ってるわけだ」
「ふぇ……?」
「こっちの話。じゃあそろそろ帰ります、俺は。今度はちゃんと食べてくださいね」
そう言って蜜夏に額に口付けて、棗はカウンセリング室を出て行った。
「な、な、なんて子だ……っ」
棗がいなくなった後にぺろりと唇を舐めると、甘くて濃い味が口いっぱいに広がった。