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自分がフォークだと分かった週明け、蜜夏は時間を取って学校を訪れていた。
今日はカウンセリングに行く金曜日ではないけれど、校長先生に話があったので月曜日に時間を取ってもらったのだ。
「それで、どうなさいました?杏先生」
「あの、実は……フォークに転換している事実が分かりました」
「え?か、杏先生が?」
「はい。二週間ほど前に流行りの風邪を引きまして、それから味覚がおかしいなと思っていたんです。流行りの風邪の後遺症で味覚異常があると聞いていたので、それかなと思ってましたが…検査をするのが遅くなって申し訳ありませんでした」
味覚がおかしいなと感じてからカウンセリングのために学校を訪れたのは二回ほど。その中でケーキの生徒と何人か接してきたけれど、ケーキの生徒に対して『食べてみたい』という感情はなかった。
ただそれは、自分がフォークだと自覚していなかったのもあるかもしれないけれど。
だが自覚がない時の話なので、自分がフォークだと自覚した今、スクールカウンセラーとして学校に通い続けるのは無理がある。
だから担当者の変更を申し出に来たのだが、校長先生は「ふむ…」と言って口元に指を当てたまま考え込んだ。
「もちろん、一般的に考えれば担当者を変えたほうがいいのかもしれません。でも、杏先生に心を開いた生徒たちは……急に担当者が変わったらまた、心を閉ざす可能性もありますよね」
「そう、ですね……」
「杏先生が同じ状況になったからこそ今までより更に生徒と向き合えるのではないでしょうか?」
「でも……」
「私は今まで見てきた杏先生を信じています。フォークだから、ケーキだからって諦めないでほしい……生徒にそうおっしゃっていたのは、杏先生ですよね」
自分の言葉に責任を持てないわけではないけれど、確かにこの一年、何回この言葉を生徒に言ってきたか分からない。
生徒には言って自分には適用しない言葉なんて、あまりにも無責任だ。
たった一年、されど一年。
校長先生とは挨拶をする程度で、この学校のカウンセラーの担当になった時に話したくらいの記憶しかない。
でもはやり多くの生徒と先生をまとめる、この学校で一番偉い人だ。
週一でしか来ないカウンセラーのこともよく見ているなと驚いた。
「もしも本当に、この線から先に出てしまうと思うときがきたら、考えましょう。それまではぜひ……“諦めないで"ください、杏先生」
結局校長先生に諭されて、カウンセラーとして続行することになった。
とりあえずの対策としてはカウンセリング予定表を学年主任や担任にも配布すること、今までより少し厳しく時間を区切って予定を入れること、特にケーキの生徒と面談のときはすぐに動けるように誰かが必ずフリーでいることを条件にしてもらった。
さすがにカウンセリング室に監視カメラなどを設置するのは面談に来た生徒の人権にもかかわるので、すぐ職員室に連絡ができるように電話を配置してもらうことに。
「……あれ、ももせんせ?」
「っ!?」
「今日金曜日じゃないのに」
学校に来たついでにカウンセリング室に寄って、予備のフォーク用栄養ドリンクを置こうとしていた。
放課後、毎週金曜日と同じように蜜夏の背中にかけられた声に振り向くと、そこには鞄を持った棗が立っていた。
「どうしたの?何か用事だったの?」
「あー、いや…ちょっとね」
「へえ…フォーク用の栄養ドリンク。これが"ちょっと"の用事?」
まさか棗が来ると思っていなかったので、隠そうとしていた栄養ドリンクが見えていたのか、慌てて鞄の中に隠したドリンクの瓶を後ろからひょいっと奪われた。
「あ、ちょ、返しなさい!」
「自分用じゃなくて生徒用とか言っても信じないですからね、俺」
「なつめく……!」
「ねえ、ももせんせ」
片手は栄養ドリンクをぷらぷらと揺らしながら、もう片方の手は蜜夏をぎゅっと抱きしめている。
棗は蜜夏よりも身長があり大きいので、棗の片腕の中にすっぽりと収まってしまった。
「"フォークになってたら俺に絶対教えて"って言ったじゃん」
相手はただの高校生なのに、低い声で囁かれるとどくんっと心臓が大きく脈打った。
――なに、なんで、なんか……
「あまいにおい、が……」
前から感じていた棗の香水の匂い。
抱きしめられているからか、お菓子のように甘い香水の匂いがダイレクトに伝わってくる。
その匂いが鼻を通って体中に巡ってきて、脈拍がどくどくと速くなっていった。
蜜夏はあまありお酒を飲まないけれどアルコールを摂取したときのような体の熱さと、頭の中がふわふわしている感覚。
クリニックは退勤してきたけれど今はまだ学校で、この中で自分は『カウンセラーの先生』なのでもちろんお酒を摂取したりなんてしていない。
それなのになぜ自分の体は熱くなって、脈拍も速く、頭の中がふわふわしているのだろうか。
「俺が助けてあげるって、言ったでしょ、蜜夏さん」
「んん……っ!や、な、なに……!?」
「蜜夏さん、心臓がドキドキしてる。体も熱くなって、俺のこと、意識してくれてるの分かります」
「そんな、ちが……!ちがう!」
「ね、蜜夏さん。俺があなたの"ケーキ"になってあげる」
「へぁ……?」
「俺の"匂い"が分かるんだもん、蜜夏さん。びょーいんの先生に話、聞かなかった?」
栄養ドリンクを置いた手がするっと蜜夏の細い顎を撫でる。
匂いが分かることと病院の先生の話に何の関連があるんだ?
そう思ったけれど、頭の中にモヤがかかったようで何も考えられない。離れなくちゃいけないのになぜかくったりと棗に身を預けている蜜夏の頭上から、くすりと小さい笑い声が落ちてきた。
「シェリ・ケーキの話、聞かなかった?」
「き、いた、かも……」
「フォークにとって"最愛のケーキ"は普段分からない匂いまで分かる、極上のケーキ」
「や、やめ……」
「俺が、蜜夏さんにとっての"シェリ・ケーキ"だよ。蜜夏さんの本能は分かってるみたいだけど」
そう言ってくすくす笑う棗の笑い声が、ハチミツのように頭の上からとろっと伝ってくるような感覚がした。