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「それで、なにがあったの?先生」
「別に、そんなに大したことはないよ」
「それでも。話すだけで楽になることってあるじゃん」
「……棗くんって、カウンセラーに向いてるかもね」
「ええ?話逸らさないでよ」
話すだけで楽になるでしょ、なんて。本当に彼はカウンセラーの素質があるかもしれない。
別に馬鹿にしてるわけではないけれど蜜夏がくすくす笑っていると、彼はむうっと唇を尖らせて拗ねてみせる。
患者に心を開いてもらえないから拗ねるなんて、やはり彼はただの高校生だなと笑った。
「流行の風邪を引いてから、まだ鼻が治らなくて。それであんまりご飯の味がしないんだよね」
久しぶりに寝込むほどの風邪をひいた。
熱は40度まで上がって指一本動かすのも辛かったし、喉はガラスの破片を飲み込んだように鋭い痛みが走り、鼻は花粉症のようにぐずぐずだった。
それ以来まだ鼻だけが本調子じゃなく、匂いもあまり分からないしご飯の味もイマイチ。
流行りの風邪には後遺症で味覚異常が出るかもと聞いたから、きっとそれなのだろう。
「それってフォークになってるんじゃない?」
いつか気がついたら治ってるだろう。
そう楽観的に考えていたのだけれど、棗の鋭い一言が心臓に突き刺さった。
正直考えないようにしていた『フォークへの転換』。
他の人に指摘されると、どくんっと心臓が大きく脈打つ。
日常的にフォークやケーキの人と接しているのに、自分に限って『犯罪予備軍』になっているなんて、心のどこかで否定したかったのだ。
だから同僚に「万が一ってこともあるし、検査してみたら?」と言われても、結果が怖くてなかなか病院に行けていない蜜夏の動揺を棗の一言が誘った。
「……ただの風邪の後遺症だよ」
「それならいいですね。でも、ももせんせーならフォークになっても大丈夫じゃない?」
「え?どうして?」
「だって、理性とか感情をコントロールする方法を一番知ってるのはカウンセラーでしょ。もしそうなってたとしても、ももせんせーはきっと大丈夫」
なんの根拠もない話だけど、棗が言うとなぜか妙に説得力がある。
これまで毎週のように蜜夏を見てきた人だからだろうか?
棗が言う『大丈夫』という言葉に、蜜夏は少し安心した。
「もしも検査して本当にフォークになってたらさ」
「うん?」
「俺には絶対教えてね、ももせんせ」
「え……」
「俺なら助けてあげられるから」
「それってどういう意味?」
「ふは。先生がフォークになってたら教えてあげる」
蜜夏を見ながら妖しい笑みを浮かべている棗にもっとよく話を聞こうと思ったけれど、カウンセリング室のドアが開いて二人の話は中断された。
「棗、やっぱりここにいた」
「なに、一護。俺いま、ももせんせーと逢引き中なんだけど」
「逢引きを邪魔して悪いけど、スガセンが呼んでる。職員室来いって」
「げ、まじか。明日じゃダメ?」
「明日土曜だろ。さっさと行けって!」
棗を探しにきた男子高校生は古藤一護といって、棗と同じ3年生で彼がいつも一緒にいる友達だ。
一護は棗に負けず劣らずのモテ男で、校内でもよく女生徒と手を繋いでいたり腕を組んだりして歩いているのを見かける。
ただ、その女生徒は彼女ではないのか、いつも違う女の子が隣にいるのだけれど。
そんな一護の姿を見るたびに、プレイボーイ、陽キャ、モテ男、なんて貧相なボキャブラリーの単語が蜜夏の頭の中に浮かぶものだ。
「じゃあまた来週ね、ももせんせー」
ひらひらと手を振って棗は一護と共にカウンセリング室を出ていった。
「一応消臭するか……」
棗はいつもお菓子のように甘い香水をつけている。彼の趣味なのか、取り巻きの女の子たちがつけているものか分からないけれど、この匂いは『フォーク』に誤解されるかもしれない。
基本的にはケーキの子から甘い匂いはせず、肌や体液を舐めると甘い味がする。でも香水だとしても触発されてしまうフォークもいるだろうから、一応換気をしたり消臭スプレーを振りかけてから次の生徒を迎え入れるのだ。
そんなことを繰り返しながら金曜日のカウンセリングは終了し、その帰り道に蜜夏はコソコソとバース検査の病院を訪れた。
「い、一応だよ、一応……学校に出入りしてるわけだし、一応検査しておかなくちゃだから……」
ご飯の味がしないなんてきっと気のせいだ。風邪の後遺症だ。
そう思いながら病院を受診して、後悔した。
――いや、後悔という言い方はおかしい。きちんと検査をしてもらったから、分かったことなのだから。
「杏さん、あなたはフォークに転換していますね」
「……え?」
「最近流行っている風邪の後遺症で味覚異常が出るらしく、うちの受診をする方も多いんですが……杏さんは後遺症ではなく、フォークになったことによる味覚異常のようです」
医師からそういう話をされ、蜜夏は頭を鈍器で殴られたような衝撃が走る。
目の前がぐわんぐわん揺れてきて、なんだか呼吸も苦しい。
まさか自分が『犯罪予備軍です』と言われる日がくるだなんて夢にも思っていなかったから、もしかしたらと思っていても理解は追いつかなかった。
「動揺するお気持ちは分かります。でも、きちんと向き合っていきましょう」
今まで患者にそれを言う立場だった蜜夏は医師からそう投げかけられ、視界がフッと真っ暗になった。