7
マンションのエントランスで会ってそのまま抱き合っていたので、人の目があるからと蜜夏の部屋に上がらせてもらった。
帰りなさいと言われると思っていたので、その予想とは裏腹に蜜夏が部屋に招き入れてくれて安堵する。一月の始めまで滞在していたこの部屋がひどく懐かしく感じて、でも蜜夏とはなんとなく気まずくて、借りてきた猫のように大人しくソファに座った。
「とりあえず……心配させてごめん。突然来なくなって驚いたよね……」
「驚いたどころじゃないですよ……約束、破られたのかと思いました」
「……理由もなく消えないって約束、破っちゃったようなものだよ」
「"ごめんね"って言葉があったから、理由もなくってわけじゃないのかなと思ったんですよ」
気を遣ってお茶を出そうとしてくれる蜜夏の細い腕を引いて座らせるが、彼は頑なにコートとマフラーを外そうとしなかった。
「暑くないですか?暖房も効いてるし」
「あ、えっと……」
「そうだ、どこか行こうとしてたんですもんね……俺がいたから引き返させてすみません」
「棗くんが謝ることじゃないよ。むしろここに来させちゃったから、桃原さんと……」
「それは、蜜夏さんが気にすることじゃないよ。むしろ自分で釘刺せてよかったですから」
「それなら、いいけど……棗くんが、なにか、されたのかと思って……」
「?」
歯切れの悪い蜜夏の言葉に首を捻る。蜜夏は棗の手をぎゅっと握りしめたまま俯いて、部屋の中は寒くはないのに小さく震えていて何か様子がおかしい。
エントランスで桃原と話していたのを蜜夏に見られていたようだが、棗が彼に『何かされた』と思ったというのは、桃原が『フォーク』として『ケーキ』の棗に何か変なことをしていると思ったのだろうか。
「今更あの人が俺に何かするって、ないと思いますよ。俺のほうが背も高くなったし、ガタイもいいし」
「"ないと思う"なんて、ないんだよ……」
「……蜜夏さん、大丈夫?」
空いているほうの手で蜜夏の頬を撫でると、びくりと体を震わせる。まるで何かに怯えているような、何かを怖がっているような様子に棗も驚いてしまった。
蜜夏の顔を覗き込んだ時、不意に見えてしまったマフラーの下。真っ白な蜜夏の綺麗な肌に浮かび上がる赤黒い痕のようなものが見えて、棗の心臓がどくんっと大きく脈打った。
「蜜夏さん……その痕、どうしたんですか」
「……ッ!」
「え、なに、何があったんですか!?」
マフラーを押さえつけようとする前に、棗のほうが数秒早くするりとマフラーを抜き取った。
「なん、だ、これ……」
抜き取ったマフラーの下、蜜夏の細い首には一周するように赤黒い鬱血の痕があった。最近ついたというよりは少し薄くなっているので時間が経っているのかもしれないけれど、それでもそれが『何によるアザなのか』分かるくらい、はっきりとついていた。
「……誰にされたんですか」
「な、なつめく……」
「"コレ"が、急に会えなくなった理由ですか?」
傷痕に触る代わりに蜜夏の両手をぎゅっと握りしめる。
蜜夏は動揺して目が泳いでいたが、もう隠すのは難しいと悟ったのか小さくため息をついて棗の手を握り返した。
「患者さんだったフォークに……」
「はぁ!?なんでフォークが蜜夏さん手出すんですか!?」
「おれのせいで、ケーキが重体を負った事件を起こした、から……」
「蜜夏さんのせいって、なんで……」
「いつかフォークの本能が暴走しそうなのが怖いって言ってた患者さんでね……もしケーキのパートナーがいるならそうなった時の対処法を共有しておくのも手だって言ったんだ」
「は……それ、蜜夏さんは何も悪くないじゃないですか!」
「そうかもしれないけど、言い方が悪かったんだと思う。ケーキのパートナーを作ったらいいっていう意味に変換したみたい、で……それで、そのパートナーを傷つけちゃったんだよ……」
話を聞いても蜜夏が患者のフォークに傷つけられる意味が分からない。そのフォークのあまりにも身勝手な理由と大切な蜜夏を傷つけられた怒りとで、棗はギリッと奥歯を噛み締めた。
「……そいつに、俺が同じことをしてやります」
「そんな物騒なこと言うと思ったから、会いたくなかったんだよ」
「嘘だ。他にも理由がありますよね?」
蜜夏が考えすぎる性格の持ち主だということは知っている。伊達に1年以上彼を追いかけていないので、蜜夏が他の理由を隠しているのが分かって問い詰めてみると、彼はまたもや「嘘はつけないな…」と言いながら目を伏せた。
「やっぱりおれは、フォークとして学校に出入りするのはやめたほうがいいと思った。自分の側にケーキのパートナーがいたとしても、他のケーキを襲わないっていう制約にはならないから。おれもいつかあのフォークみたいに、全身血だらけで、棗くんのこと……」
想像でしかないけれど蜜夏の話を聞く限り、事件を起こしたという犯人のフォークはケーキに重体を負わせ、血だらけのまま蜜夏の元を訪れたのだろう。
自分もいつかそんなふうに本能が暴走を起こし、我を失って棗に乱暴すると考えているのだ。
いくら蜜夏を励ますためでも、それは絶対にないとは言い切れない。だからこそ言葉選びが難しいのだが、棗は正直そうなっても構わないと思っている。
蜜夏からこの体をあますことなく食い尽くされ、文字通り彼と一緒になれるのなら、それはそれで理想の終末だなと思う。
ただそれを『惜しい』と思うくらいには、棗は蜜夏のことを好きなのだ。
できることなら蜜夏とずっと一緒に生きて、寿命が尽きるまで側にいたいと思っているから。
「だから棗くんと、離れたほうがいいのかも、って……」
そう考えてしまうのは蜜夏が『大人』だからではなく『フォーク』だったら誰もが考えることだろう。
でも、それなら、フォークは幸せになれないと言っているようなものではないか。いつか本能に従ってケーキを食べて、傷つけてしまうから、世界中のフォークは一人で生きていかないといけないのか?
そんなのは、無理がある。
だって『人間』は、どんなに強がったって一人では生きていけない。
周りの色んな人の支えがあるから一人でも生きていけると思っているだけで、実際のところは無理である。棗は同年代の人たちが普通一人立ちをするより前に、人間の仕組みを少しだけ学んでいるからそう言えるのだ。
「いつか俺を傷つけるかもしれないからって、約束破って俺の前から消えようとした?」
「そ、それは、そう考えたけど……でも、無理だった」
ぽろり、蜜夏の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。
その涙を見るだけで胸がぎゅっと締め付けられて、このまま潰れてしまうんじゃないかと思うほど、心臓が痛かった。
「無理だった、離れようと努力したけど、無理だったんだよ!棗くんのこと見たら、だって、おれは……っ」
今まで見たことないほど子供のように泣きながら話してくれる蜜夏の体を衝動的に抱きしめた。落ち着いてと言うように彼の背中をゆっくり撫でると、蜜夏は呼吸を整えて棗の肩に顔を埋めた。
「蜜夏さんの考えとか意見を全部否定はしない。いつか俺を襲ってしまうか持って不安になるのも分かるし、その意見はたとえ俺が"そんなことない"って言っても意味を成さない言葉なのも分かってる。でも俺の気持ちを蜜夏さんが勝手に考えて、諦めないで。世界中で蜜夏さんだけは、俺のために生まれてきたって、俺は蜜夏さんのために生まれてきたんだって、信じてよ」
フォークがいつかどうなるかではなく、蜜夏自身の気持ちでこれからのことを決めてほしい。
抱きしめていた体をそっと離して蜜夏の頬を包み込み、こつんっと額を触れ合わせると、蜜夏の瞳からこぼれ落ちた涙が棗の手を濡らした。




