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第三者による事件の話があります。血の表現があるのでご注意ください。
棗と甘いクリスマス、そして楽しい年末年始を過ごした蜜夏が仕事始めに行くと、響也から「あれ、蜜夏ちょっと太った?」と言われてカチンときたが言い返せなかった。
クリスマスは棗特製の豪華な料理を食べ、年末年始はお雑煮やらすき焼きやらせっせと作ってくれたので食べすぎた自覚があったのだ。
自分でも分かっていることを他人から、しかも友人から指摘されるとイラッとするものだなと、響也を睨みながら小さく舌打ちをしたのは記憶に新しい。
蜜夏の家でクリスマスから年末年始を過ごした棗は、残りの冬休みはバイトと自動車学校に明け暮れて忙しそうだった。実は連絡先の交換はしていない(意味がないかもしれないが線引きだ)ので棗がどんなふうに過ごしているか分からないけれど、先日カフェ・ブランに行った時に本人からそう聞いた。
そして明日は冬休みが明けて初めての『金曜日』。
今日は仕事帰りにカフェ・ブランに寄って棗の顔でも見てから帰ろうかな、と思ったりしている。
いつだったか棗が約束していないのに『あと一日待てなかった』と言って、蜜夏のマンションに来たことがあったのだ。今の蜜夏はあの時の棗の気持ちがよく分かる。あと一日が待てないなんて遠足前の子供のようだなと自嘲した。
「きゃ、きゃああ!なんですか、あなた……っ!?」
最後の患者が帰ったあと、帰り支度をしようとしていた蜜夏の耳に届いた受付の事務員の声。あまりにも尋常ではない叫び声に蜜夏は驚き、何かあったのかと待合室へ飛んで行こうとした時。
蜜夏の診察室のドアがガラリと開き、酔ってしまいそうなほど濃く甘い匂いが蜜夏の鼻をついた。
思わず鼻と口を手で覆い、なぜか体の力が抜けてよろけると、蜜夏の視界にはボタボタと赤黒い液体が床に落ちてきた。恐る恐る床から上に視線を上げると、そこには血だらけの男が立っていたのだ。
「杏先生……」
「う、う、瓜生さん……?」
手と口元を真っ赤に染めた男性は、外見では分からなかったけれど声で蜜夏の担当患者だと分かった。メガネをかけた大人しそうな普通の会社員で、フォークに転換したことが分かってからこのクリニックに通っていたのだ。
「ど、どうしたんですか…!?一体なにが……!」
「杏先生、先生が言ったんですよ……」
「え?」
「ケーキのパートナーはいるかって……パートナーと本能が暴走した時にどうしたらいいのか、ルールを決めてたらいいって……」
彼は蜜夏がフォークに転換した春より前、つまり去年の冬にフォークに転換してからずっと自分の中の『本能の暴走』を怖がっている人だった。
もしも本能が暴走したらどうしたらいいのか、自分で自分を抑えられる気がしないのだと思い悩んでいた。だから、もしパートナーがいるようなら、そうなった時の対処法を考えて共有しておくのも一つの手だと随分前に話した気がする。
「決めていたのに、意味がなかったじゃないですか……」
「瓜生さ……っ!」
「だって、僕が食べてしまったんです……全部食べちゃったから、対処法なんて、意味がなかったじゃないですか……だって僕を止める相手は、僕が食べたいと思う獲物だったんだから……」
最近、ケーキのパートナーができたのだと瓜生は嬉しそうに話してくれた。
とてもとても大事にしたい人なのだと優しい顔をして笑っていて、食事に関してのルールを二人で決めたのだと言っていたばかりだったのに。精神的にも安定してきていると思っていたのだが、まさかこんなことになるなんて。
「お、落ち着きましょう、瓜生さん。まず、ケーキの方は無事ですか?」
「…僕を見て、その子が無事だと思いますか……」
「瓜生さん……あなたは混乱しているだけかもしれません。ケーキの方の居場所は教えてくださいますか?今ならまだ間に合うかもしれませんから……!」
「間に合いません、行ったって無駄ですよ……」
ドラマや映画でよく見る、犯人と対峙する警察官というのはすごい職業なのだなと改めて痛感する。
こちらに敵意をむき出しでいつ襲ってくるか分からない人を諭す方法なんて、いくら心理カウンセラーといえど今の状況で冷静に考えられるわけもなかった。
「先生のせいです、先生の……僕がこうなったのは先生のせいだッ!」
「ちょ、ま……っ」
獣のように鋭い目をした瓜生が掴みかかってきて、バランスを崩した蜜夏はそのまま床に倒れ込んだ。
確固たる意志を持って蜜夏に掴みかかる瓜生の口元からポタリと血が滴って、蜜夏は反射的に顔を逸らす。口の中に他人の血が入るのはなんとか回避できたけれど、絶体絶命のピンチは切り抜けられていない。
「杏先生だってフォークになればこの苦しみが分かる……ッ!」
徐々に酸素が薄くなって、なんだか視界もぼんやりしてきた。
視界には涙を流しながら蜜夏を見下ろしている瓜生の顔と、診察室の明かりがまるで霞がかかっているように掠れて見えた。
「――蜜夏!」
響也の声が聞こえたような気がしたが、蜜夏の意識は突然ぷっつりと途絶えた。




