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カウンセリング室に入ってきた大柄な男子生徒は、先ほどまでケーキの女子生徒が座っていた椅子に腰掛け、ニコニコ笑いながら机に身を乗り出した。
「ももせんせー、今日も美人だね」
「……そういう話は受け付けてません」
「冷たいところも可愛い!」
「あのねぇ、柚木くん。もも先生は君の口説き文句を聞くほど暇じゃないんです」
「自分でもも先生って言うのも可愛いね、ももせんせ」
「はぁ……」
全く蜜夏の話を聞いていない、目の前でただただ笑っている男子生徒に呆れてため息をついた。
彼の名前は柚木棗、高校3年生。蜜夏がスクールカウンセラーとしてこの学校に来たとき、彼は高校2年生だった。
そして彼は、最初に蜜夏を『もも先生』と呼び始めた生徒なのだ。
出会ってからほぼ毎週のように放課後にカウンセリング室に来ては、他愛のない話をして帰っていく。
最初は何か悩みを抱えているのかと思ったけれど、彼いわく、
「ももせんせーに一目惚れしたから」
という理由で、毎週律儀に通っているらしい。
蜜夏自身、棗の言葉が冗談なのは分かっている。
毎週金曜日、数十分しか棗とは会っていないけれど、彼がモテるのを知っているのだ。
この高校の女生徒からも人気だし、放課後は他校の女生徒が校門の前で待っている。まるでアイドルかというほど女の子に囲まれてキャーキャー言われても棗は特にあしらう様子もなく、勝手に腕を組まれたりしながらそのまま帰っている姿を何度も見かけた。
あんなにモテているイケメン男子高校生が、8歳も年上に本気なわけがない。
ただ、その割に一年間ほぼ毎週のように会いに来られると、そのうち絆されてしまうかも、なんて。
「俺が高校生だから本気にしてくれないんですか?」
「え?」
「一年間ずっと口説いてるのに、子供だから相手にしてくれないのかなって」
「あー、まぁ……そりゃ、おれはいい大人ですからね」
「じゃあ卒業したら相手にしてくれますか?」
今までニコニコしていたくせに蜜夏の目をじっと見つめて真面目な顔をするものだから、思わずごくりと唾を飲み込んだ。
高校生とは思えないほど、こちらの心臓を射抜いてくるような鋭い瞳に耐えられなくてふいっと顔を逸らした。
「顔逸らすってことは図星ってことだよね、ももせんせー?」
「………何も相談がないなら、さっさと帰って課題でもしてください」
「もも先生に振り向いてもらいたいっていう悩み相談があります」
「ああ言えばこう言うんだから……」
何回断っても棗は諦めない。
卒業するまでにスクールカウンセラーの男を落とす、というチャレンジでもやっているのか?
蜜夏を落とさなければ罰ゲームがあるとか、誰かに脅されているとか、そういうことなのかもしれない。そうじゃないとこの異様なしつこさの理由にならないだろう。
「卒業までまだ一年も……来年の春、覚悟してくださいね?」
「覚悟って?」
「だから、高校生じゃなくなるんで。卒業しても先生のこと追っかけるからね、俺」
「ほぼストーカーだよ、それ……」
「愛って言ってほしいなぁ、ももせんせ」
「あのねぇ……卒業したら会う機会なんてなくなるでしょ」
「俺がももせんせーに会いに、毎週クリニックに通います!」
「棗くんならまじでやりそうで怖いんだけど……」
この執着はどこからやってくるのだろうか。
特に棗に対して何かをしてあげた覚えはないし、棗から深刻な相談をされたこともない。
カウンセリング室に来る生徒たちはフォークとケーキの生徒が大半だけれど、一年前の春に初めてここを訪れた棗はフォークでもケーキでもないらしく、ただただ一週間の出来事だけを話して帰るのが不思議だ。
他の先生にちらりと棗のことを聞いたことがあるが、特に問題がある生徒というわけではないらしい。
問題というわけではないが彼は両親がおらず、施設育ちなのだとか。
高校を卒業したあとの進路は分からないけれど、卒業は施設を出ないといけないだろう。
ただ棗本人からその話を聞いたことがないので、蜜夏は彼から話してくれるのを待っている。
でも一言も家庭環境の話はしてくれないから、もしかしたらまだ信頼はされていないのかもしれない。
そう考えると毎週のように顔を合わせているのに少し寂しいなと思う。まぁ、いつか会わなくなってしまう生徒の一人に肩入れしてもいいことはないだろうから、こちらからはその話をしないけれど。
「もも先生、最近なんか元気ない?」
「え?どうして?」
「先々週からなんか疲れてる感じがするなと思って。なんか悩み事?」
棗からそう聞かれ、蜜夏は驚きに目をぱちくりと瞬かせた。
きっと彼は純粋に心配してくれたのだろう。でも『スクールカウンセラー』相手に、高校生が『悩み事?』なんて聞いてきたので思わず笑ってしまった。
「え、なんで笑ってるの?」
「ふふっ、だって……カウンセラーに何か悩み事?なんて…!今まで言われたことないよ」
「いや、もも先生だって人間じゃないですか。別に職業がカウンセラーでも、自分で解決できない悩み事とかあると思ったので。失礼だったらすみません」
「ううん、そんなことない。聞いてくれてありがとう」
年下なのに、棗からそう言われても不快になるどころか嬉しかった。
蜜夏は誰かを支えるための仕事をしているけれど、そんな蜜夏のことを誰かが見てくれているかと思うと、胸がじわっと温かくなる。
棗は伊達に一年も蜜夏のことを見ているわけではないようで、蜜夏が最近本当に悩んでいることを見抜いてしまうだなんて。
もしかしたらカウンセラー失格かも、なんて蜜夏は苦笑した。