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棗の過去のトラウマ回です。ふんわり表現ですがご注意ください。
「あの人さ、まともそうだったでしょ」
棗に抱きしめられながら玄関に座り込んで、会話という会話をせずにただただ抱きしめ合い数十分が経ったころ、棗がふいに言葉を漏らした。
あの人、と言われて蜜夏の頭に浮かんだのは、綺麗なスーツをビシッと着こなした男性。
よくよく思い返してみると、髪の毛も綺麗に整えられていたし、メガネをかけた真面目そうな人だった。
側にいた男の子は幼稚園の制服を着ていて、痩せすぎでもない健康的な体型の男の子だったし、男性の妻と思われる女性も綺麗なブラウスと丈が長めのスカートを着た背の高い美人だった。
一眼見るだけで『裕福そうな家族』だと思ったものだ。
「……うん。まともそうに見えた、ね」
「確かに昔もまともではあったんだよ。優しくて真面目で、ちゃんといい会社に勤めてて……母さんがあの人を連れてきた時は、いい人と出会ったんだな、よかったなって子供ながらに思ってた。あの人と初めて会ったのは小5の誕生日だったかな」
棗は蜜夏の肩口に顔を埋めながら、ぽつりぽつりと過去のことを話しだす。
今の蜜夏は『もも先生』ではなく『杏蜜夏』として、棗の側にいる一人の人間として彼の話を聞こうと思った。
「あの人、桃原さんっていうんだけど、一緒に暮らすようになって半年くらい経った頃……俺の誕生日にさ、ケーキを作ってくれたことがあったんだよね」
「そ、っか……」
小綺麗な中年男性――桃原と初めて会ったのも、何かしらの事件があったのも共通して『棗の誕生日』だったのであれば、短期間一緒に住んだだけの少年の誕生日を覚えているのも無理はない。
ただ、きっといい思い出として二人の中には残っていないだろう。
自分の誕生日が『最悪な日』と思い出に刻まれているのは、なんとも苦しい。
それを棗はずっと一人で耐えてきたのかと思うと、蜜夏の心臓は握りつぶされそうなほどの痛みを感じた。
「自分の誕生日なんだから大人しくしてればよかったのに、一緒に作りたいって駄々こねた。母さんは急に仕事が入って午前中いなくてさ……桃原さんと二人で作ってたんだけど、イチゴを切ってるときに指も切っちゃって」
「……」
「それで、すぐに手当てしたんだけど…桃原さんの手に俺の血がついてて……なんだったかな、記憶が曖昧なんだよね、そこからは。血がついたままの手で切るのを失敗したイチゴを食べたんだっけ……とにかく、その日に俺は自分がケーキだったのを知ったんです。仕事から帰ってきた母さんが血相を変えて俺を突き飛ばすまでの記憶は曖昧で、あんまり覚えてないんだけどね」
小学生の棗は、信頼していた大人が目の前で豹変して怖いどころではなかっただろう。
記憶が曖昧になるほどの恐怖を感じていたのに、母親から守られるわけでもなく突き飛ばされて『お前が悪い』のだと言われて捨てられたなんて、映画やドラマみたいな、嘘みたいな話が現実にはある。
今の世の中はこういうことが溢れかえりすぎていて、逆にニュースにもならないのだ。
「俺が悪いって言った母さんの気持ちも分かる。一人で何年も苦労して子供を育てて、変な男に引っかかったりしてやっと手に入れた"まとも"な生活がケーキだった俺のせいで台無しになったんだから。まあ、俺はさ……曲がりなりにも親だから、幸せになってくれるなら捨てられてもいいって自分を納得させてたんだよ。でも、でもさ……桃原さんと一緒にいた女の人、俺の母親じゃなかった」
なんとなく、あの女性が棗の母親でないことは分かっていた。
たった一年ほど一緒にいただけの桃原が高校生になった棗のことに気がついたのに、彼の母親が気づかないのはおかしい話だ。
『あなたのお知り合い?』と女性が言っていたので、やはり棗とは全く関係のない赤の他人だったのだろう。
「せめて、実の息子を捨てて選んだ人なら、幸せになっとけよって話……。ていうか、あの人と一緒にならなかったのに、俺のことを迎えに来なかったっていうほうがキツイかも」
そう話す棗の声が段々涙交じりの声になってきて、彼を抱きしめながら蜜夏も鼻の奥がツンっとしてじわりと視界が歪んできた。
まだ小学生だった棗は自分だって辛かっただろうにそれでも母親の幸せを願っていて、自分がいなくなることで二人が上手くいくならそれでもいいと納得させたのに、当の本人たちは別れていたのを知ったのだ。
棗が一人で過ごした6年はなんだったのか?
こんなことなら知らない方がマシだったかもしれない。
そんなやるせない棗の気持ちが分かって、蜜夏も胸が痛んだ。
『大人には色々あるんだよ。恋人同士だって結婚していたって、上手くいかないことも多いんだから』
なんて一般論を今の棗には口が裂けても言えない。
そんなことを言おうものなら、きっと彼の心は粉々に砕け散ってしまうだろうなと想像できた。
「……蜜夏さんはいなくならないって約束してくれる?」
「え?」
「俺の前から、理由もなく消えないで……」
やっと顔を上げた棗は目を真っ赤にして、今まで見たこともないほど傷ついた顔をしていた。
――だから、というわけでは、ない。
ただの同情で『イエス』と言えるほど、蜜夏は感情のないロボットではないのだ。
「……約束する。棗くんの前から理由もなく消えないって、約束するよ」
真っ赤になっている目元をなぞると、ゆっくり棗の顔が近づいてくる。
蜜夏は目を瞑って彼の首に腕を回すと控えめに唇が重なった。
「ん……」
何度も角度を変えて口付けられながら棗のキスにとろけていると、蜜夏の体がふわりと浮いた。
突然の浮遊感に驚いて、落ちないよう反射的に棗に抱きつくとそのまま寝室へ彼は歩みを進める。
キスをしているから何も話せないし抱き上げられているから抵抗もできないので、これからの展開を想像した蜜夏が緊張していると、ベッドに優しく下ろされた。
「……ケーキのこと、あますことなく食べて、蜜夏さん」
先ほどまで泣いていたのに、今はもうギラついた瞳で蜜夏を見下ろしている棗。
そんな彼の唇が唾液で濡れていて、美味しそうに見えてしまった。
「うん……おれに棗くんのこと、食べさせて……」
伸ばした腕を取られ、手のひらに熱い唇が押しつけられる。
そのまま蜜夏の細い腕は棗の背中に回り、金曜日の『食事』は日付が変わるまで続いた。




