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「お買い上げ、ありがとうございましたー!」
仕事終わり、ニヤニヤしながら「今日は存分に楽しめよな」と言ってきた響也を振り切り、蜜夏はそそくさとクリニックを後にした。
実は今日はいつもより少し早めに退勤できたので、クリニックの近くにある美味しいと有名なケーキ屋に寄ってチョコレートケーキを二つ購入した。
何となくだけれど、先日の棗との会話の中で蜜夏が好きなケーキの話になったので、きっと彼なら蜜夏の好きなケーキを今日は用意してくれるのだろう。
でも棗が好きなチョコケーキは用意しなくていいと言われたのだが、そんなことで引き下がるわけがない。
蜜夏だって少なからず棗に思うところがあるので、彼の誕生日を一緒にお祝いしたいのだ。
「買ってこなくていいって言ったのに、とか言うかな」
照れるかどうか分からないけれど、棗が蜜夏の買ってきたケーキを見てどんな反応をするか想像すると自然と笑みが溢れた。
何だか今日はとても気分がいい。
家に帰るこの道のりが何だか輝いて見えるのが不思議だった。蜜夏自身の気持ちが明るいから輝いて見えるのだろうか。
「……あ、棗くんだ」
ちょうど蜜夏のマンション近くのコンビニから出てくる棗を発見した。
この明るい気分のまま思わず駆け寄りそうになったけれど、誰が見ているか分からないのでグッと我慢する。
彼は蜜夏に気づいていないようで、スマホを見ながらゆったりと歩いていた。
普段ならまだ蜜夏が帰ってくるには少し早いので、彼もまだ準備に余裕があると思っているのだろう。
いつも余裕たっぷりで生意気な高校生をからかってやろうと、マンションの前に差し掛かろうとしていた蜜夏は『後ろ』とだけメッセージを送った。
するとすぐに既読がつき、彼がくるりと後ろを振り返る。
振り向いた棗は蜜夏の予想通り驚いた顔をしていたのだが、彼は笑顔を見せることなく固まっていた。
「棗くん……?」
いつもの彼なら笑って蜜夏の名前を呼びそうなものだけれど、今まで見たことがないような強張った顔をしていたのだ。
「え、なんでここに……」
「?」
帰ってくるのがいつもより早かったからだろうか?
棗が困惑しているように思えて蜜夏も戸惑いを隠せない。
ただ、棗の視線が蜜夏を通り越した先を見ている気がしたので後ろを見てみると、そこには棗と同じように驚いた顔のまま固まっている中年の男性が立っていた。
「パパ、どうしたの?早くいこー」
「あなたのお知り合い?」
「あ、いや……」
中年男性の側には小学生にもなっていないであろう小さい男の子と、綺麗な女性が隣に立っていた。
男性はきちんとした綺麗なスーツに身を包んでいかにも『エリート会社員です』といった風貌だ。
棗もその男性もお互いを見たまま驚いて固まっていることに違和感を覚えた蜜夏は、夏休み前の棗との会話を思い出す。
棗の家族がいない理由は、当時小学生だった棗の母が付き合っていた男性に暴力を振るわれ、抵抗したから。
母親からは抵抗した棗が悪いのだと言われ、捨てられたのだと言っていた。
今の棗が相当驚いているということは、もしかしたら――
「……おかえり、蜜夏さん。帰ろ」
「あ、で、でも……っ」
「いいから。帰ろう、お願い」
棗にとってはトラウマである人物との再会だ。
そりゃあ、一刻も早くこの場から去りたいだろう。
蜜夏がいたことには気づいていたのか、棗は蜜夏の腕を引いてマンションのエントランスに入ろうとした。
「――棗くん!」
「……無視して、蜜夏さん」
「た、誕生日……誕生日おめでとう!」
「ハッ、馬鹿馬鹿しい……」
エントランスのドアが閉まる間際、棗に言葉を投げかけた男性をチラリと見やった。
一度も振り返ることはなかった棗の反応に悲しそうな顔をしていたけれど、すぐに踵を返して家族の元へ戻っていた。
――あなたからそれを言われても。
棗の過去に関して深く事情を知っているわけではないが、傷ついている側の気持ちは痛いほど分かる。
毎日毎日なにかに傷つている人と話している蜜夏なので、加害者のほうがあんなふうに悲しんだり傷ついた顔をするのは違うよなと思うのだ。
「……すみません。しばらくこのままでいいですか」
やっとの思いで部屋に戻ってくると、玄関を入ってすぐ棗に抱きしめられた。
そのままずるずると玄関に二人で座り込み、棗は蜜夏の背中を掻き抱いて肩口に顔を埋める。
いつも明るく爽やかで、高校生らしからぬ余裕たっぷりだと思っていたけれど、今の棗はこのまま消えてしまいそうなくらい小さく見える。
背は蜜夏より高いし体型もがっちりしているが、今だけは彼がひとりぼっちになった頃の小さな子供に見えた。
「落ち着くまでこうしてていいよ、大丈夫。おれはここにいるから」
「……どこにも行かない?」
ぽつり、呟かれた言葉。
こういう時、人間というのは本音が出るものだ。
ぎゅうっと蜜夏を抱きしめながら震えている棗の背中をそっと撫で、彼の頭に小さくキスをする。
きっと棗は、ずっと誰かが側にいてほしかったのだろう。
「……どこにも行かないよ。棗くんの側にいる」
「うん、うん……ありがと、ももせんせー…」
蜜夏と棗は玄関から一歩も動けないまま、先日から楽しみにしていた二人の誕生日は時間が止まった。




