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誕生日当日の朝、いつもより更に棗からのアピールが激しかった。
「――蜜夏さん、おはよう。誕生日おめでとうございます」
洗面所で髪の毛を整えていた蜜夏を後ろから抱きしめて、棗は耳元で低く囁いた。
その低い甘さに蜜夏はびくっと体を震わせるが、そんなのはお構いなしに棗はすりすりとすり寄ってきて、着たばかりのワイシャツ越しに腹部から胸までを指先でつうっと撫でていく。
少し歪んでいたネクタイをくいっと整えた彼は、鏡越しに目があった蜜夏に妖しく微笑んだ。
「……誕生日なのに、ネクタイ曲がってたらかっこつかないよ、蜜夏さん」
「ん……ありがとう、棗くん」
「どういたしまして」
機嫌が良さそうに鼻歌を歌っている棗は離れようとしなくて、蜜夏は意を決してくるりと後ろを振り向いた。
「棗くん、あの……」
「うん?」
「棗くんも、誕生日おめでとう」
やられっぱなしでは大人のプライドが廃るので、彼の頬を撫でながら決めてみたのだが、棗はポカンと口を開けて蜜夏を見つめた。
もしかして引かれたのか――?
そう思うと急に心臓がバクバクと脈打ち出したが、もう時間は戻せない。
何も反応してくれない棗との沈黙が気まずくてへらりと笑ってみせると、むぎゅっと強く抱きしめられた。
「うぁっ!?ど、どうしたの……!」
「どうしたもこうしたも……ももせんせーのせいだよ」
ぎゅうぎゅう抱きしめてくる棗の声が不機嫌そうで不安になってしまった。
蜜夏を抱きしめている彼の背中に手を回してゆっくり撫でながら「怒った……?」と聞いてみたけど、棗はふるふると首を振る。
じゃあどうして何も言ってくれないのかと思っていると、不意に体を離した棗の唇が柔らかく重なった。
「ん……!」
「……っは…、朝からするつもり、なかったんですけど……」
「じゃ、じゃあするなよ!」
「だから、ももせんせーが可愛いことしてきたのが悪いんですってば」
唾液で濡れている蜜夏の唇をぐいっと親指の腹で拭う棗の指を猫のように無意識に追っていると、目を細めて微笑む棗の指が口内に入ってくる。
控えめにそれを舐めていると、彼は欲にまみれた獣のような顔で蜜夏を見つめていた。
そんな鋭い視線に貫かれた蜜夏は呼吸も時間も止まってしまったかのように動けなくて、ごくりと生唾を飲み込んだ。
「も、もうおしまい!」
「……ですね。これ以上やると止まらなくなるので、俺が」
「いや、あのさ……棗くんってケーキなの、分かってる?」
「え?」
「いっつもおれを捕食しそうな顔で見てるけど……」
「だって、そう思ってますから」
ぐいっと腰を引き寄せられ、額を押しつけられる。
棗の鋭い瞳はそのまま蜜夏の全てを見透かしてしまいそうで、耐えられなくて思わず俯いた。
自分の認識が間違っていなければ、棗はケーキで蜜夏はフォーク。本来ならフォークである蜜夏がケーキである棗を捕食する立場なのだが、いつも彼に捕食されそうでヒヤヒヤしているのはこっちのほうだ。
ケーキの彼は『自分を食べ尽くしてほしい』というわけではなく、こちらがフォークを取って食ってやろうという意思さえ感じる。
立場も年齢も蜜夏のほうが上なのに、棗と出会ってからずっと高校生の彼に翻弄されているのだ。
「今日一日、俺のことを考えながら仕事してね」
「へ……」
「そんで帰ってきたら、俺と一緒に"ケーキ"食べてください」
行ってらっしゃい。
そんな、甘くて濃い出勤前だった。
そして案の定、出勤してからずっと棗の体温や声が頭から離れずソワソワしっぱなしだった。
「蜜夏、今日どうする?」
「どうするって?」
「誕生日だろ。飲みいく?」
「あー…」
昼休み、響也からそう聞かれて言葉を濁した。
ただ、今日は棗と過ごすつもりだと馬鹿正直に言えないのでどう断ろうか考えていると、響也は昼ごはんのコンビニおにぎりを食べながらハッとした顔を向けた。
「すまん、恋人がいたんだったな」
「………恋人ではないんだって、ば…」
「頑なだなぁ、お前も。誕生日を一緒に祝うってことはもう恋人じゃん」
先日、蜜夏に恋人がいるのでは?と響也は勘違いしたままで、今日も蜜夏はその恋人と一緒に過ごすのではと思っているらしい。
恋人ではないと先日から言い続けているけれど、蜜夏も『面倒を見ているただの高校生』と紹介するには近すぎるし、期間限定だとしても蜜夏が高校生と同居しているのは『まともな大人』ならば止める場面だ。
蜜夏は自分が『まともな大人』だと思っていたがこんなことになっているので、蜜夏に恋人ができたとはしゃいでいる響也が事実を知ったら引かれるだろう。
大袈裟でも何でもなく、本当に響也の予約を取ってクリニックに通えと言われるかもしれない。
棗は決して恋人ではないけれど、少なからず『特別』だと思っているので、響也にも正直に話せないのだ。
「誕生日を一緒に過ごすことを嬉しいと思うのって、やっぱり相手を特別だと思ってるってことだよね……」
「お前、本当に心理カウンセラーなのか?」
「……自分の感情が分からないなんて、って言いたいんでしょ。おれにだって分からないことくらいあるよ。そもそも恋愛は専門外だし……」
「まあ、俺からしたら…今の蜜夏はいいと思うよ」
「いいと思うって?」
「最近は毎日楽しそう。スクールカウンセラーになってからしばらくしてさ、どうでもいいことを話に来る生徒がいるって話してくれただろ?あの子のことを話してる時と同じ感じ」
「……」
最悪だ。
そんなことを言われたらもう、棗を『好き』だと言っているようなものじゃないか。
棗のことを響也に何度か話したことがある。
その時は蜜夏がフォークで棗がケーキだと知らなかった時期で、ただ面白くて不思議な生徒がいるんだという話をしていたのだ。
まさか今の蜜夏が、棗のことを話していた時と同じように楽しそうだと言われるなんて。自分では全く分かっていなかったし、そういうふうに意識もしていなかった。
第三者から見るとその頃と今の蜜夏は同じように楽しそうだと言われたので、何だか気恥ずかしくなった。
「最近の蜜夏ってなんか落ち込んでる感じだったからさ。俺はお前を元に戻してくれたその人にお礼が言いたいくらいだよ」
自分がフォークだと分かってからの蜜夏は、確かに落ち込んでいた。
クリニックの院長には申し出たけれど、友人である響也にはその事実を伝えていないのだ。
相談相手が誰もいないし『犯罪予備軍』だと一般的に言われている自分を恐ろしく感じ、フォークだと診断されてからは周りと距離を取っていた。
今の蜜夏は少なからず、棗のおかげで変われたのは間違いないだろう。
「……いつか紹介できたら、するから。今はまだ待ってほしい」
きっと今、顔が真っ赤になっているだろう。
響也はそんな蜜夏を茶化すことなく「楽しみにしてるな!」と言って、とびきりの笑顔を見せてくれた。




