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棗が笑いながら顔を近づけてくるので再びぎゅっと目を瞑ると、蜜夏が困っていることに気がついたからか棗は唇の端に口付けただけで離れていった。
『少し、残念』と思うにはあまりにも自分勝手すぎる。
こういうことをすぐするなと言ったのは自分のくせに、いざ棗が素直に言うことを聞いたら少し悲しくなってしまうなんて。
そもそも『ケーキ』である彼を利用しているのは蜜夏のほうだ。
家に来たいと言ったのは棗だけれど、それをダメだと窘めなかったのは蜜夏であり、彼が住んでいる施設にわざわざ挨拶をしてここに連れてきたのも蜜夏自身。
頭の中ではダメだと分かっている常識が言葉にして出てこないのは、ケーキである彼の『甘さ』に毒されて、脳がどろどろに溶けてしまっているからだろうか。
「ももせんせ、家事とか食事の準備とか俺に任せてね」
「え?いや、いいってそんなこと……」
「無理やり押しかけてるお詫びに。それくらいしか取り柄ないんだよね、俺」
学校の先生からチラッと聞いた話では、棗は相当成績がいいらしい。
大学進学を進めているけれど本人は対して興味がなく、施設暮らしというのもあるので早く自立したいのか、卒業後は働くと言っているのだと。
彼の進路について、ただのスクールカウンセラーである蜜夏がとやかく言うことではないけれど、少なくとも棗の取り柄は家事代行のようなスキルだけではないだろう。
なんとなく棗は、自分を卑下しているように思える。
こういうのは大体、過去の出来事のせいだったりするのだけれど、棗の話を聞くのは『仕事』ではないので言葉を飲み込んだ。
「俺、料理上手いって褒められるから期待して」
「でも、料理は……」
「ご飯に体液とか混ぜれば食べられるでしょ」
「たっ、体液とか、言わないで……」
あまり意識していなかったけれど、本来フォークはケーキの体液で満たされるのだ。
もちろん肌や指を舐めたりする行為でも味覚は感じられるけれど、涙や唾液などの体液を摂取したほうがよっぽど満たされる。
その思考がだんだん過激になっていって、ケーキの体自体を食べ尽くしてしまいたい、と思うようになってしまうのだ。
今の蜜夏は棗の唾液や汗を摂取しているが、それ以上先の欲求が湧いてこないのは『食事』が週に一度だったから。
たった一週間だけ棗がこの家で生活することになり、彼の体液が混ざった料理を毎日食べたら自分がダメになるのがすでに分かる。
そんなことをしてしまったら最後、きっと『違う』欲求で頭の中が満たされ、棗を傷つけてしまうかもしれない。
「……棗くんの"味"に慣れたくないから、おれの分は作らなくて大丈夫」
「慣れてもいいのに」
「ダメ。慣れたら、だって……」
「俺ナシじゃ生きていけなくなりそう?」
にやりと笑う棗の額をぺちんっと叩くと、彼はふんわりと笑って蜜夏から離れた。
棗の言葉は時々、冗談なのか本気なのか分からなくなる。
蜜夏はほとんどと言っていいほど恋愛経験がないので、こういう駆け引きは苦手なのだ。しかも高校生相手に翻弄されているなんて、本当に自分が馬鹿のように思えた。
「ももせんせーの家って、景色いいね。階数が上だからかな」
「え?あ、そうかな……」
「あそこに見える木って桜?」
「んっと……そうそう。春になるとすごいよ」
「へぇ」
冷房が効いている部屋のリビングから棗が見ていたのは、少し遠くに見える川沿いの桜並木。
夏なので今はもう桜は散っているが、春になると川沿いは桜の花びらで道路は敷き詰められているし、水面に落ちた花びらは春の暖かい風に揺られながら旅をする。
ただ何より、このマンションから桜並木を見ると――
「花霞って言葉があるんだけど」
「花霞?」
「遠くに見える満開の桜が、あたり一面を覆う白んだ霞に見えるっていうたとえなんだけど、ここからはあの桜並木がそう見えるんだよ」
「へぇ、花霞……確かに学校の桜とかも、遠くから見たら霞みたいに見えるかもしれません」
「それも同じだよね。ここは上から見えるから特にそう見えることが多いかな」
「……じゃあ、来年の春は」
「ん?」
「来年の春、卒業したら……ここから花霞を見ても、いいですか?」
こつん、窓ガラスに頭を預けて棗は蜜夏を見つめた。
断ってもいいけれど、断ってほしくない。
棗のそんな声が聞こえるようで蜜夏はごくりと唾を飲み込んだ。
こちらのほうがハチミツのようにとろりと溶けてしまいそうなほど甘い視線で見つめているくせに、彼の言葉には『強さ』がある。
そして蜜夏はまるで呪いにかかったかのように、否定の言葉が喉から出かけては引っ込んだ。
『イエス』以外の言葉を言うと、フォークではない棗からまるっと食べられてしまいそうな気がして、ぞくっと背筋が粟立った。
「……来年まで、棗くんの気持ちが変わらなかったらね」
「じゃあ、大丈夫です。俺、そう簡単に気持ちが変わる人間じゃないから」
高校生というのは、とても眩しい。
自分の想いにただただ真っ直ぐで、疑うことを知らない。
それが脆くて危ういと、スクールカウンセラーである蜜夏は誰よりも分かっているけれど、棗のその気持ちだけは『本物』であってほしいと心の片隅で願ってしまった。
来年の春にこの部屋から花霞を眺める約束なんて、桜のように淡くて儚いものだ。
それでも、
「来年楽しみにしてるね、ももせんせー」
と微笑みながらそっと指を絡めてくる棗の体温を、蜜夏の『心』が拒否できなかった。