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「……家族がいないって、居場所がないってどういう意味?」
とりあえず、何でもかんでも流されるわけにはいかない。
蜜夏と棗はフォークとケーキという関係性の前に、この高校に来ている心理カウンセラーの先生と、高校3年生の子供なのだ。
ここは大人として彼の話をきちんと聞かないといけないと、蜜夏の中の『大人』の部分が言っていた。
「そのままの意味です。親に捨てられて、今は施設で暮らしてる」
「え?」
「小6のとき母親が付き合ってた男に暴力振るわれて、反抗したら俺が悪いって母親から捨てられた。それより前から児相の人とか来てくれてたから、そっちの大人に頼って保護されたんですよ。それから施設で暮らすようになって……でも高校卒業したら出ないといけないんで、ちゃんと将来を考えないなっては思ってるんですけどね」
今まで棗は学校であったことはよく話してくれていたけれど、プライベートのことや家庭の事情を話してくれたことはなかった。
だから本当は自分の話をしたくないタイプの人間だと思っていたので、今のように簡単に重い話をするなんて思っていなかったのだ。
彼の声のトーンや表情からして今の話が嘘ではないのが蜜夏には分かる。
棗は文字通り『家族がいない』し、自分の『居場所がない』のだろう。
なんでもないことのようにヘラっと笑いながら話しているけれど、こういう重い話は大人でも受け止めきれないことだ。
しかも本人が小学生の時だからもう7年ほど話になるが、この出来事を一人で消化するには時間がかかることで、子供の頃のトラウマというのはなかなか消えないもので。
棗自身がどうなのか分からないしお節介だとは思うけれど、蜜夏は彼の頭を優しく撫でた。
「話しづらいことを話してくれてありがとう」
蜜夏がそう言うと棗は何か意外だったのか驚いたように目をぱちっと瞬かせ、今まで見たことがないほど柔らかい笑みを浮かべる。
そんな彼の顔に思わず胸がドキッと高鳴り、ごくりと唾を飲み込んだ。
「じゃあ、合鍵くれる?」
「……それとこれとは話が別」
「ちぇ!ももせんせーって意外と頑固だなあ」
「ただ、合鍵を渡すには条件がある」
「え?」
つくづく、自分はダメな大人だ。
こんなことを言ったら棗の思うツボなのは分かっているけれど、放っておけないという気持ちが芽生えてしまった。
毎日毎日、棗と同じような境遇の人とも会うし話を聞いているのに、彼に対して庇護欲が湧いてくるのは棗が蜜夏の『シェリ・ケーキ』だからだろうか。
「夏休みのうち、一週間だけ。施設の人に挨拶に行って了承してもらえたら、その時は合鍵を渡してあげる」
「一週間だけ?それってももせんせーが耐えられるの?」
「大人を馬鹿にするんじゃありません。さすがに学校には言えないけど、施設になら…おれもご挨拶に伺うから」
「え!ももせんせーがうちに?」
「めちゃくちゃ遠い親戚ってことで……」
「へえ。家族みたいでいいね」
なんて棗は言いながらニコニコしているので、胸がきゅっと締め付けられた。
棗はこういう表情や言葉を計算しているのか天然なのか分からないけれど、あまりにもずるい。
そんなこと言われたら、うっかりコロッと落ちてしまうではないか。
いつもどこか飄々とした態度の棗の少し子供っぽい顔を見て、蜜夏はまんまとそのギャップに落とされそうになってしまった。
「でも、遠い親戚より、ただ俺が懐いてる心理カウンセラーの先生って言ったほうがいいと思うよ」
「どうして?」
「じゃあこの後の世話はお願いします、引き取ってくださいって言われるよ、親族だったら。そうなると面倒臭いでしょ」
「……べつに、そんなことは…」
「はは。蜜夏さんが俺の家族になってくれるなら別だけど」
くすっと意地悪く笑う棗は、やっぱりどこか食えない高校生だ。
ただここで『じゃあただの知人として行くよ』と言うと『家族』というのを否定しているようで嫌だなと思った。
棗は蜜夏をからかってそう言っただけかもしれないけれど、人はあえて本心を冗談混じりに話すことがある。
蜜夏は患者として棗を見ていないから勝手に分析するのは彼の意に反している行為だと分かっているが、これまで見てきた棗の性格上、本心をストレートに伝えられるかと思いきや冗談で隠すタイプだと蜜夏は感じていた。
「とりあえず、親戚のままでいいよ。何かあったらその時に考えるから」
そう言うと棗はにんまり笑って、ぎゅうっと蜜夏を抱きしめてきた。
「ももせんせ、もう一回キスしたい」
「……はぁ!?」
「そしたら今日はもう帰るから。嬉しくて、キスしないと爆発しそうなんです、俺」
「な、なに、それ」
抱きしめている蜜夏の顔を覗き込んでくる棗の顔がとろとろにとろけていて、不覚にもどきっとした。
そしてダメな大人日本代表である蜜夏は苦虫を噛み潰したような顔をしながらも、こくりとひとつ頷く。
蜜夏の許しを得てすぐ、棗はくいっと顎を持ち上げて唇を重ねた。
「ん……っ」
棗のキスは、優しい。それなのに、重い。
蜜夏に対して棗が『食事を与える』という考えではなく、棗のほうが蜜夏を食べてしまおうと考えていそうなほど深い口付けに、少し恐怖を感じる。
気を抜いたら本当に舌を噛みちぎられそうなほどの圧まで感じるのだが、ムカつくくらい棗はキスが上手い。
蜜夏のほうが文字通り『骨抜き』にされてしまうほど、甘い媚薬に溺れてしまうのだから。