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夏、蒸し暑さと不快な汗に悩まされる季節。
カウンセリング室にはフォークの生徒もケーキの生徒もやってくるのでエアコンや換気扇がついていて、ケーキの生徒が汗を流すのを防止しているのだが『彼』が来るときだけは、それら全てが機能を停止する。
春はドアの鍵やカーテンを閉めるルーティンが確立されていたが暑い時期である夏に入ると、エアコンも換気扇もスイッチひとつで消す行動が加わった。
それによりケーキである『彼』の甘い匂いは部屋中に充満し、『彼』の逞しい顎から汗が滴り落ちる様は、見ていてこちらの食欲を刺激する。
「今日も暑いね、ももせんせ」
「……そうだね。だからエアコン、つけたほうがいいと思う」
「どうして?エアコンも換気扇も止めて、窓も閉め切ったほうが俺のこと美味しく食べられるよ」
なぜ彼が全部の機能を停止するのか、理由は分かっている。
彼、棗はずっと、蜜夏のことを誘っているからだ。
「一週間どうだった?お腹空かなかった?」
じわり、汗が滲んで熱い手が蜜夏の背中を撫でる。
びくっと体を震わせると後ろからふふっと小さい笑い声が聞こえて、いまだに慣れないこのやり取りに蜜夏は俯いた。
ぐいっと体を反転させられて机の上に押し倒されると、暑さのせいなのかギラギラと輝いている瞳が蜜夏を見下ろしている。
「(本当に、どっちがフォークでケーキなのか、分かんない……)」
今までガンガンエアコンがついていた部屋の中にもわっとした蒸し暑さが広がり、冷たくなっていた蜜夏の肌にぽたりと棗の汗が落ちて、じゅわっと火傷しそうになった。
落ちた棗の汗が蜜夏の唇の隙間から体内に侵入して、飲み込んじゃダメだと頭では分かっているのに、誘惑に耐えられない弱すぎる『フォーク』の蜜夏はごくりと嚥下する。
舌の上から食道を通り、胃の中まで落ちてきた彼の汗は体内が火傷しそうなほどの甘さだった。
「美味しい?」
「ん、うん……」
「やっぱりフォーク用の食事とは違います?」
「ちがう……汗だけでこんなに満たされること、ない……」
「ふは、かわいい」
「あ、き、キスはだめ、それはちが……っ」
「黙って、蜜夏さん」
押し倒されて手首を拘束される蜜夏はさすがに生徒を殴ったり蹴ったり力づくで逃げるわけにもいけないので、ダメだと言って止まらない棗を最近は無理に止めることなく、されるがままになっている。
――というのは言い訳で、止まらなくてもいいから、止めないのだ。
棗は『俺が誘ったから、ももせんせーのせいじゃないよ』と言うけれど、世間にそんな言い訳が通じるものか。
フォークとケーキで、最愛のケーキと出会ったから歯止めが効かなかったんです、なんて言ったとしても世間は厳しい。
高校生に手を出すダメな大人が裁かれるのが、常なのだ。
「ん、ん……っ」
「っはぁ……舌、あっついね、ももせんせー…」
「やけどするから、もうやめて……」
「ふふっ。でも満腹そうな顔してる」
暑さと恥ずかしさに顔が熱くなる蜜夏の頬を撫でながら満足そうに笑っている棗を見上げ、きゅっと唇を噛む。
なんせ棗の言うことは的を得ていて、今のキスだけで蜜夏のお腹は膨れてしまったのだ。
一週間、フォーク用の食事を摂取しているにもかかわらず、あまり『美味しい』と思わないのは問題である。
フォーク用の食事なのできちんと味があるはずなのに、それがただ単純に甘いだけで何も感じず、一向に満腹感を得られない。
それなのに金曜日にもらう棗の汗一滴だけで、彼の唾液だけで、こんなにも満たされてしまうのだから『最愛のケーキ』はフォークにとって『毒』にもなり得る。
ただのケーキじゃ満足できない体に作り変えられてしまうのだから、最悪でしかない。
「夏休みって、」
「んぇ……?」
「夏休みって、スクールカウンセラーの仕事も休みですか」
「ああ、うん…基本的にはね。夏休み明けから再開かな」
「ですよね。じゃあ、蜜夏さんちの合鍵ほしいなぁって思ってるんですけど」
「………は!?」
満腹になってぽやぽやしていた蜜夏は棗の言葉に一気に覚醒して、机の上に寝そべっていた体を勢いよく起こした。
唾液で濡れている唇を拭う棗を目を丸くして見つめていると、蜜夏の視線に気づいた彼はさらりと髪の毛を揺らしながら「ん?」と首を傾げる。
なぜ蜜夏が驚いているのか分からないというようにきょとんとした顔でこちらを見ていて、蜜夏は開いた口が塞がらなかった。
「だっ、な、なに言ってるの!?」
「ん〜、なにって……だって、会えない一ヶ月、絶対にきついと思って。ももせんせーが」
「いや、いやいやいや!だからってうちに生徒を滞在させるのは無理!おれのクビが飛ぶから!!」
「黙っとくって。おれ、家族もいないし。出かける予定もないし、ずっと家にいて課題とか家事するから。ね?」
「ね?じゃない!なにをどう言われても、それだけは絶対に無理だよ!」
「じゃあももせんせーの病院に行くしかないかぁ」
「え……」
「お金払って、金曜日に予約入れる。俺がお金払えば、ももせんせー会ってくれる?」
きょとんとした顔からきゅるんとした顔になり、机に乗っかったままの蜜夏の腰にぎゅっと抱きついて上目遣いで見つめてくる。
不覚にもそんな棗の姿にきゅんとして絆されそうになったが、ぷるぷる頭を振って煩悩を追い出す。
自分はどうやら、甘えられることに弱いようだ。
「お願い、ももせんせー。俺、どこにも居場所がないんだもん。こんなこと話せるの、ももせんせーしかいないから」
この一年、棗は無意味にここに通っていると思っていたのだが、初めて彼の『本音』が出たような気がする。
校内で見る棗の周りにはいつもたくさんの人がいて、彼はその中心で笑っているような人だ。
でもそんな棗が『居場所がない』と言うなんて意外でしかない。
彼はふざけたような態度が多いけれど、ぽつりと呟いたこの言葉は『心理カウンセラー』の蜜夏からしたら、棗の真実だと思えた。
「ももせんせーが合鍵くれないなら本当に病院に行くよ。診察室で高校生に手を出してるってバレるのと、俺が家でおとなーしくしてるのと、どっちがいいですか?」
きゅんとした顔から打って変わり、じいっと見つめてくる棗の瞳は本気だ。
ダメだと言えば蜜夏が働くクリニックに来るのだろうし、蜜夏がいいと言うまで粘るのだろう。
この甘い誘いを飲みそうになるのも、フォークのさがなのか。
大人としてだけではなく人間としても失格だなと、蜜夏は重くため息をついた。




