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第七章  人権のバランス感覚

 海外においていじめが発生した時には、どのように対応しているのか?


 概ね、厳しく対応しています。


 例えば、外国人と結婚した日本人女性が経験した事例です。 


 その女性の子供は、何か差別的なことをされたようで、ただ反撃をしただけのようです。


 つまり、一般的に言う、子供の喧嘩になります。


 ただ、少しやり過ぎたようです。


 だから日本のように、子供の喧嘩という扱いにはならず、非常に厳しい対応を迫られたそうです。


 まず、親が学校に呼び出されました。


 それも、就業時間中にも関わらずにです。


 当然、日本人ですからそんなことで学校に行かないといけないのかと抗議したそうですが、すでに警察も介入しているので直ちに学校に出頭せよとかなり強く出てきたそうです。


 日本では、考えられない事態でした。


 何故なら、刑事事件になるような激しい暴行とか、恐喝とかは無かったからです。


 しかし、その職場もすぐに学校に行くべきと言ってくれたので、とりあえず旦那さんと合流して学校に赴いたそうです。


 そこで知ったのが、その州ではいじめに対しては厳しい措置が取られ、しかもいじめの責任は保護者にあるとされることにあります。


 これはどういうことか?


 これはいじめをする子は、親の教育とか養育環境によって育まれた結果となり、その責任は育てた保護者になるということになります。


 日本ではいじめは隠ぺいされ、発覚すると被害者の責任にします。

 これは学校や関係者が責任を回避する為の措置であり、それにはすべての責任を被害者や被害者の保護者に押し付けることで成立します。


 そうしないと、責任が学校に及ぶからです。


 誰かが話し合った訳でもなく、いつの間にまるで運命共同体の如き状態になっていました。


 だからいじめは無い、あるとしてもそれは加害児童ではなく、被害児童やその保護者の責任となります。


 それが現状を維持するのに最も最適解であり、すべての関係者は無傷になります。



 被害者やその家族を除いて。



 それは日本の学校では、いじめの責任を回避する為のインセンティブが強く働くゆえに、いじめがより凄惨になり、一人の命なんかどうでもいいかの如き考えが出てくるのでしょう。


 犠牲は少数にと。


 実際、そのように発言した学校長も居たぐらいです。最も、その発言自体を無かったことにしようとしたようですが、しかしそれが日本の教育現場というより、日本人の本音になります。


 多数派こそ、正義であると。


 つまり、人権などは多数派の前では、そんなものは認められませんし、そもそも存在していません。


 子供に権利などあろうはずはなく、そもそも日本人にとって多数派による集合的無意識の前に、少数者などせいぜいが娯楽の糧になるべきとなります。


 教師主導で行われた、葬式ごっこなどはその典型でしょう。


 しかし、人権にうるさい米国のある州では、責任はすべて加害児童の保護者とすることで、日本とは逆にインセンティブが働きます。


 いじめ問題に積極的に関わらないと、学校側の責任にさせられると。


 つまり、いじめに関われば関わる程、学校側の責任は軽くなるからです。


 日本とは真逆であり、それゆえにいじめが発覚すれば、就業時間に関係無く呼び出され、場合によっては警察も介入してきます。


 保護者に、すべての責任を取らせるためにです。


 この感覚は日本人には理解出来ず、例えば土下座店長問題なんか欧米ではありえないそうです。


 クレーマーは放置、あるいは損するように誘導する。


 日本はこのようなクレーマーに便宜を図ることが正義となるので、こういった輩はどんどん調子に乗ります。


 最後は、人格すら否定してきます。


 児童ですら人の命を弄ぶのだから、いい大人がやることは決まっています。


 自分が行った犯罪の証拠を、わざわざネットにアップするといった行為になります。


 これが証拠となり、警察に検挙され事案もありますが、正直、私にも理解出来ません。


 自分の犯した犯罪の証拠を隠すのではなく、わざわざ世界中に流布するのだから、むしろこの行為を正当であると思い込んでいるとしか思えません。


 だからこそ、こういった手合いはまともに相手をするのではなく、専門機関にお任せするのが最適と認識します。


 しかし、いじめはしたいからするのであって、するなといわれてもしたい児童はするものです。


 だから、いじめが発生した場合は親に厳しく対応するのではなく、もっと事前に対応する、抑止しようとする試みが、監視カメラの多用になります。


 これは賛否両論がありましたが、学内の至る所に監視カメラを設置し、いじめを未然に防ぐ取り組みがなされました。


 もちろん、日本の学校でも監視カメラが設置されていますが、米国のこの学校のやり方は徹底していました。



 それはトイレや更衣室に、監視カメラが設置されたことにあります。


 よくいじめを描写する作品でも、トイレとか更衣室とか体育館裏はいじめが行われやすく、ある意味で大人の目の死角になります。


 しかし、この場合は女子トイレや女子更衣室にまで監視カメラが設置され、さすがにそれはどうかという反対意見も出ました。


 しかし、大人の目の行き届かない場所で起きるいじめが、もっとも陰湿で凄惨ゆえに、監視カメラは必須であるというのが、学校側の考えになります。


 つまり、被害者の人権と加害者以外の人権が天秤に掛けられたことなります。


 被害者の人権を優先するゆえに、多数の普通の児童の人権が制限が掛けられたという訳です。


 むしろ、日本のような監視社会であるにも関わらず、学内でこのように監視カメラだらけにならない方が、ちょっと異様です。


 むしろ、多数派の人権に配慮した結果が、監視カメラが無い学校になった言えると思います。


 いじめは必ずある、そしてそのいじめを阻止するなら、議論の俎上に上ってもおかしくありません。


 しかし、日本では人権感覚が皆無であり、多数派こそが正義であるゆえに、このように被害者の人権に対する配慮は、まったくといっていい程、存在しないと言ってもいいでしょう。


 だからこそ、学校関係者がうっかりしゃべってしまう本音では、少数者の犠牲はやむなし、多数派の人権や未来を思いませんかという、被害者側を愚弄するようなある種の思い上がり発言が出来ると言えます。


 人一人の人権を守れず、何をもって人権を語るのか?


 結局、人権なんて建前に過ぎない。


 被害者は泣寝入りしろが、日本の学校の現実になります。


 では、本当にいじめはどうにも出来ないのだろうか?



 次に語りたいと思います。

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