第四章 いじりからいじめへ 前編
最初から苛烈だと思う程のいじめにまで発展する、そんな激しい状態になることはまず有り得ず、しかし一旦苛烈なまでに酷いいじめになった場合、被害者に与えられた選択肢は限られます。
反撃するか、居なくなるかです。
反撃といってもただやり返すなんて行為はむしろ逆効果であり、やるならいじめの加害者を徹底的に、しかも容赦なく反撃しなければ意味はありません。
何故なら、彼らもまた同様に、厳しく反撃してくるからです。
しかも、子供とは思えないぐらいな悪知恵を使って。
まるで、反社会勢力の一味とか、知能犯罪者顔負けなぐらい、非情によくやります。
その知恵を、勉強に使ったらどうだと思うぐらいにです。
だから理想としては、相手からいじめをするとこうなると悟るぐらいに打撃を加え、それこそ骨の5~6本ぐらい叩き折るぐらいの覚悟でやらないといけません。
身体で分からせる以外に、いじめを止める手段は無いからです。
これが最低ラインであり、出来なければ反撃行為は無意味に終わり、逆に自らを追い詰めてしまい、やがて後悔することになります。
そしていじめの被害者は、概ね真面目で優しい子供が多く、相手に恐怖を植え付けるような残酷な行為は、最初から出来ません。
それが出来る子は、最初からいじめられたりしません。
むしろそういうことが平気で出来る子供が、いじめの主導的役割を演じます。
いじめの加害者はそれらを見越して、遠慮なく被害者を追い詰めます。
それこそ遠慮なく、被害者の骨の一本や二本を折るぐらい、笑いながらやるでしょう。
もっとも、病院に罹るような怪我をさせると表沙汰になるので、もっと狡猾なやり方で被害者を追い詰めます。
旭川いじめ凍死事件などがその典型で、魂の尊厳を打ち砕くようなやり方で、いじめの被害者をとことん追い詰めていきます。
女子児童に対してのいじめは、概ね性的で陰湿ないじめが行われるからです。
そしてそれは、暴力の被害を受けるよりも、表沙汰にはしにくいからです。
思春期であり、しかも性に関する辱めを受けたことを、他人はもちろん親にだってそのことを言えません。
そして実質的に無抵抗になった被害者に対して、いじめは益々エスカレートしていきます。
しかも、加害者側はいじめの手法を競って考えるような、そんな状態になっています。
加害者側はそんな過酷な状況に、なってしまっています。
こうして被害者は、自殺を考えるまで追い詰められます。
反撃してこない、仮に反撃してきてもあまり大したことが無い。
被害者に味方はいないけど、加害者には学校はもちろん、自治体だって味方になってくれる。
もしかしたら、警察だって味方になると。
これは児童の思い込みですが、重要なのはそれが事実とか事実ではないとかそうではなく、児童がどう思うかです。
思い込めるかです。
確証バイアスとか認知的不協和の一種であり、一度こうなるともう警察が介入しても止まりません。
スマイリーキクチ中傷被害事件でも、加害者に対して警察からの警告があったにも関わらず、執拗に中傷を続けたぐらいですから。
あるホームレスを焼き殺した児童は、警察に補導された際の供述で、自分達は警察から表彰される、金一封が貰えると喜んでいたそうです。
人を焼き殺すという、凄惨な事件を引き起こしているのに、警察から表彰されると思い込むこの感覚は、異常者としか思えません。
しかし、これが普通の人間がやる、むしろ、やれるからこそ恐ろしいのです。
暴走自転車問題も、本質は同じです。
自転車に対して、取り締まりが強化しているのも、もう目に余るからです。
どうしてかと言えば、まるで自転車に乗っていれば、人をひき殺しても無罪になると思い込んでいる人が増えたからです。
自転車が関わる交通事故だと、だいたいが自転車側に非があるぐらいですから。
つまり、自転車に乗ると自己中を通り越して、全能感に支配されます。
何をやっても咎められない、暴走しようがスマホを操作しながら自転車を運転していようが、誰も何も言わない。
その成功体験の積み重ねが、やがて自転車を暴走させて、ついに人をひき殺すようになるのでしょう。
事故が起きても悪いのは自転車ではなく、歩行者である責任転嫁するようにです。
それと同じで、自転車に乗っていれば人をひき殺しても問題無いと思い込むように、いくらいじめをやっても、加害者側に問題は一切無いのだとなります。
むしろ、得なことばかりです。
これがいじめの成功体験になると、大人になってからいずれ取り返しのつかないことをするようになりますが、それはまた別の話になります。
だからいじめの被害者が取るべき手段は、もう逃げるのみです。
救済手段があるはずだ、学校に相談すべきだと被害者に助言する人もいます。
あるいは、被害者が抵抗しないから悪いんだと。
いじめが発生するような学校は、そんな甘いことが通じるような場所ではありません。
もしそれで救済されるなら、それはいじめではなくいじりの段階の話か、いじめ問題のプロが出てきたかのどちらかでしょう。
被害者が自殺するような、そんな結末は最初からありえないはずです。
もっとも、被害者の親類の暴力団員が学校に乗り込んできて、生徒たちや教師に脅すと言うやり方も結構有効でしたが、結果的に学内で被害者が恐れられて孤立するので、あまりいいやり方では無いでしょう。
とは言え、暴力が有効なのは事実です。
逆に言えば暴力が有効だからこそ、いじめはより暴力的になるのです。
もっとも人間は、暴力を後ろ盾とする正義以外に信じられる正義は、実は無いからです。
正義の味方とは、強い側の味方のことなんです。
そして強いと、正しさは一致しません。
生きるか死ぬかの、どちらかしかありません。
それだけ、学校とは苛烈な場所になります。
今までに自殺にまで追い詰められたいじめの事例では、被害者は決して泣寝入りをしている訳ではなく、学校に相談したりしていました。
これは最初だけは有効ですが、やがてそれが死刑執行の書類に自ら判を押した行為であったと、やがて知るでしょう。
そして被害者は、絶望します。
味方は誰もいないはまだいい方で、学校も世間も被害児童の敵に回ります。
被害児童は空気を読めないし、いつまでも黙らないから。
そもそも日本人は弱い立場の者には、驚くほど酷薄なのですが、日本人にとってこれも至って普通のことなんでしょう。
至る場所で、似たような事例を見るからです。
ブラック企業、セクハラ、パワハラ、マタハラ等々、ありとあらゆる場所で弱い者を探して攻撃し、支配しようとしますから。
この感覚が凝縮され、具現化した事件が津久井やまゆり園事件と考えます。
ネットでは、障害者などの弱者は生きている資格は無いとか、中には60歳になったら自殺すべきだと平気で主張する者も居ました。
SNSで堂々と、自らの親に早く死になさいと常々言っていると自慢している、そんな人も居ました。
それが、この国の為になるのだと。
一体、それはどんな国なんだと、当時の私は疑問に思いました。
しかし、そういったことを無責任にまき散らし、一定数の支持を得る者もいます。
それを踏まえて見ると、津久井やまゆり園事件とは、こういった考えを持つ人々の集合的無意識のなせる業と、いえるのではないだろうか?
弱者は弱者ゆえに、存在そのものが悪であると。
そうなると弱い立場にいる被害児童にはどこにも居場所はなく、しかも加害児童たちは被害児童が死ぬまで、徹底的に追い詰めようとします。
否、どこまでやれば死んでくれるのか、楽しみながらやります。
だから日々、加害児童はいじめをこうすればいいんじゃないかとか、ああすれば死んでくれるんじゃないかと、毎日毎日、考える事が楽しくて仕方が無いんです。
どうしてそこまでやるのかと言えば、それが集団内に置ける正義であり、快楽でもあるからです。
そしてそれが自分達のアイデンティティとなり、しかも承認欲求は満たされ、ルサンチマンは解消され、そして達成感を得られるからです。
努力は、必ず報われると。
それは、錯覚ではありません。
ひとつには、学校という権威のお墨付きを得たからです。
一般社会で例えるなら、警察が暴力団の味方をするようなモノで、暴力団による被害を警察に訴えたら、翌日には暴力団から報復を受けるようになります。
警察は見て見ぬふりではなく、被害者をせせら笑う状態になります。
実際の警察は、そうではないと信じたいところですし、いじめについては学校ではなく警察に相談して欲しいと呼びかけも行っています。
これが建前でないことを、心から願います。
とは言え、いじめの被害者が警察に駆け込むのは、さすがにハードルが高いと思います。
結果として警察が介入しないとなると、いじめの加害側はやりたい放題が出来ます。
おまけに警察から表彰されるといった、間違った思い込みすら持つようになります。
だって、悪いのは被害者だと思い込んでいるからです。
津久井やまゆり園事件の犯人も、時の総理大臣に認められるはずと錯覚していました。
障害者を大量虐殺すれば、あとは一生遊んで暮らせるお金を国から貰えるといった妄想を抱いていましたが、これも実行に移すか移さないかの違いがあるだけで、実は普通の感覚になります。
この社会は、思い込みで出来ているからです。
井戸端会議のような場所で、驚くほどの差別発言を耳にしたことがありますし、これはまずいと思って訂正を試みたこともあります。
では彼らが、レイシストかと言えば、決してそんなことはありません。
ごくごく普通の、良き市民です。
その良き市民を、悪い方向に誘導するのが扇動行為であります。
問題はその扇動的な状態であるにも関わらず、学校等の権威や権力が見て見ぬふりをするだけではなく、自分たちの味方になってくれると錯覚するなら、もう人の目なんか気にしません。
むしろ、大いにやって認めてもらわないといけないと、そう思い込むでしょう。
大津いじめ自殺事件などが、その典型でした。
大津いじめ自殺事件において加害者たちは、衆人環視の中で被害者に対していじめが行われましたが、学校側は特に対応を取りませんでした。
つまり、学校側の意思は、被害児童は黙ってサンドバッグになっていろになります。
これがいじめが発生した、学校のリアリズムになります。
いじめが起きたら、被害児童にとって学校とは、死ぬか殺されるかの二者択一しかない、そこはもう地獄に他なりません。
それを理解せずに、いじめ云々は語れません。
何で抵抗しないとか、嫌なら嫌と言えなんて、むしろ事態を最悪の方向に向かわせるでしょう。
では、どうしてこんなことになるのか?
何故、学校は何もしてくれないのか?
次の章で、それを説明します。