第三章 ミルグラム実験と人間
アドルフ・アイヒマンと聞いても、誰の事か分からないと思います。
簡単に説明します。
アドルフ・アイヒマンは第二次世界大戦頃のナチスの高官であり、ユダヤ人大量虐殺を計画し、実行に移したテクノクラートになります。
人は人を殺すことに躊躇いを覚えます。
日本でも死刑を執行した刑務官のケアをしなければならないほど、人の死に関わることは人に重大な影響を与えます。
死刑を執行しましたとは、簡単にいきません。
しかし、ユダヤ人殲滅を計画しているナチス上層部としては、そうも言っていられませんでした。
では、どうしたらいいのか?
そこで出てきたのが、アドルフ・アイヒマンというナチス高官でした。
アイヒマンはそれを淡々と処理出来るように計画し、実行に移したのです。
それがあまりにも見事であり、まるでオートメーションのように次々にユダヤ人を殺害というより、処理していきました。
まるで、重度のサイコパシーがやったようにです。
それでも、疑問が残りました。
何故なら、イスラエルによって逮捕されたアイヒマンは、非情な殺人鬼でもなければ、猟奇的な殺人嗜好の持ち主では無かったからです。
ごくごく普通の、いわゆる良き市民にしか見えませんでした。
これには、当時の識者は驚きました。
きっと、裁判で量刑を軽くするために、演技しているとか指摘する人も居たそうですが、実際はそんなことはありませんでした。
だとすると、一体なんであんな事が出来たのか?
それをどうにかして、解明出来ないか?
その実験が行われました。
それを非人間性とか、暴力性とかではなく、ごく普通の人間が普通の感覚で虐殺を行えることを証明したのが、スタンレー・ミルグラムが行った実験、アドルフ・アイヒマン効果実験になります。
実験については詳細を省きますが、この恐るべき実験で証明されたのは、善良な市民がいとも簡単に人を拷問に掛け、しかももだえ苦しんでいる様を喜んで見ていたところにあります。
いじめでも何でこんなことが出来る、何でここまで残酷な事が出来ると、そんな疑問があります。
しかしこれは逆で、人はどこまでも残酷になれるし、そこに際限はありません。
その一方で、この実験が終わった後、正気になった彼らはPTSDに罹り、長く苦しむことになりました。
ユダヤ人迫害に加担した人々が後に苦しんだように、あるいはいじめの加害者が大人になってから苦しんだように、何であんな残酷な真似が出来たのか、時間の経過と共に分からなくなるそうです。
この実験のあと、被験者達は自らの内なる悪魔に、恐れおののいたそうです。
だが、いじめの場合は子供の時代に話しを聞くと、だいたいが肯定的な考えであったことが分かってきました。
つまり、いじめを悪いことではなく、楽しくていいことと子供たちは認識していたのです。
被害児童がいじめで悶え苦しんでいても、加害児童から見ると、何故か喜んでいるように見えたというのです。
追跡調査で彼らいじめっ子が年を経ると、いじめに対して徐々に後ろ向きになり、ある年齢で追跡調査が出来なくなりました。
もう、ほっといてくれと、彼らは研究者に答えたそうです。
罪の意識か、保身かは分かりませんが、子供の頃は気が付かなかったいじめ行為が、実は反社会的な行為と気が付いたからと考えます。
自らを省みれるようになったと、そうなのかもしれません。
少なくとも、いじめとは社会から糾弾されてもおかしくない行為と、大人になってやっと理解したのです。
つまり、子供の頃は脳の機能が完全ではなく、まだ社会性も未成熟なので、罪の意識はあまり無く、ただ周囲の目のみを罪の軽重の判断材料にしてきたのです。
だからそれがよくないことでも、同調しない者を悪と断じ、それを排撃するのが正義と認識するのです。
結果、いじめは正義と認識されます。
自分たちは正しいことをしていると、そう錯覚しているのです。
そこに様々な、理由付けを行います。
○○君は汚いから。
○○は臭いから。
○○さんは男に媚びてるから。
○○ちゃんはあざといから。
だから、いじめるんだと。
実際、いじめ調査でもいじめをする理由を子供たちから聴取したところ、ありとあらゆる理由が提示されました。
しかし、それはいじめをする理由にはならず、ただの口実に過ぎません。
だって、被害児童の髪型や顔の作り、足の長さとかもいじめの理由にするのだから、もうそれは差別を通り越して、迫害と言ってもいいレベルです。
ユダヤ人陰謀論と、さして変わらないでしょうから。
逆に言えば、いじめをする理由を説明どころかまともに言語化も出来ないことが、いじめ問題をより深刻にさせます。
ただ気に入らない、何となく許せない。
どうして?
何で?
いくら聞いても、逆に何で分からないんだと返ってきます。
どうして、大人は分かってくれないのか?
いじめはしないとダメなんだから、いじめをするんだと。
つまり、いじめをする加害児童も、何でいじめをするのか本当のところは分からないのです。
ただ、いじめをしなければならないという、使命感にも似たような感覚に支配され、悪魔の如く被害児童を追い詰めていきます。
実際、私自身がSNSの投稿内容が原因でで炎上した際、せっかくなのでひとりひとりにどうしてこんなことをするのかと聞いたら、驚くべき答えが返ってきました。
皆がそう言っていると。
あるいは、自分ではなく、他の奴に聞けと。
しかし、実行した人は確かに存在し、気分良く正義を執行したつもりになっています。
彼らはとても愉快になり、他の人と私の悪口で盛り上がっていました。
それを今更、自分のせいじゃないと責任転嫁していい訳はありませんが、それが保身とか責任逃れとかではなく、本当に主体性が無いとしたら、彼らは一体なんで、そんな誹謗中傷めいたことが出来るのだろうか?
その皆の最初は誰か、誰ももう分かりません。
気が付いたら、中傷行為の先頭に立たされていたと、そういうことになっています。
いじめも気が付くと、もう手遅れになってしまっています。
それは被害者はもちろん、加害者もです。
終わりが見えない地獄に、彼らは安住しているのでしょうか。
こうなると、もはやいじめの被害者が自殺する以外に、終わりは見えなくなります。
それはとても、恐るべきとこと思います。