Change
世界が変わってしまう。連日のニュースで取り沙汰されるのは、暗いものが多い。それらは真奈美がカーテンを閉ざした部屋で感傷に苛まれて、冷たいベッドに横たわっていることとは無関係に起きてしまう。
例えば人間にとって未知のウイルスが蔓延することは記憶に新しい。どこであってもマスクを着用して、アルコール消毒に検温は欠かせなくなった。初めのうちは抵抗のあった休校やオンライン授業。リアリティの失われた講義を聴きながら真奈美は入学したばかりの頃を思い出さずにはいられない。
列島から海で隔てられた、島民よりも家畜の数が優る地域で暮らしていた。進学と同時に都会を選んだ。新しい環境で、出会った友人と寮で遅くまで笑い合ったり流行りのスイーツを目当てに街へ繰り出したりと、楽しく過ごすことを夢見ていたのに。
パソコンのモニターに映る友人たちは真奈美の思い過ごしかも知れないけれど、どことなく無機質なホログラムのように見えた。分割された画面の中心で講師が口を開き、身ぶり手振りをしている。別に授業中に教師に直接タッチなんかしない。でも明らかに温度が欠けている。黒板とチョークの当たる響きとか、隣に座っていたはずの友だちの息づかいとか。ネットの海とオーディオを媒介すると、何か大切なものが減衰してしまうのだろうか。
政府の発表する感染者数の推移に沿って世界は動く。ある期間は登校できたり、またあるときは在宅を余儀なくされる。そんな変化に真奈美は戸惑っていたのに、何度も繰り返されると、今や当たり前に感じてしまう。
それでも寂しさは募る。島の両親とは定期的に連絡を取っている。モニター越しの父は光の加減でシワが増えたように、顔の陰影がくっきりとしていた。能天気な母は炊飯器のスイッチを入れ忘れたと、父の背後で大声を上げて笑っていた。渋い表情の父を横目に、母は飼い犬のペスを抱えて、ほらトリミングしてきたの可愛いでしょうと身を乗り出してくる。
黒い毛並みの艶やかさが画面いっぱいに広がった。きゃん、とペスがなく。父の頬が見切れる。もしも真奈美が進学する前にウイルスが流行していたなら、ペスを撫でながらオンライン授業を受けられたかも知れないのに。
動画の通話をオフにすると同時に涙が出てくる。悲しいときでもお腹は空いてしまうようで、胃袋が縮んでいるのが分かる。画面上、食卓に載っていた母の手料理を頭の隅に追いやって、真奈美は寮を出る。さっき廊下ですれ違った学生の名前だって分からない。マスクの内側は定かではなく、目と目で挨拶をこなすしかない。
星空は真奈美の憂鬱を揶揄するように美しかった。月明かりは歩道を伸びて町を白く染めている。ゆらゆらと頼りない自分の影を踏みつけて真奈美は唇を噛む。人の少ない閉店間近の時間帯、スーパーは閑散としている。自動ドアの傍らに設置された温度計は手を翳すと、正常な体温です、と喋った。その棒読みが店内の遠くまで届くほど大きい。もしも熱があったら警告音が鳴って、客や店員の白い目が向けられるに違いない。想像するとゾッとする。
長く滞在したくないから欲しいものを手早く。ちょっと前までは頑張って母の真似事、料理をしていたけれど、一人だと食材が余って棄てる羽目になる。同じものを何日も食べ続けるのも苦痛だった。特に大根は酷いもので、サラダにしたり、煮物にしたりと趣向を凝らしてみたものの、とにかく大きい。家族でならすぐに食べきってしまうのに。消費期限が過ぎてゴミ箱に吸い込まれていく萎れた野菜、変色した肉などの残りものたちが不憫で仕方がない。
だから真奈美はスーパーのベーカリーコーナーへと直行する。サンドイッチなどの惣菜パンを幾つか籠に放り込む。食べきれる分だけ選べるし、手間がかからないのがいい。次はコロッケパンに狙いを定める。
「おいっ」
いきなり怒鳴られて振り返ると、真っ赤な顔のおじいさんが立っていた。視線の先には未就学児とおぼしき男の子があんぱんの袋を手にしている。くりっとした両目を開いておじいさんを見上げている。その円らな瞳が真奈美の焦点にスライドしたと思ったら、誰もいないイートインのテーブルにあんぱんを投げつけて走り去っていく。こらっ、とおじいさんも駆けていく。サンダルの脱げかかったおじいさんはとても追いつけそうになかった。
この店はパンを取るときはトングを使うのが決まりなのだが、男の子の素手に握られて変形したあんぱんを見つめ真奈美はため息をついた。ウイルスの対策で、店頭に並べられたパンはすべて袋に包まれている。以前は香ばしい匂いがあたりに漂っていたはずだが、パンさえも距離を置いてしまう時代が到来したのだな。
レジに並ぼうとして、ちょうど肩をいからせたおじいさんが戻ってきた。
「まったく、ウイルスがついたらけしからん。親の顔が見たいもんだ」という台詞を会計のお兄さんに吐き続けていた。お兄さんは曖昧に微笑んでいる。胸の名札にはチャンと書いてある。真奈美の番になりあんぱんを渡すと、チャンさんはスミマセンと舌を出して悪戯っぽく苦笑いした。
長身で目立つチャンさんは大抵夜にシフトが入っている。いつもレジからぴょんと笑顔が飛び出している。それが平日ばかりだと察するほどに真奈美はベーカリーに世話になっている。寮で一人寂しくスマホを弄っていても、コロッケパンをかじっていると心が落ち着いた。栄養補給は心の滋養にもなるのだ。
「よく来てくれますよね」
「あ、そうなんです。近くに住んでるので」
そんな会話をしたのはまだレジが自動会計機に置き換わる前のことだった。母のように炊飯器の電源を入れそびれた真奈美はこの日初めてコロッケパンを買った。二百円を渡し立ち去ろうとする真奈美の背中に
「お客さん、お釣りは」と呼び止めてくる。怪訝そうに踵を返す真奈美の手を包み込むチャンさんは五十円硬貨を優しく握らせてくれた。
ごつごつした浅黒い掌の柔らかさをしばらく忘れられなかった真奈美はそれからというものベーカリーに繁く通うようになった。オンライン授業ばかりで退屈な日々も、悲しくなった場合も、コロッケパンを飲み込めば元気が出るし、何よりもチャンさんの手と触れる一瞬の温もりが真奈美には欠けがえのない習慣になっていった。
ところが世界はささやかな望みすら、あっという間に奪ってしまった。金銭の授受が機械を通じて行われるようになると、チャンさんと真奈美の間に大きな溝が横たわった。お札を機械に投入し、お釣りを受け取る。万が一取り忘れても警告音が報せてくれるから、安心だ。バーコードをスキャンするだけのチャンさんの微笑みがむしろ冷たく思われた。
今日もマスクをしたチャンさんはいらっしゃいませ、と言葉少なに接客する。ペラペラ立ち話をしていると店長に怒られるに違いない。それこそおじいさんのような人が
「唾が飛んでウイルスがついたら」と怒鳴りこんで来ないとも限らない。お釣りを返すときに手と手が触れ合ったら訴えられるのではないか。このままではいつかチャンさんの掌の感触を忘れてしまうだろう。きっと世界に散りばめられていた似たような喜びはリアルタイムで人知れず次々と消え失せている。
寮に戻りベッドに体を横たえる。
待受のペスの写真をスライドさせる。トイプードルに一目惚れした真奈美だったが、愛らしい瞳はチャンさんのそれに似ていなくもない。尖った鼻やシャープな顎もペスそっくりだったかと、記憶の抽斗を引っ張ってみる。背の高いチャンさんの短く揃えられた黒い直毛と、血色のいい額とアーモンドをローストしたみたいな瞳までは鮮明に浮かんでくる。それなのに肝腎の鼻筋やら唇の色も形も何もかも真っ白なマスクに覆われて真奈美を困惑させた。
コロッケパンは衣がほどよくしっとりしていて満腹感がある。温めても、そのままでも。でも何かが足りない。それが何かを考えている間に真奈美は微睡んだ。
翌朝もスーパーに。焼きたてのパンをくるむ袋は内側が余熱で曇っている。
「いらっしゃいませ。お早うございます」
午前中からシフトに入るチャンさんは珍しい。思わず真奈美は目尻が下がり顔が綻ぶ。すっぴんだけれどマスクがあるから平気だ。クロワッサン生地のサンドイッチを紙袋に入れてもらうときに、真奈美は午後にオンライン授業があるために昼食の分も買ったことを告げた。
「へえ、学生さんなんですね。ボクと同じだ」
どうやら留学生らしいチャンさんは折角日本に来たのに、どこにも出掛けられずに残念だとこぼした。
「それなら散歩しませんか」
キョトンとするチャンさんから紙袋を受け取りつつ、突飛な提案に真奈美自身も驚いていた。
「どこにもいけないなら、この町を散策しましょうよ」
連絡先を交換して、夕方には仕事が終わるということで真奈美も講義の空くことを確かめてから約束を取り付けた。寮に戻ってからはすべてが上の空だった。講師が尋ねていることにも気付かないし、パソコンのマイクをミュートしながら応える失敗をしてしまった。授業の中身よりも、何を着ていこうか、どんな話をしたいかばかりに集中していて、ついには今朝買ったサンドイッチを食べそびれてしまうほどだった。
街路樹が夕陽で赤く色づくと、スーパーの駐車場はにわかに活気を醸し始める。マイバッグを提げた主婦の姿が往来を疎らに埋めていく。その間隙から自転車を伴ったチャンさんが手を上げる。細身のジーンズをはいていて、すらりとした足が強調されていた。私服は真新しかったが、マスクに半分だけ隠された部分を含めた笑顔はレジにいるときとちっとも変わらない。
「勉強はどうでしたか」
動き出すと車輪がカラカラと音をたてる。
「腰が痛くなっちゃって、まるで専念できませんでした」
お尻の上に手を添えて笑うとチャンさんも口角を上げた。と言ってもマスクの端が動いただけで中身は見えないけど。
スーパーから遠ざかり、道が分かれる。
「右にしますか、それとも」
元々行くあてのない散歩なのだった。右手にはアーケードが連なる商店街が、一方の左手に何があるのか真奈美は詳しく知らない。迷っていると
「じゃあ左でいいですか。公園があります」ボクの憩いの、とチャンさんが呟いた。素直に従って信号を渡る。電線のカラスが風に揺れている。もしかすると鳩かも知れない。ツツジの植え込みが車道と歩道を隔てた道が真っ直ぐに続いていた。
小高い丘へと坂になっていて、勾配がなだらかについていく。回送のバスのヘッドライトが日暮れを切り裂いていく。
「どこから来たんですか」
「故郷はベトナムですね」
「ホーチミン?」
かぶりを振ったチャンさんの返答は真奈美の聞いたことのない土地だった。逆の立場にしたら真奈美の島をチャンさんは当然知らないと思う。
「家族は元気にしていますよ、ほら」
スマホを渡されると、真奈美の目に飛び込んできたのは樹木に囲まれた庭に佇むチャンさんと寄り添う人々や雨に濡れた校舎、しかし呆れるほど殆どが友人とロボットを工作する姿に日本のアニメのポスターやフィギュアだった。
「なんか、想像と違うなあ」
「どこがですか」
「写真がロボットばかりで驚きました。思っていたより都会っぽい」
自転車と二人を避けるようにして猫がツツジの垣根に消えた。ぽつぽつと街灯が明るさを宿していく。
「好きなんです。機械を弄るのが」
工学を志して海を渡った理由を訊くと
「日本の学生とデータのやり取りをしていて、丁寧で、勤勉で、それで」
懐かしそうに目を細めるチャンさんは前方を指さす。石造りの門には公園の文字が刻まれている。公園の中央には時計台があり、コの字に池が広がっている。水面に反射した月がゆらめいている。
「トゥクトゥクの動画はないんですか」
「トゥクトゥク? それはタイじゃないかな」
ハッとして真奈美は口に手を当てた。マスクの不織布のがさついた手触りがする。
くすりと笑うチャンさんが自転車を停めた。
時計台の下にはベンチがある。二人並んで座った。
「ここまで坂道だったから疲れましたね」
「そうでしょう。ボクはもう慣れましたが、汗は滲みます」
すると思い出したように立ち上がったチャンさんは自転車へ向かい笑顔で戻ってきた。
「あ、それって」
紙袋を開くとたくさんのパンが詰めこまれている。
「帰り際に貰えるんです。放っておくと廃棄になっちゃうから。もちろんコロッケパンもありますよ」
差し出された封を切るとソースの甘い香りが真奈美の鼻腔をくすぐった。マスクを外して大きく口を開けて頬張るとチャンさんの視線とぶつかった。
「はしたなかったでしょうか」
恥ずかしくなって訊くと、慌ててチャンさんは目を伏せた。
「いいえ。ただ、とても幸せそうで」
手元の紙袋を見つめたままチャンさんが呟いた。もじもじしてばかりで、選り取りのパンを食べようとしない。
そこでようやく真奈美は気づいたのだが、
「もしかして」
急いでコロッケパンを半分に割る。袋に入った下半分を渡すとチャンさんの顔が華やいだ。
「好きなんですね、チャンさんも」
「ええ。これがベスト」
マスクを顎までずらして頬張るチャンさんに負けじと真奈美も舌鼓を打つ。ふいにチャンさんが、綺麗ですと囁いたので仰天した。
「今夜は月が綺麗ですね」
見上げると闇に浮かぶ月のクレーターまではっきりとしていて、凛として美しかった。なんだ、自分のことを示していたわけではない、のにも関わらず真奈美は体の芯がポッと温かくなっていた。残りのパンを平らげるまで月明かりの鑑賞に飽きが訪れることはなかった。
それからは都合がつけばチャンさんと近隣の散歩をした。二人で回る町はこれまで踏み入れたことのない領域に拡大していくのが楽しかった。母に報告すると
「良かったわね、こんな状況でなければ紡げなかった縁かもね」と言われて二の句が継げなくなった。
寂しさを募らせることばかりを強いた世界の変化の掌返しに真奈美は戸惑った。悪いことばかりだと信じていた自分がいたし、まだその思いを拭えずにいる。
進学して築くはずだった同じ学生との交友が当たり前でなくなり、本来であればすれ違うだけの存在だったはずのスーパーの外国籍店員と散歩することが日常と化した。ぼんやりとベッドに仰向けになって真奈美は天井を見つめる。悲しみを和らげてくれたきっかけを与えてくれたのは、あの浅黒い柔らかな掌であることを思うと、胸が熱くなった。
翌日の夜にスーパーへ出掛ける。空はどんよりとして、小雨が降っていた。傘をたたんでベーカリーに向かうと、レジにはポニーテールの女性が立っていた。
風邪で休みかな、とチャンさんのいない店内を見回す。コロッケパンを会計に運ぶ。硬貨を機械に投入するとジャラジャラと鳴って精算される。
ずっと立ったままの真奈美に
「お客さま、どうされましたか」と女性が心配そうに呟く。
「お釣りが出ません」真奈美は自動会計機を示す。えっ、と驚いた女性はレシートを確認している。新入りだから打ち間違えたのだろう。
すぐに店長を呼んで戻ってきた。眉をしかめた店長は自動会計機のモニターに目を通すなり
「何も問題はないよ」
えっ、と今度は真奈美が驚いた。
「値上がりですか?」
「いいやウチはずっとこの価格だから」
困り顔の店長とその背後で、なんだこの迷惑な客はとでも言いたげな瞳をこちらに向ける女性店員に圧される形で真奈美は寮に帰った。狐に化かされた心地がした。釈然とせず、チャンさんに電話をかけるも留守だった。
以降ベーカリーにチャンさんが姿を見せることはなくなった。連絡も繋がらず、真奈美は寂しい生活に戻った。
ちょうどウイルスの影響が落ち着いてきたためか、学校が解放され始めた。これまでモニター越しでしか会話したことのない学生との邂逅は不思議な感じがした。身長、体型、その他もろもろの真奈美が抱いていた勝手な印象と現実との乖離は生で芸能人に会ったときの違和感を彷彿とさせた。
講義で黒板をスライドさせると接合部が軋む。四方で参考書を捲る音がする。居眠りをする学生のいびきや、校舎の修理に勤しむ建設会社のトラックの振動が伝わる。
食堂でなんとなく顔を合わせたことのあるもの同士でテーブルを囲む。オンライン授業が退屈だったこと、進学した意味を見出だせずにいたことなどの意識を共有した。中にはもうサークルなんかに所属する活動家がいて、皆熱心に耳を傾けていた。
学校と寮の往復が増えると、自然ベーカリーへは足が遠退いた。あるいはチャンさんと深まった距離感が真奈美にそうさせたのかも知れない。
やがて真奈美は忘れ去っていたかねての望みである学校の友人と遊ぶことが出来るようになった。お洒落なカフェを巡ったり、寮に連れてきたりする休日がスケジュール張を満たしつつあった。
「ふーん。そのコロッケパンって美味しいんだ」
あるときふいに友人から訊かれて、ただのスーパーのベーカリーなんだよ、と前置きをした上で一緒に行くことになった。
「本当に普通のスーパーなのに」
「いいじゃん。コロッケパン食べたいもん」
グルメの友人に紹介して幻滅されたら、とまでは思っていない。久し振りのベーカリーだからか、少し緊張している。ウイルスに制限されていたときの真奈美の時間が、歩みを進める度に友人へと同期されていく。チャンさんとの会話ややり取りが思い出されて、なんだかむず痒い。
レジにはポニーテールの女性が待機していて、ぎこちなく目を合わせる。早速友人がパンを持ってきた。支払いは四百円でもちろんお釣りはない。滞りなく行われる会計を目の当たりにした真奈美は頭を左右に振った。チャンさんの掌のごつごつした感触が幻だったのではないかと一瞬でも考えてしまう自分が嫌だった。
店を出る間際、ベーカリーの店長の声がした。首だけ振り向くとおじいさんと話をしている。
「あの外国人もういないのかい」
あんぱんの男の子を追っかけたおじいさんだ。
「ええ。辞めさせたんですよ」
真奈美の足が止まった。辞めさせた?
「真面目に仕事してました。掃除や仕込みは誰よりも。でもね、目に余っちゃって」
「というと」おじいさんが耳をそばだてる。真奈美も密かににじり寄る。
腕組みをする店長がすべてを語り尽くす前に真奈美は友人に手を引かれてスーパーをあとにした。
寮に戻ってから食べるコロッケパンは可もなく不可もなかった。友人の無表情が真奈美の心を代弁していた。厳密にはスーパーの店長の言葉が頭から離れず、しっかりと味わえていなかっただけかも知れない。いつ友人が去ったのかも分からないまま、ベッドに仰向けになっていた。
「勝手に値引きしてやがったんだよ」
スーパーの店長の低い声が真奈美の鼓膜にこびりついている。
「それならワシもやってもらいたかったなあ」というおじいさんの笑い声。
「うん。イケる、イケる」表情を崩さない友人の感想。
友人が買ってくれたコロッケパンを真奈美はかじる。お腹は膨らむのに、何かが足りていない。
「どうしていつも買っていたんだろう」
お洒落なカフェで出てきたパンケーキの方が甘くてよほど美味しい。半分残ったコロッケパンを冷蔵庫にしまう。
自分の味覚に自信がなくなる。
公園で半分こしたコロッケパンの美味しさを再現することはできそうにない。真奈美はパン職人ではないし、ソムリエのような立派な舌を持っているわけでもない。どれだけ大切なことでも形のない感覚はいつの間にか忘れ去られていく。忘れたら二度と思い出すことはないのだ。
咄嗟に真奈美の指はスマホの連絡先を開いてチャンさんを呼び出す。
プルル、とコール音が鳴り響く。ずっとずっと鳴っている。スマホをベッドに置いたまま真奈美は立ち上がる。カーテンを開けて夜空に探すのは月だ。
生憎の曇天で、暗澹たる暗闇が横たわっているばかり。無性に月明かりが恋しくなってくる。
プツリと通話が切れて、ツーっと涙が流れた。こんなことになるならば、あの日の月を撮影しておけば良かったのだ。どんよりとした雲の陰影が刻一刻と変化する様を真奈美は窓辺にもたれて眺め続けて。
(了)
変化、お釣り、




