鏡像迷宮 7
幻視体験。それだけなんですよね。ひとことで言えば。
鏡像のバスルーム。
その中ばかりはイヤに煌々としています。照明を落としたベッドルームと裏腹に。
僕のクセで、肉のジグソー・パズルにふけるおり、いちいち浴室の明かりを消したりしないんですね。たぶん、非日常な感じをたかめるためかもしれませんが。あたかも真夜中の太陽としてうつり、なにか叙情を与えてくれる気がします。
だから、湯殿の灯を間接照明のように用いるのが、まあ…、カーニバル…、のさいの習い性になっています。
ゆえにです。不安に開かれたバスルームのドアから、湯を張ったバスタブがシッカリ見えました。
白蛇の蠢動を思わせる湯気。鏡に巣くうヘビは、不規則なスパイラルを描いて、ゾウゲ色のバスタブを飾っている。
ヘビ。ゴシック調にいうなら、人の子へと禁断の果実を供する生きもの且つ魔神の化身であり、さしずめサタンの出現と書いてムードを盛り上げるところでしょうか。
併し。いくつか怪異に遭遇した僕自身の皮膚感覚として申し上げますと、このような逢魔のきわ、場はかえって凪ぎ、透明感といって差しつかえないくらいの、静謐に支配されるものです。
この場合も、至って、しずかでした。
そいつを見ている僕は、ほとんど感情を失くしている。
…いぶかしむべきは、蝕をつくった、この半壊した神経にやどるのが、いわゆる恐怖心ではないこと。
凍てたガラスのような、陶器やプラスティックのような、つめたくシンとした感覚なんですよね。
そいつ。
湯けむりに巻かれたバスタブのそばに、顕現したものがあったのでした。
そいつは女に見えましたね。
そいつ。女。なんだか蜃気楼チックにグニャリとゆれて、全貌はよく分からなかったが、ぼうっとした真裸の女性に見える。さような、なにものか。
…どうしてか、僕には懐かしい感じがしました。例えばですが、夢野さんを想起させるんですよね。
サラサラ、長い髪をたくわえており、嫋やかな陰翳をまとっています。きれいなハーフトーン・グレイのシェイドが、オブラートみたいに裸身を隈取っている。
どうにも、背中をこちらに向けているみたいでしたね。
聖母のうしろすがた。
…ウワゴトよろしく、夢野さん、と呟いた気すらします。
なのに。なのに、です。
そいつは振り返ったんですよね。振り返ってしまった。
すると顔が見えました…、
…顔。顔と定義できるのだろうか。そこには何もない。いや。何もないわけじゃない。目や鼻、唇といった部位を備えていないだけだ。それは欠いている。だが、だが。
…なにやら器官のごときものを垂れさがらせていましたね。見ようによっては、それは人間の足にも見えました。とどのつまり、顔の真ん中から、ブランと足が一本、下垂しているんですよね。まるでダラしない犬のペニスのようにです。
大リルケの著した、マルテの手記という作品において、主人公が手首から先だけのオバケに幻惑されるシーンがありますが、あれはヤヤも滑稽な様相ながら、いたく神経を震わせるんですね。単純な意味での戦慄とは少し異なる。
もしかしたら、似た感じかもしれません。一般的な幽霊というにはピントが絞れすぎています。だから怖いかというと怖くはない。事実、僕の心はどちらかといえば静かでした。その、静か、というのも含みのある静けさですが。ヘンテコな言い方を許されるなら、精神がミイラ化した感じの静けさです。
とは言い条、そんなモノが実在するとは思われない。でも僕の視神経は知覚し、記憶の塔に堆積させたワケです。そうして震えたワケです。
…とにかく、頭痛がしました。それからノイズじみた耳鳴り。
アブラ汗が流れ、汗の玉がジクジク眼球を咬みます。
だけど、すでに述べましたごとく、心は悟ったふうに寧謐です。いな。死んだふうに、と言うべきでしょうか。
一連の出来事は、やはり僕自身の内界に咲いたアダ花であり、つまるところ幻視にすぎないのでしょうか。たんに怪談に感化されたのでしょうか。メンタルに罅隙をもつ僕は、幻視体験をしたにすぎないのでしょうか。
…まあ、そうなのでしょう。白昼夢。相違ありません。
だいいち、一部始終をうつすあいだ、湯気に嬲られっぱなしの鏡は、文字どおり明鏡止水であり、いっさい曇りもしなかったのです。
…お話はまだまだ続きます。




