鏡像迷宮 6
いよいよ佳境です。まあ、いよいよ、って言いますか。オフビートな世界ではあるんですが。
鏡。
鏡のある部屋でした。僕がいるのは。
さんざん形而上だのウダウダくちごもっていましたものの、形而下的に種明かしすると、あっさり安直にホテルです。ベッドルームがあり、バスルームがあり、そのあいだに洗面所がある。そこには銀の鏡が嵌まっています。
僕はベッドに横たい、まだ温かい湯の残るバスルームのほうへ身を向けていました。自然、なめらかな鏡がこの角膜へとうつります。
鏡の縁金が、ニタニタ気取った梨地のゴールドのあしらいだったことを、妙になまなましく記憶しています。壁紙がシックな黒一色で、それに合わせたものでしょう。周囲から浮かび上がって見えました。
そうしながら、寝物語。といおうか、千夜一夜でしょうか。いやさ、むしろ百鬼夜行絵巻でしょうかね。ともかく、友人の身の上ばなしを語るシェラザードの役割が僕。
王様役は、僕よりズッと年上の、しかし、麗しくやんごとなき御姉様です。
部屋は、うっそり暗い。仄暗く、志怪調のお話には御誂え向きでしたね。
「ちょっと怖いハナシだね。まったく意味が分かんないだけに、なあんかさ、不気味って言うか」
女性の肌は、いつのまにやら汗ばんでいました。
「そうかも。不気味ですよね、考えてみると。昨日の昼間、聞いた時はそうでも無かったんだけど」
つられたものか。せんのせんまで脂下がっていた僕も、自分の言葉に気圧されています。あれだけバカバカしいと嗤い飛ばした柳沢の与太話が、暗い部屋にいるというだけで心肝に響く。
おさらいしましょう。…こんな話でした。
僕の友人、柳沢が深更、月も枯れて果てたような暗夜、晦冥をぬいながら、神社のそばの裏道へさしかかる。
人影など、当然に、皆無。
そこにだ。車があるのだ。それは無人の、車だ。
…の、はずだ。だって。運転席は真っ暗であり、後部座席も漆黒という概念を具現化させたかのごとき凝った色。だから、無人車なのだ。その、はず。
…と、いうのに。車のトランクは、怪物の死骸についた傷口みたいに開いているのでした。
…そこから。不思議な。気味の悪いものがヌックリ身を起こしているのですよね。
…さかさ立ちに屹立している、
…真白な、
…もの。
それは人間の、きっと女の、はだかの足だ。
トランクのなかに、さような不自然な姿勢で女が収まれようはずもないのに。
それは、明瞭な幻のように現前しているのでした。
恥ずかしながら、怖いんですよね。ひたひたと怖い。怖いので、気の紛らわし。くだらぬことを考えようとしました。何でも良い。くだらないこと。好きなUKバンド。吉本興業のコメディアン。ポルノ女優。何でも良い。
するとです。するとですね。
すうっと。胸裏のスクリーンに浮かぶのは、なんと夢野さんの面影でした。僕は驚きました。そんなにも深く、ただ仕事場に存在しているというだけの女性に心奪われているのか。依存しはじめているのでしょうか。
しかし、さもありなん。
忘れてはならない。僕はすでにして、アルコール依存症の素地が出来上がっていたのですからね。人間、他者、とくに異性に依存する傾向も、リッパに有していたはずです。
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現金なもので、怯懦は少し吹き飛びます。また、こうも考えました。
(今、となりにいる、素肌の女性が、もしも夢野さんだったなら…)
そうです。そんな邪な心をいだいたバチが当たったのかもしれません。邪恋、横恋慕、所詮は成就したところで倫理にそむく。そのような思い。
その刹那です。
「あ」
僕は、素っ頓狂な声を放ちました。
「何よ、びっくりするじゃん、やめてよね」
女性が僕に縋りつきます。
…鏡。
鏡でした。僕の目は、鏡に違和感を覚えた。不意に。
こがね色のフレームをもつ鏡。そこに映じるバスルームのドア。その、ドアが、何となくおかしい。
なかば開いているように見えました。
それだけのことなんですが、果たして奇妙に思えた。というのは、僕の頭の中では、先ほどまで閉ざされていたハズなんですよね。確かに。
だけれど開扉され、その間隙からは乳白色の湯気が、まるで不穏なもののようにうっすら棚引いています。
…トゥー・ビー・コンティニュー。続きますね。