鏡像迷宮 23
営々継続中です。
「それが本当だとすると」
顔馴染みの女医は美穂に言うのでした。白衣のポケットから、キット・カットという小さなチョコレート菓子を差し出しながら。
「美穂さんの方こそ、カサンドラ症候群っぽいのを起こしてるよね、今」
…気になるカルテがある、と。たまたま病棟に立ち寄った夜勤当直医です。相対しているのは。
彼女は美穂と同年代の女性で、かねてから時折、互いの子供のことを話していたのですね。
…だから。つい気が抜け、昨年春からの出来事を吐露してしまっていたそうです。
すると化粧っ気もない医師なりの無骨な気遣いなのか、一片の御菓子を差し出したのですね。
…蛇足ですが、彼女はいつも御菓子を持ち歩いていました。なぜか、そういうドクターは多いのです。やはり極度の頭脳労働ゆえ、糖質補給は必須なのでしょうかね。
憂悶のいろは美穂の顔に濃い。食は細り憔悴していた。それから体重低下。月経不順まで出てきた。なにより思考はまるで他者の頭を使っているみたいに疎かになった。くわえて不眠を呈しており、たしかに抑うつ感は日増しに嵩じていたのです。
でも。カサンドラ症候群、と。やや安易に発した言葉だったのかもしれません。それは美穂にも分かりました。
むかし鏡症候群とも呼ばれていたそれ。
そこまで汎用性のある言葉ではない。
そもそも建が広汎性発達障害かどうか全く怪しい。だから、それが一つの病者本人・家族間関係の様態をあらわすのだとしても、夢野母子について包括し得るかは、これも全く怪しいのでした…、
「大仰かしら…、カサンドラの悲劇って名前からして古臭いけどね、エディプスだのエレクトラだの、ギリシア神話から引っ張ってきた感じとかさ」
「けど、先生。それって普通、アスペルガー症候群のかたの夫婦間で発生したりするんじゃないかしら」
困惑した表情で異を唱えます。
「そうね、御免。たんなる言いまわしとして用いてしまうのは軽薄で良くないよね」
医師は自分でもチョコレートを嚥下しながら、眉根を寄せ、なにか空前の難題を解くように溢しました。
しかし言わんとすることは分かった。
たしかにカサンドラです。これでは。
カサンドラ。ギリシア神話中のキャラクターです。人の身の無辜な女性なのですが、不条理ですらある太陽神アポロンの怒りを買い、神罰を身に受けるのですね。千里眼と言えるような百発百中の予言能力を得るものの、しかし、その予言を信じる者はだれひとり存在しない、という地獄のごとき孤独におちいるのです。
なぞらえて、
病者のみならず、病者の家族もまた、だれにも理解されない孤独や苦悩をはぐくんでしまう。この様相をカサンドラ症候群と称するわけですね。
まさしく、さながらカサンドラで、カサンドラの話すことは歯牙にかけられない。価値のない言葉としてクズカゴ行きにされてしまうのです。
どうしてもスポットが当たり、周囲の憐憫をあつめるのは病者本人です。治療というステージでは、主役は病者であり、バイプレイヤーたる家族は蔑ろにされかねない。
また病者本人からも顧みられない。(これはアスペルガー症候群などの疾患の特性ゆえです。他者の感情を読み取ったり、抽象表現を解するのが不得手なかたが多いですから。)
二重苦が浮上します。
…献身しているわりに顧みられない家族は、ひそかに壊滅的なほど自尊感情を低下させるという理屈ですね。
勿論、ただ低下するだけではなくて、鬱状態、抑鬱症状というレベルです。心身症となることも多々あり、カウンセリングが奨励されます。
…誤解を恐れながら付言すると、ほかの領域で、むかし介護疲れと呼ばれていた心の働きと似るのかもしれません。介護疲れゆえ、ご家族のほうこそ自ら命を絶ってしまわれた、あるいは心中をこころみた、というケースを耳にしたことはあるかと思います。
また古い名を鏡症候群と言いもします。
鏡写しということなのですよね。
なんとなく、まがまがしい。まざまざとした感じがあります。
…はじめは病者ひとりが病んでいるのだが、家族というものは病者をうつす鏡のようなものであり、時の歯車の回転とともに影響を受け、やがて家族そのものすら荒廃し病におちてゆく。
…解しようによっては、このようにオドロオドロしくも読み取れる語義。ゆえに、カサンドラの名に取って代わられたのでしょうか。
それにしても…、
鏡症候群。鏡。なんということだろう。ここにも鏡が隠れているのでした。
カサンドラ症候群、そうして、鏡症候群。
考えてみれば截然と因果にかかわる言葉ではない。
…が。
二度と消えない腐蝕や錆のごとく。呪文のごとく。刺青のごとく。
…夢野美穂の魂に刻まれたというわけなのでした。
…続きます。




