表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
23/32

鏡像迷宮 23

営々継続中です。

「それが本当だとすると」


 顔馴染みの女医は美穂に言うのでした。白衣のポケットから、キット・カットという小さなチョコレート菓子を差し出しながら。


「美穂さんの方こそ、カサンドラ症候群っぽいのを起こしてるよね、今」


 …気になるカルテがある、と。たまたま病棟に立ち寄った夜勤当直医です。相対しているのは。

 彼女は美穂と同年代の女性で、かねてから時折、互いの子供のことを話していたのですね。


 …だから。つい気が抜け、昨年春からの出来事を吐露してしまっていたそうです。


 すると化粧っ気もない医師なりの無骨な気遣いなのか、一片の御菓子を差し出したのですね。


 …蛇足ですが、彼女はいつも御菓子を持ち歩いていました。なぜか、そういうドクターは多いのです。やはり極度の頭脳労働ゆえ、糖質補給は必須なのでしょうかね。


 憂悶(ゆうもん)のいろは美穂の顔に濃い。食は細り憔悴していた。それから体重低下。月経不順まで出てきた。なにより思考はまるで他者の頭を使っているみたいに(おろそ)かになった。くわえて不眠を呈しており、たしかに抑うつ感は日増しに(こう)じていたのです。


 でも。カサンドラ症候群、と。やや安易に発した言葉だったのかもしれません。それは美穂にも分かりました。


 むかし鏡症候群とも呼ばれていたそれ。


 そこまで汎用性のある言葉ではない。


 そもそも建が広汎性発達障害かどうか全く怪しい。だから、それが一つの病者本人・家族間関係の様態をあらわすのだとしても、夢野母子について包括し得るかは、これも全く怪しいのでした…、


「大仰かしら…、カサンドラの悲劇って名前からして古臭いけどね、エディプスだのエレクトラだの、ギリシア神話から引っ張ってきた感じとかさ」


「けど、先生。それって普通、アスペルガー症候群のかたの夫婦間で発生したりするんじゃないかしら」


 困惑した表情で異を唱えます。


「そうね、御免。たんなる言いまわしとして用いてしまうのは軽薄で良くないよね」


 医師は自分でもチョコレートを嚥下しながら、眉根を寄せ、なにか空前の難題を解くように(こぼ)しました。


 しかし言わんとすることは分かった。


 たしかにカサンドラです。これでは。


 カサンドラ。ギリシア神話中のキャラクターです。人の身の無辜(むこ)な女性なのですが、不条理ですらある太陽神アポロンの怒りを買い、神罰を身に受けるのですね。千里眼と言えるような百発百中の予言能力を得るものの、しかし、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、という地獄のごとき孤独におちいるのです。


 なぞらえて、


 病者のみならず、病者の家族もまた、だれにも理解されない孤独や苦悩をはぐくんでしまう。この様相をカサンドラ症候群と称するわけですね。


 まさしく、さながらカサンドラで、カサンドラの話すことは歯牙にかけられない。価値のない言葉としてクズカゴ行きにされてしまうのです。


 どうしてもスポットが当たり、周囲の憐憫をあつめるのは病者本人です。治療というステージでは、主役は病者であり、バイプレイヤーたる家族は(ないがし)ろにされかねない。


 また病者本人からも(かえり)みられない。(これはアスペルガー症候群などの疾患の特性ゆえです。他者の感情を読み取ったり、抽象表現を解するのが不得手なかたが多いですから。)


 二重苦が浮上します。


 …献身しているわりに顧みられない家族は、ひそかに壊滅的なほど自尊感情を低下させるという理屈ですね。

 勿論、ただ低下するだけではなくて、鬱状態、抑鬱()()というレベルです。心身症となることも多々あり、カウンセリングが奨励されます。


 …誤解を恐れながら付言すると、ほかの領域で、むかし介護疲れと呼ばれていた心の働きと似るのかもしれません。介護疲れゆえ、ご家族のほうこそ自ら命を絶ってしまわれた、あるいは心中をこころみた、というケースを耳にしたことはあるかと思います。


 また古い名を鏡症候群と言いもします。


 鏡写しということなのですよね。


 なんとなく、まがまがしい。まざまざとした感じがあります。

 …はじめは病者ひとりが病んでいるのだが、家族というものは病者をうつす鏡のようなものであり、時の歯車の回転とともに影響を受け、やがて家族そのものすら荒廃し病におちてゆく。

 …解しようによっては、このようにオドロオドロしくも読み取れる語義。ゆえに、カサンドラの名に取って代わられたのでしょうか。


 それにしても…、


 鏡症候群。鏡。なんということだろう。ここにも鏡が隠れているのでした。


 カサンドラ症候群、そうして、鏡症候群。


 考えてみれば截然(せつぜん)と因果にかかわる言葉ではない。

 …が。

 二度と消えない腐蝕や錆のごとく。呪文のごとく。刺青のごとく。


 …夢野美穂の魂に刻まれたというわけなのでした。




 …続きます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ