第二十三話「マキノの秘密」
結局、ゴサロの事をそのまま王子に話すわけにもいかず、記憶を失った男を保護したとだけ説明し先に辺境伯から話のあった教会へと連れて行かれた。
皇太子一行はこのまま辺境伯邸に滞在となったため、アリスは館を辞去しようとした。
それに対して、辺境伯夫妻やイリス達が今夜はこの館で過ごすように強く求め、断り切れなかったアリスが根負けする形でその日はそのまま辺境伯邸に滞在する事となった。
改めて、前辺境伯をはじめ皇太子との顔合わせを済ませて、夕食まで暫しの散会となった。
アリスの事は旅の占い師でイリスと仲良くしている事だけ紹介されたが、日頃占い師等と接触を持つ事の無い皇太子は俄然興味を引かれた様子だった。
一緒にいる時はあまり意識しなかったが、アリスがものすごい美少女である事を改めて認識したイリスがアリスと楽しそうに話すフィリップに焼きもちを焼いたのはご愛嬌と言えるだろう。
ともあれ、いったんその場を離れたアリスは、少し庭を散歩すると口実を設けて、黒猫と共に屋敷の中庭に出た。
皇太子の予想外の早いお着きに、館の料理人たちは大慌てで料理に取り掛かり、執事のオットーは卓の手配から配膳の手配まで、文字通りバタバタと走り回った。
館全体が少し騒然とした中、その中庭だけは静寂に包まれていた。
少し人目を避けるように木立の陰に移動したアリスは、誰にともなく声をかけた。
「そこにいるのは分かっています。顔を出したらどうですか?」
アリスの言葉から暫し間をおいて建物の陰から姿を現したのは、イリスのばあやたるマキノであった。
マキノの見た目は上品な老婦人を思わせ、その頭部にはチョコンと獣耳が見えていた。
「気づいていたのですか?」
そう問いかける老婦人に優しい視線を投げながら、アリスは
「気づかないと思っていたのですか?」
と問いを返した。
マキノは目を瞑るとゆっくり首を横に振ってアリスの言葉を否定し、再び目を開いてアリスを見た。
その頬には一筋の涙が流れた。
マキノの指には先程まで無かった指輪が嵌っていた。
「覚えていたんですね?」
アリスがそう問いかけると、マキノは大きくうなづきアリスに答えた。
「忘れるわけがありません。以前と何も変わらないそのお姿を見れば…むしろ、私の方が分からないんじゃないですか?」
苦笑を浮かべながら、マキノはアリスにそう再び問いかけた。
アリスの柔らかい表情は変わらず、
「面影は残っていますよ」
そう言ってマキノに微笑みかけた。
マキノの目からは止めどなく涙が溢れ、それと共に溢れる思いを言葉にしようと口を動かしたが、うまく言葉に出来なかった。
その様子を見ていたアリスの肩口に乗る黒猫は、マキノに声をかける。
『お前のあの言葉は本当だったんだな』
「あの言葉?」
本来、アリス以外にはにゃーとしか聞こえないその言葉は、しかしその時マキノにちゃんと言葉として伝わった。
タロの言葉に思わずキョトンとした表情を浮かべたマキノに、
『お前の出自に関する話さ』
とタロが答えると、マキノはニッコリと微笑んだ。
「覚えていらっしゃったんですか?アスタロト様」
アリス以外の人物が、しかも地上に住まう人種が黒猫の真の姿を知っているのは異例だったが、この主従と一人には相応の繋がりがあった。
『あの当時は珍しかっただろう?獣人なのに1/8エルフの血が混じっているなど』
そう言って以前マキノに聞かされた彼女の秘密を暴露する。
「私の母方の曾祖母がエルフだったそうですから」
クスクスと笑いながら、タロの言葉を肯定するマキノ。
一頻り笑いが収まると、マキノは遠い目をしてアリスとタロに話しかけた。
「あれから四百年近くが経ちました…」
そう言ったマキノは、改めてアリスに視線を移すと、
「アリス様は初めて出会ったあの時のままのお姿で、先程は思わず心臓が止まるかと思いました」
そう言いながら昔を懐かしんだ。
『結局、ルドルフがこの家を興したんだなぁ…』
嘗てタロとアリスが出会った青年こそが、このオッターバーン家の始祖であるルドルフその人であった。そして、そのルドルフの傍らに常に寄り添ったのが、幼馴染のマキノであったと記憶している。
辺境伯邸に戻る道すがらイリスが話していたオッターバーン家の始祖の話には、実はアリスとタロが関わっていた。
その昔、正に獣人族の運命が風前の灯となっていたその時。
獅子人族の有力者の息子であったルドルフは、世を儚んでいた。
彼が属する獅子人族を初めとする獣人族達は、人族からの迫害に加え同じ獣人族同士での争いによってその命運が尽きようとしていたのだ。
ルドルフは親や周りの者たちから辛抱の足りない、堪え性の無い何も続かない子、と認識されていたが、本当は今の絶望的な状況を何とかしたいと憂える若者の一人であった。
その心は、この苦しい日々を何とかしたいと思いながらも、何をどうすればいいのか分からず、次第に無気力になっていったのであった。
ルドルフと黒猫主従が出会ったのは、丁度そんな頃だった。
初めは人族に見えるアリスに反発をしたルドルフだったが、その傍らにいたマキノを含め次第にアリスと交流をするようになる。
その過程で、ルドルフの苦悩について話を聞いたタロは、口先だけで何も行動を起こそうとしないルドルフにある意味キレたのである。
アリスは懸念を示したが主の決定には逆らう事はせず、ルドルフに傍らにいる黒猫の正体を明かした。
ルドルフは初め信じなかったが、アリスから渡された指輪を指に嵌める事で黒猫が何を話しているのか分かった時、驚愕の表情を浮かべた。
また、タロはアリスに命じて一種の投影魔法により、在りし日のアスタロトの姿をその場に映し出してタロの言葉をリンクさせた。
それまでそんな魔法を見た事が無かったルドルフは、まるで目の前に神が降臨したと思い、その場に平伏した。それは、その場に居合わせたマキノも同様であった。
獣人族も人族と同じ神と神話を継承する一族であり、その中には当然のごとくアスタロトの名もあったのだ。もっとも、今の地位は堕ちた神なのだが…。
タロはルドルフを懇々と諭した。
考えるだけで行動しない者は何も考えない者と同じであること。
誰かがやるのを待つのではなく、まず自分から動く事が重要であること。
今はどうなるか見えなくても、アクションを起こす事で次に繋がる何かを見つける事が出来る可能性があること。
そして、自分一人でやるには力が足りないと感じるなら、同じ考えを持つ仲間を増やすことだと諭した。
自分に守りたい何かがあるなら、尚更自分から動かなければならないんじゃないか?と問われたルドルフが、思わず隣にいたマキノに視線を投げた事を黒猫は見逃さなかった。
この時、最後にタロはルドルフにこう語って聞かせた。
「私はな、自己犠牲が美徳だとは思わない。どのような理由で在れ、自己犠牲は単なる自己満足だ。だがな、自分の命を賭してでも守りたいと強く願って起こす行動は何かを生むかもしれん。大事なのは、自分がどうしたいという強い意志の力だ。人とはそれを可能にする種だと私は思うが、お前はどう思う?」
タロの言葉を聞いたルドルフは暫し視線を落として考えると、強い意志をその瞳に宿してタロに力強く返事をして見せた。
その後、何かの助けになれば、とタロはもう一つの指輪をルドルフに渡した。それが、自分の姿を思うように変えられる指輪である。
発動条件は、僅かの魔力と自分が強く思い描く「意志の力」だと告げた。
そんな話をした数日後にタロとアリスはその地を離れた。
黒猫主従を見送ったのは、ルドルフとマキノ、そして彼らが妹の様に可愛がっていた幼い少女だった。
この後、ルドルフはハキームの100人隊に志願し、世間に知られる活躍をする事となるのである。
「ルドルフもアスタロト様やアリス様に今の立派になった姿を見て欲しいと言っていました」
遠い昔に最愛の人が口にしていた言葉を思い出すように、マキノはタロ達に語った。
『それで、お前たちは結婚したのか?』
ニヤニヤ笑いながら聞くタロの言葉に僅かに頬を染めながら、
「はい。あの人が戦いに行く前に結婚の契りを交わしました」
そう言ってその老婦人ははにかんで見せた。
「じゃ、あの子達はあなたの子孫という事になるのですか?」
話を引き取ったアリスが至極当然の事を聞いたが、マキノは寂しそうに首を横に振って
「いえ、結局、私とあの人の間には子供が出来なくて。代わりに第二夫人になった子があの人の血を残してくれました」
とだけ答えた。
そして表情を切り替えると、
「覚えていますか?私達が妹のように可愛がっていたクロエという子を。その子が第二夫人になってくれたのです」
嬉しそうにタロ達に告げた。
「あの人たちはあなたが初代当主の妻だった事は知らないの?」
アリスにそう問われた老婦人は首を横に振ると、
「知りません。言っても信じないでしょう?普通の獣人族は人族と同じ寿命しかありません。私はたまたまエルフの血が長生きをさせているだけですから・・・」
そう言って苦笑を浮かべた。
『では、どうしてここにいる?』
タロの問いかけにマキノはこれまでの経緯を話した。
ルドルフとクロエとその子供達との楽しかった日々の事。
次第に皆んなが年老いていく中で、自分だけが若い見た目のまま取り残されていった事。
周りから奇異の目で見られ始めた時、それでもルドルフやクロエや子供達は自分に優しかった事。
そして、ルドルフとクロエが逝ってしまった事で自分のここでの役割は終わったと思い、姿を隠した事など。
「子供達・・・と言ってももういい大人になっていたのですけど、自分達が面倒を見るから残るようにって言ってくれたのですが、もうこれ以上自分よりも若い人達が私を残して死んでいくのを見ている事が出来なくて・・・結局、逃げ出したんです」
そう言うとマキノは自嘲気味に笑った。
「ここ300年程はあちこちを転々としました。同じ場所にあまり長くいると、見た目の問題で変な目で見られるので、同じ場所には20年ぐらいいて次の場所へ移りました。そのうち次第に見た目も老いてきまして、この地に来たのは30年少し前でしょうか」
少し遠い目をしたマキノは、
「私にも、ほんの少しだけアリス様の苦しみが分かったような気がします」
そう言って労わるような視線をアリスに向けたが、当のアリスは特に気にした様子も見せず、
「特に苦しいと思った事はありませんよ」
とマキノに返した。
その答えを聞いたマキノは苦笑を浮かべて、
「そうでしたね。アリス様はアスタロト様さえいらっしゃればとおっしゃってましたね。失礼しました」
と、返した。
マキノの言葉を聞いたタロが、
『そうなのか?アリス』
とニヤニヤ顔で従者に問いかけると、アリスは半眼の視線を主人に向け、
「そんな事を言ったか覚えていません。変な想像をしてあまり調子に乗ってると生皮剥ぎますよ?」
と凄んで見せた。
従者の思わぬ恫喝を受け思わずしおしおと萎縮する黒猫と、自分の気恥ずかしさをそのような言葉で誤魔化している二人のやり取りを懐かしく感じながら、マキノは在りし日の出来事を懐かしく思い出していた。
「ここでアスタロト様とアリス様にお会いできたのは良かったです」
マキノはそう言うと再びにっこり微笑み、
「たぶん、私、あまり長くなさそうなんです」
そう二人に告げた。
マキノの言葉を聞いた主従は表情を変えず、
『病気か?』
とだけタロが聞いた。
無言でうなづいたマキノに、
『ある程度の病なら治してやる事も出来るかもしれんぞ?』
とタロが言葉を継いだが、マキノゆっくりを首を横に振ると、
「ようやくあの人の傍に行けるんです。このままでいいんです」
と二人に告げた。
その言葉を聞いたタロはゆっくり頷きながら、
『…そうだな』
そう言って目の前の老婦人のこれまでの人生を偲んだ。
少ししんみりした空気が流れたが、マキノはかつてルドルフに言われた
「自分が死んだ後の事をちゃんと見て、私が死んだ時に教えてくれって言ってました」
というセリフをタロとアリスに告げると、続けて
「まさか何百年も待たせる事になるとは思いませんでしたから、遅いって怒られるかもしれませんね」
そう言って再びにっこりほほ笑んだ。
『そうかもしれんな』
マキノの言葉を聞きながら、タロはかつての青年の面影を思い起こしていた。
その後、暫し話をしたのちマキノは屋敷へと戻った。
その夜の晩餐の際は、特にアリスとマキノが会話する事は無く、しばらく続いた騒動が嘘のような和やかな晩餐が開催された。
次話「パンくず」 9月20日(金)21:00 投稿予定




