第猫話「黒猫 in wonderland」
気付いた時には既にタロはそこに居た。何故そんなところにいるのか、いつからそこに居るのか、全く判別がつかなかった。
自身の体長ほどもある長い尻尾をゆっくりと左右に振りながら体を起こした黒猫は、警戒しながら辺りを見回した。
『いったい、ここはどこなんだ?』
そんな事を呟きながら、タロは最後の記憶をたぐる。
宿屋に落ち着いたタロとアリスの主従は、侘しい夕食を終えて充てがわれた部屋で旅の疲れを癒していた。
「タロ様、今日はタロ様にお茶をお入れしますね」
そう言う従者をみて黒猫は言葉をかける。
『猫にお茶は飲めんだろう?』
お茶は薬湯の一種であり種類によっては体に害を及ぼすこともあるため、特に猫などの小動物には基本的にお茶の類いは飲まさないのがこの世界の常識であったのだが、
そう言う自身の主人にアリスは微笑みながら答える。
「実は市場で見つけたのですが、なんでも動物でも飲めるお茶らしいですよ。少し味見をさせて貰いましたがほのかに香る甘い匂いが美味しさを引き立てますよ」
黒を基調としたフリルやリボンをあしらったメイド服に身を包み、その美しく長い銀髪を揺らしながら、優雅な所作でお茶の用意をする従者を見やると、
『へぇ?そんなお茶があるんだな』
と、感心するようにタロは答えた。
自身が神であった頃は、こうやってアリスにお茶を入れてもらう事も日々の日課であった。
タロの元へやって来たばかりの頃は、何もかも全て教えなければならず、他の神であればとうにサジを投げていたであろうに、タロは辛抱強くアリスにあらゆる事を教えていった。
元々、素地となる教養を学ぶ機会を与えられなかったアリスであったが、頭はむしろいい部類に入ったため、タロの教えを真綿が水を吸うかのごとく吸収していった。
その甲斐あって、幼い少女であったアリスが美しく開花する頃には、タロの身の回りの事はアリスの采配によって進むようになっていた。
そんな感慨に浸る主人に背を向けて準備を進める従者の口元に、妖しい笑みが浮かんでいることに黒猫である主人が気づく事は無かった。
『んーっ!美味いな、このお茶!』
アリスが温めに入れたお茶を舐めた瞬間、タロは衝撃を受けた。
かつて数々のお茶を口にして来たタロであったが、これまでに無い幸福感と陶酔感を感じることが出来るその飲み物に驚きを隠せなかった。
『凄いな、これ。いったい何のお茶なんだ?』
「シルバーヴァインのお茶らしいですよ」
『シルバーヴァイン?聞いたことが無いが、こんなに美味いなら少し買いだめしとくのもアリだな』
「そうおっしゃると思ってまとめ買いしてますよ」
そう言ってアリスはテーブルの脇に置いている小さめの麻袋を指差した。
『少し多い気もするが、無限収納に入れておけば悪くはならんだろうし、まぁいいか』
と気軽に答える主人に、
「はい」
と短く答えた従者は、主人に気づかれないように薄く笑った。
しばらくお茶を楽しんでいたタロだったが、不意に自分が得体の知れない浮遊感を感じている事に気づき、一気に緊張感を高めて従者の名を呼んだ……はずだった。
だが実際は、従者の名を呼ぼうとした瞬間、既に自分が見知らぬ場所に一匹でたたずんでいる事に気づき、一瞬思考が停止してしまった。そして、冒頭のシーンに到るのである。
どうしても前後の記憶が曖昧で今ひとつ現状を把握しきれないとは言え、そもそも夜だったはずなのにいつの間にか昼間になっているし、何者かに魔法を仕掛けられている危険性もあるため、とりあえずその場から移動する事にした黒猫は、改めて周りを見渡した。
レンガと石で組まれた高い建物が辺りを埋め尽くし、その間を縫うように走る石畳の通路と階段が午後の日差しを思わせる優しい陽の光を受け、まるでずっと昔から自分がそこに住んでいるような錯覚をタロに感じさせた。
今の自分の状況を思わず忘れそうになる中、ふと視線を投げた通りに自身の従者の姿を認めた黒猫は、
『アリス!』と声をかけた。だがアリスは、主人の声に気づかないのか、通りを奥に向かって走り出した。
『おい!アリス!聞こえないのか?』
そう叫びながら、黒猫はアリスが走り出した方へ自身も駆け出していた。
『まったく!いったいなんだって言うんだ!』
悪態をつきながら、従者に追いつくべく駈けるご主人様に気づかないのか、銀髪の少女は通りの交差する路地を右に左に駆け抜ける。
その姿を見失わないよう、黒猫も走る速度を上げつつ何度も従者に声をかけるが、その声が届く気配は無かった。
どれほどの距離を走っただろう。当に目の前のアリスにようやく追いつくと思い路地を曲がった瞬間、いきなり何も無い原っぱが眼前に広がり思わず立ち止まってしまった。
先ほどまで追いかけていたアリスの姿はどこにも認めることは出来ず、さっぱり訳が分からなくなったタロは、何となく原っぱに足を踏み入れた。そこは、小さな草花がそこここに咲く、何でもない原っぱだった。後ろを見れば、それまで自分が走ってきた石の町がある。
何でいきなりこんな原っぱが出てくるのか訝しみながら、その広場のちょうど中央辺りにタロが行きついた時、黒猫は自分を囲うように近づく多くの気配を察知した。
『ちぃ!やはり罠だったか!』
そう毒づくと、どうやって包囲網を突破するかに思考を切り替えようとした瞬間、周りから一斉に声が上がった。
『『『『『『『『『にゃ~ん!!!』』』』』』』』』
『……えっ??』
一瞬何が起こったか理解できずにいたタロの周りに、突如多くの猫たちが現れ、あっという間に黒猫を遠巻きにした。
その数を数えるのも億劫なぐらい、何百という猫が周りに集まった様子をびっくり眼で見るタロだったが、
その眼前の集団が左右に分かれて一匹の白い猫が姿を現した事で若干警戒のレベルを引き上げた。
長毛のペルシャ猫を模したような姿を持つその猫は、他の猫たちからは感じる事の出来ない威厳を醸し出していた。
『そのような警戒は無用です、我らが王よ』
我らの王と告げられ、呆気にとられるタロを尻目に、その白い猫は話を続ける。
『私の名はシルベスターと申します。以後お見知りおきを。我が王よ』
その言葉を聞き、ようやく正気に戻ったタロはおもむろにシルベスターに問うた。
『お前、俺と会話が出来るのか?』
『無論でございます、我が君』
『俺と会話が出来る猫なんて初めてだ!』
タロも猫なので、当然他の猫と言葉は通じる。だが、言葉が通じるという事と、会話が出来るという事は必ずしもイコールでは無い。
元神であるタロは思考するが、猫は神や人間のような思考はしない。従って、その間で言葉のやり取りは出来ても思考のやり取りは出来ないのだ。
これまでに何度か他の猫に話しかけたタロは、会話をする事は出来ないと結論付けていたのだが、ここにタロの常識を覆す存在が現れたのだからその驚きも当然であった。
『なるほど、王の疑問もごもっともでございます。20年は経ませんと私のようになる事は難しいのです。
私は、既に30年を生きようという、いわばこの界隈の主のようなものでございます』
聞けば、猫が人のような思考をするようになるには、それなりの年月を経る必要があるという話を聞き、然もありなんと納得する黒猫だった。
それはさて置き、タロには聞くべきことがあった。
『なるほど、その辺りの事情は分かった。ところで、先ほどからお前は私の事を王と呼ぶが、それはいかなる訳だ?』
そう問いかけたタロの話を聞いたシルベスターは、我が意を得たりと笑顔を浮かべ、話を切り出した。
『そうお感じになるのももっともです。実は、我々はこの辺りを縄張りに生きる集団なのですが、人が長く住まなくなったこの町に暮らし始めて既に20年を越えようとしております。私をはじめとした古参のもので取りまとめをしておりましたが、以前に比べここで暮らす猫も多くなり、私たちが安全に暮らすためには大きな力を持った方に王として君臨していただく方が良いだろうという事になったのです』
そこまでに聞いたタロは、その後の展開が凡そ読めてきた。つまり、自分にこの集団の王になれというのだ。
そこまで聞いてタロは焦った。
『いやいや、それは同じ集団の中から選抜した方が良いのでは?よそ者が入って頭を取ると碌なことにならないと思うが?』
『その点はご心配いりません。あなた様なら、私共をしっかり導いてくれると、皆も同意してございます』
そう言ったシルベスターは言葉を継いで、
『あなた様のその体の中には、私共では到底太刀打ちできぬ大きな魂が宿っておいでです。そのお力を、私共にお貸しください』
そう言ってその場にうずくまり器用に頭をシルベスターが下げると、周りを取り囲んでいた猫たちも同じくうずくまり頭を下げた。
その光景を見たタロは、心底困った表情でどうやって切り抜けようか頭を働かすのだった。
そんなタロにとっておきの切り札を差し出すべく、シルベスターはタロに言葉を投げた。
『王には美しい王妃が必要でございましょう。僭越ではございますが、私の孫娘はとても美しく成長しております。どうかおそばに置いてください』
そう言って、周りの猫に何かの合図を送った。
それを聞いたタロは慌てふためき、
『いやいやいやいや!!王妃とか必要ないから!王にはなれないから!!』
とても普段のタロからは想像できない狼狽ぶりであったが、危害を加えるどころか、自分に王になれと懇願する猫たちを悪しざまに扱うことは出来ず、煩悶するタロであった。
その時、シルベスターがタロにこう告げた。
『我らが王よ、これが我が孫娘のシルヴィアでございます。是非ご覧ください』
そう言われ、視線で示された場所に目を移したタロが目にしたものは、黒いメイド服を着た猫耳姿のアリスだった。『……えっ?アリス?』
思わずそう呟いたが、当の銀髪の少女は彼女の後ろに見える長い尻尾をゆっくり振りながら
「初めましてにゃん、タロ様。シルヴィアでございますにゃ。末永く、よろしくお願いいたしますにゃ」
と言葉を返した。
『えっ?アリスだよね??てか、今、タロ様ってはっきり言ったよね??』
混乱で頭がしっかり回っていないタロのそばにやってきた少女は、
「いえ、私の名前はシルヴィアですにゃ。よろしくお願いしますにゃ、我が君」
というや否や、むんずと黒猫を掴んで抱き寄せると、いきなり頬ずりしだした。
「いや~ん、モフモフ気持ちいいにゃー!!」
そう言いながらタロに抱き着く少女を見ながら白猫のシルベスターは、
『いや~、孫娘も気に入ったようで良かったですな。私も一安心です。私共含め、末永くお願いいたします、我が君』
等と呑気な事を言っていた。
当のタロは撫で繰り回されて息も絶え絶えとなりながらも、
『俺はまだ世界を見て回るんだ!絶対、王にはならん!ならんぞー!!』
と叫んだが、その声は誰にも届かないのであった。
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うんうん唸りながらだらしない恰好で寝ているご主人様を膝の上に乗せ、満面の笑みで撫でまわすアリスは、
「やっぱり正解でしたね。本は読んでおけば役に立ちます。まさか、こうも上手くいくとは思いませんでしたが、今後もこの方法は使えそうです」
そう言って、先程まで黒猫が飲んでいたお茶が入った小皿を眺めた。
“シルバーヴァイン”……またの名を“マタタビ”という事をタロは知らなかった。




