第4話 礼名とお兄ちゃんの百万円狂想曲!(そのよん)
家に帰ると今日の戦利品を広げる。
「すごい買ったよな! これ全部一日で!」
居間に洋服や日用品、調理器具なんかを並べる。
「ちょっとこれ着てみるねっ!」
わたしは一番高かった服を持って階段を登る。
本当に楽しかった。ホンネを言うと一番欲しいものは買えなかったけど。今一番欲しいもの、それはお兄ちゃんとお揃いの指輪。でも、そう言うものは棚ぼたのお金で買うべきじゃないと思うし、きっとこれで良かったんだ。クイーンズ文庫「僕は妹に惹かれてく」の最新刊も買えたしね。すごく満足。
濃紺のタイトなスカートに履き替えてセミフォーマルな服を羽織ると鏡を見る。ちょっと大人っぽい感じ。そうだ、この髪留めもしてみよう。うなじが綺麗に見えるように…… っと。お兄ちゃん何て言うかな?
ドキドキしながら階段を下りると、お兄ちゃんは電卓片手にレシートの束と睨めっこをしていた。
「お兄ちゃん、どう?」
おどけてくるりと回って見せる。
わたしを見たお兄ちゃんは少し驚いたよう。
「う、うん、い、いいよ! 礼名のイメージにピッタリだよ!」
「礼名のイメージ、ってどんな?」
「あっ、えっと、知的?」
「疑問形で言わないでよっ! でも、嬉しい。ありがとうございます、お兄ちゃん」
かわいこぶってにっこり微笑むと、丁寧に頭を下げてみる。
そうしてゆっくり顔を上げると、お兄ちゃんは少しキョドっていた。
「あ、いや、こっちこそ、ごちそうさま…… じゃなくってさ……」
お兄ちゃんはレシートの束をちらりと覗いて。
「今日使ったお金が締めて十六万円なんだ。あと八十四万円、どうしようか……」
予想通りだけど十六万円か。わたしとしては精一杯情け容赦なく買ったつもりなんだけど…… そうだわ!
「ねえお兄ちゃん、ひとつやるべき事があると思うんだ」
「やるべき事?」
「そう、やるべきこと。あのさ、礼名のアコーディオンって借りっぱなしじゃない? この際、お金払っちゃおうよ」
「ああ、そうだった、忘れてたよ。明日、中吉質店に払いに行こう。確か礼名特別価格で十五万円って言ってたよな」
「最初は二十万円だったけどね」
「それでも…… まだ六十万円以上残っちゃうぞ」
「お金を使うのがこんなに大変だなんて知らなかったね」
単にわたしの中に貧乏が染みついているだけかも知れないけど。
暫くお兄ちゃんと食卓に座り考える。残りで何を買うかについて……
「なかなかないな」
「そうだね。ねえ、取りあえず今日買ってきたCD聴こうよ」
わたしは袋から黄色いジャケットのジャズCDを取り出すと封を開けプレイヤーに掛けた。お兄ちゃんが選んだそのCDからは軽快なリズムが流れ出し、ピアノが跳ねるように踊りだす。
と、お兄ちゃんがじっとわたしを見て。
「そうだ! なあ礼名、明後日もう一度買い物に行こう。買い残しとかもあるし」
「だけど欲しいものはもうほとんど買っちゃったよ」
「実は高い買い物をしたいんだ。すっごく高いから残ったお金を全部つぎ込むけど」
残ったお金を全てつぎ込む?
「それって、お兄ちゃんが欲しいもの?」
「勿論!」
「じゃあ買っちゃおう! 何? 新しいゲーム機?」
「さすがに六十万のゲーム機はない」
「萌え系のフィギュア六十万円分とか?」
「この家が「人形の家」になってしまう」
「まさか、お宝写真集? 欲求不満ならわたし、お手伝いするよ! ランジェリーとか下着姿とか、チャイナドレスとかスク水とか、礼名恥ずかしいけど頑張るよ!」
「な、何もじもじ勘違いしてるんだ、違う…… あっ!!」
「お兄ちゃん! 鼻血がっ!」
慌ててティッシュをお兄ちゃんに渡して顔を天井に向けさせると、わたしはもう一度話題を戻してみる。
「じゃあなに? ねえ教えてよ!」
「それは明後日のお楽しみだ。一緒に買いに行こう!」
* * *
百万円を預かって約束の一週間が過ぎた。
その土曜日は大雨だった。
「今日はさっぱりだったね」
「仕方がないよ、台風が来てるんだから」
閉店三十分前だけど、店にはもう誰もいない。
だけどふたりはずっと入り口の扉を見つめていた。
からんからんからん
「「お待ちしていました」」
わたしは彼から傘を受け取るとお兄ちゃんが待つカウンターへと案内する。
「ありがとうございました。お陰で礼名とふたりとても楽しい時間を過ごせました」
お兄ちゃんの言葉に表情を緩めた彼はカウンター席に腰掛ける。
「それは良かった。今日はブレンドを貰おうか」
わたしは彼におしぼりを手渡して。
「上着、お掛けしましょうか?」
「ありがとう。でもいいよ」
「濡れているのでお拭きしますね」
タオルを持ってくると、雨に濡れた肩の辺りをポンポン叩く。
お兄ちゃんはポットを火に掛けると彼への報告を始めた。
楽しかったこの一週間の出来事。
朝早く繁華街に着いてしまって店が開いてなかったことや、両手に溢れる荷物にヒイヒイ言いながらバスに乗って帰ったこと。勿論、偶然会った白井恵さんの幸せそうな話も。
嬉しそうに話をするお兄ちゃんを横目にわたしは居間に戻って買ったばかりの服に着替える。戻ってくると彼はコーヒーを飲んでいた。
「これ、すごく気に入ってるんですよ。ブランド品でわたしには勿体ないくらい高かったんですけど、ね」
「いやいや、とても似合ってますよ。すごく大人びて見えて。その髪留めも買ったのですか?」
わたしを見て彼は優しそうに笑ってくれる。
「あっ、はい。髪が伸びてきて欲しいなって思ってたんです」
黙って肯く彼。
「お陰で本当に楽しい一週間でした。それで……」
お兄ちゃんは彼の前にレシートの束と八千円ちょっとが入った紙袋を差し出す。
「約束通り余ったお金はお返しします。ほとんど残ってませんけど」
ちらりわたしを見たお兄ちゃん。
いよいよだわ。
「百万円ってすごいですね。ふたりで両手に溢れかえるほど買いまくってもまだ十六万円しか使ってなくて。借り物だった礼名のアコーディオンはちゃんと買い取りました。だけど、それらを全部合わせても七十万円も残っちゃって。そこでそれを全部使ってすごい物を買いました。僕が一番欲しかったものです」
お兄ちゃんは「僕が一番欲しかったもの」と言ってくれる。
だけどそれは絶対にわたしのため。
最初の買い物の翌々日、ふたりでもう一度繁華街に買い物に行った。電気屋や雑貨店で買い残したものを手に入れると、お兄ちゃんはわたしを街で一番大きい楽器屋さんに連れて行ってくれた。
「ピアノを買おう」
「えっ? ピアノ? わたしもう気にしてないよ、アコーディオンもあるし」
「いや、僕が聴きたいんだ、礼名のピアノ。わがまま言ってごめん。礼名のためとかそんなんじゃなくて、僕が聴きたい」
「ブランクも長いし、習いにも行けないし、演奏家になりたいわけじゃないし。わたしはお兄ちゃんのお嫁さんになりたいんだよ……」
「だから、僕が聴きたいんだ、礼名のピアノ。あの音が好きなんだ、礼名の弾くピアノを聴きたいんだ。僕のわがままなんだ」
「お兄ちゃん……」
きっとお兄ちゃんは考えてくれたんだと思う、わたしが「うん」という言い方を。
だから嬉しかった。本当に嬉しかった。わたしにはこんなに優しいお兄ちゃんがいて。
「そんなにいいのは買えないと思う。そこは許して欲しい」
「許すって…… 何言ってるの…… お兄ちゃんのばか……」
今思い出しても目頭が熱くなる。いけない。
「一番欲しかったもの?」
お兄ちゃんに向かって彼は不思議そうな顔でそう尋ねるけれど。
「はい、ふたりで生活を始めてから僕がずっと欲しかったものです」
お兄ちゃんの言葉を聞いて、ぺこり彼に頭を下げると居間に戻った。そうしてわざと店と居間とのドアを開けたままピアノを弾き始める。曲はショパンの夜想曲第二番。
彼には百万円の恩義がある。いや、それだけじゃない。お兄ちゃんとの、この生活を守り抜けたのは彼の助けがあってこそだ。その感謝の気持ちを、わたしの想いをこの指先に込める。そうして、もうひとり。そんな彼にどこか迷いながら接しているお兄ちゃんにもわたしの願いを込めて。記憶に残る美しい夜になりますように……
やがて。
ゆっくり鍵盤から手を離すと店の方から拍手が聞こえた。
開け広げたドアを抜けると彼は立ち上がって拍手をしてくれていた。
「素晴らしい。僕は幾度となく一流の演奏を聴いてきたけれど、こんなに胸に響く演奏は初めてだよ、ありがとう」
「いえ、お礼を言うのはこちらです。こんな素晴らしい楽器をありがとうございます」
「あの金じゃたいしたものは買えなかっただろうに」
「いいえ、元々そんなに高価なピアノを持ってたわけじゃないですから」
彼とわたしはどちらからともなく笑って。
「もう野暮なことを言うつもりはない。ふたりとも本当に幸せそうな顔をしているよ。約束を果たしてくれて本当にありがとう。これは今日のコーヒー代だ」
彼はゆっくり立ち上がる。
「お車お呼びしましょうか?」
「いや、車は待たせてるから」
わたしは横に立つお兄ちゃんの背中をポンポン叩く。そして彼に聞こえないように。
「ほら……」
「ああ……」
わたしたちはカウンターを出て彼の前に立った。
「本当に楽しかったです。今日はこんな雨の中来てくれてありがとうございます。あの…… また来てください……」
「ああ、また来るよ」
お兄ちゃんったら!
また背中を押す。
「あ、ありがとう……」
もう一度背中を押す。
「父さん、ありがとう!」
「えっ?」
驚いたようにお兄ちゃんを見た倉成壮一郎さん。
その顔はみるみる崩れて。
「あ、じゃあな……」
傘を持ち軽く手を上げた彼は、振り返ることなく待っていた車に乗り込んだ。




