0-1:シド
畜生、絶対ぶっ殺してやる。
それは間もなく14歳になろうという誕生日の夜のこと。
威勢よく呟いた言葉は柔らかな枕の中に吸い込まれ、皆が寝静まった寝室静けさを少しも掻き乱さなかった。
今夜は眠れない。昼間の悔しさを腫らすまで永遠に眠れない。
あの憎きオセロを立ち上がれなくするまで叩きのめす以外、穏やかな感情を取り戻す方法はない。
自分よりも2個上のオセロという少年はいつも、何かにつけては自分にちょっかいを出してくる。性悪な手下を連れて水を被せたり、虫を投げつけたり、バカにするような文句を浴びせたりもする。バカだアホだと罵る。
今日は川に突き落とされた。その挙げ句孤児院の庭で捕まえた蛇も投げつけてきた。もう我慢の限界だ。
絶対に何が何でも許さない。
少年シドの決意はこの町を囲む防壁よりも高く強固で揺るぎなかった。内に燃えた怒りはシドの悔しさを餌に激しさを増し、己を内側から焼きつくさんばかりである。少年は憤怒に燃え、復讐を誓った。
絶対にぶっ殺してやる、と。
だがそれは束の間の決意。子ども心に抱く怒りと復讐はまるで木彫りのような強度と、そよ風に惑わされるロウソクの灯火のように淡かった。
柔らかな枕に頭を預け、暖かな布団に身体をくるまれていると、半刻も経たないうちに睡魔が優しく枕元に立つ。薄く温い憎しみは睡魔の一息でかき消え、シドは鉄門のように重くなった瞼を自然の摂理のままに落とした。
一世一代の復讐を決意して間もなく彼は眠りに落ちた。
シドもオセロと同じくらい嫌がらせをしていたし、彼の復讐の決意など二日に一度は起きるものだったのである。
それからしばらくしてシドは突然目を覚ました。
今回の復讐心は本物だったのかと言えば、そういうわけではない。
彼は焼けるような痛みを左肩に感じていた。
熱い。そして痛い。
熱せられた鉄や石を身体の外側からも内側からも押し当てられているような強烈な痛みだった。歯の根から血が滲むほどにスーツを噛み、シドはその激痛をどうにかやり過ごそうとした。脂汗が流れ、肩口は燃えるように熱いのに背筋の辺りは冷たく、嫌に冷ややかな気配が何度も彼を撫でつけた。
何て最悪の誕生日だ。
ベッドの上で悶え、苦しみ、枕に頭を擦りつけ、彼は耐えた。
しかしやがて激痛は頂点に達し、彼は小さな呻き声を一つあげて気を失った。
○
防塞都市チェスター。
都市の周囲5キロメートルの範囲を囲う堅牢な防壁は一切の隙間なく、蔦の1本すらも忍び込めない程の緻密さで人々を外敵から守る。
それは壁の外に蠢く脅威に対抗して築かれた無敵の盾。
都市住民2千人は、たとえどんなに凶暴な生物が壁の外側を闊歩していようと、幾層にも重ねられた石の壁の内側にいる限りは絶対に安全であり平穏無事な生活を営むことが出来るのである。しかし裏を返せば、1歩でも防壁の外に出ればとてつもなく危険な目が待ち受けていること意味した。例え他の都市に行かなくてはならないとしても、決して1家族個人の単位で門を通り抜けることをしてはならない。必ず中隊規模の兵士による護衛がなければ1日ともたずに猛獣の餌になるだろう。彼らは人を喰らうことに何の躊躇いも見せない。人が牛や豚を食べることにいちいち同情の念を沸き立てないように。
チェスターにおいては家々も領家も田畑も店々も孤児院も全て堅牢な壁の恩恵によって日々を生きているのである。
そんな都市に暮らす14歳の少年シドは至って普通の生活をしていた。
幼くして両親を亡くし、セドリック孤児院に預けられることとなった彼は、好奇心旺盛で行動派で目立ちたがり屋。2個上のオセロとは毎日のように喧嘩をし、その度に復讐心を燃やしては翌日には忘れ、何事も無かったかのように再び喧嘩をする。その度に院長のローレンシアに2人揃って殴られる。それが毎日だった。町で評判の悪ガキでありながら、しかしどこか憎めず。ローレンシアも彼やあるいは彼らの扱いに手を焼きながらも、実の息子のように愛情を注いで育てていた。
そんな目立ちたがり屋で悪ガキのシドには、人に言えない秘密があった。
彼はどういうわけか昔から怪我をしなかった。
正確に言えば怪我をしたのだが、どれだけ深い傷もすぐに治るのである。じっと傷口を見つめているとそこに火の粉が舞い、一瞬の突き刺すような痛みに目を瞑ると、次に開いたときには跡形もなく傷が消えている。転んだ拍子に作った擦り傷掠り傷も、ナイフや包丁で切った傷も、どんな傷もすぐに消えて治った。後に痛みが残ることもなく、まるで始めからそんな傷など存在していなかったのように。
彼はこれが恐かった。
初めは怪我をしない自分が勇者や英雄の類になったかのようで鼻が高かったが、これが誰にも起こらない自分だけのことなのだと知ってから彼は恐怖を抱いた。みんなとは違う。みんなと同じを求める子どもの心においてそれは致命的な傷であり、その傷口は不思議な治癒の力を以てしても塞がることはなかった。いつしか彼は怪我をするとすぐに人に背を向けて、決して誰にも傷口を見せようとはしなかった。
そしてここ最近になって彼の身体に起こる不思議は悪化している。
以前まで彼の体に起こることと言えば異様な早さで治る傷。これだけだった。
だが最近は違うのだ。
火が、もっと活発に身体から噴き上がるようになった。
草むしりをしているとき、薪を運んでいるとき、家屋の修理を手伝っているとき、少しばかり気を抜いて草や木に触れると手の甲や平や指をまるで生き物のように炎が走り抜けそれらを燃やすのである。一体どれほど強いのか。彼の体が生む炎は掌をはみ出す大きさの木材でさえもわずか一瞬で黒ずみにしてしまった。服が燃えないのが救いかも知れないが、それでも自分のよく分からない力が何かを一瞬で灰にするというその事実が彼の心を鉛のように重くする。
皆の前では相変わらずバカのように明るい性格を演じていたが、1人になると駄目だった。いつ燃えるとも知れない自分の身体に恐怖し、震えた。気味の悪い寒気がシドを襲ってやまなかった。
いつからそんなにも自分の身体は悪化したのか。
それは恐らく3日前。14歳の誕生日からだった。
あの灼ける痛みに気絶した夜。左肩が噛み千切られるような押し潰されるような激しい痛み。
翌朝、例によってオセロへの復讐心など綺麗さっぱり消え去った朝からシドの左肩に奇妙な握り拳ほどの刻印が浮かび上がった。
最初は何か汚れが刻印のように見えたのだろうと、そう思った。だがいくら擦っても消えず、水をかけて消えず。消えるどころからより赤く濃くなっていくような気さえした。
シドの左肩に現れたのは、丸く縁取られた中に炎が踊るような赤い刻印。
この刻印が誰のものなのか、どういう意味をもつのか、そんなことは知らない。だが、身体から吹き出る火と無関係な刻印ではないだろうということは確信していた。
彼は今、孤児院の裏手にある池の端に座り込み、鏡のようになった池へ顔を近づけて自分の左肩を覗き込んでいた。麻のシャツの襟をはだけ、じっと恨みがましくその印を睨みつける。
気分が重い。青い空に輝く太陽や光を宝石のように跳ね返す水面や時折吹くそよ風がシドにはまるで素晴らしく感じられなかった。そして孤児院の表の方から聞こえてくる仲間たちの甲高い騒ぎ声が、耳の奧に低く沈殿した。
「……何なんだよこれは」
刻印が焼き付いてから3日。時たま左肩が痺れて疼く。束の間と言えど、その激痛は思わず膝をつくほど。その度に周囲から好奇の目を向けられる。
目立つのは好きだが、そういう目立ち方をシドは望んでいなかった。
炎を象ったようなに指の先を這わせ、その確かな溝をなぞる度言い表しがたい悔しさのようなものがこみ上げてくる。他の誰とも違う異質な刻印。異質な身体。どんな怪我をしてもすぐに治るこの身体が悔しかった。
誰かにばれれば気味悪がられるだろう。
オセロに知られれば奴はいよいよ自分のことをいじめるに違いない。いたずらではなく、本当の嫌悪からいじめに走るに違いない。そして母のようなローレンシアでさえも、シドの傷に薄気味悪さを抱いて離れて行くに違いない。
黒い水面に映った自分の姿を手でかき乱す。左肩の傷を消し去るように、飛沫を上げて水をかいた。だが、どれだけ崩れた自分の姿もすぐまた元に戻り、情けない面持ちのシド自身が浮かび上がってくる。それは彼に刻み込まれたこの印が二度と消えることのないものであると示しているように思えた。
「ねえ」
不意に呼ばれ、シドは慌てて服の襟を元に戻し、声のした方を振り向いた。
「……どうしたの?」
そこに立っていたのは琥珀色の長い髪をくるくると指に巻き付けた少女。背が小さく、丸顔で、丈の長いワンピースをずりずりと草の上に引き摺っている。
同じ孤児院で暮らす、変わり者のユノだった。