久政、官位を得る。
だらだらと、頑張ります。
天文12年(1543年)17歳
今年も新年のご挨拶に、献金30貫と折々に必要な物、米、塩、お酒、お茶、塩乾物、果物、木工品を献上した。
今回、朝廷から官位をいただいた。
あらまあお気遣いなく。
『造酒正』 に、任ぜられました、相当官位は、正六位上。
ええ、このぐらいが余計な恨みをかわないですし、ちょ~どイイです。
さすがお公家さんは解っていらっしゃる。
(位打ちは、ご勘弁願いたいものです。)
「これで、清酒の利権はいただきだ」
なにせ、正式な官職だ、酒づくりの利権を独り占め出来る。
摂関家、その他の公家にもせっせと贈り物をした、もちろん樽酒も献上しました。
任官のお礼に御所へ伺う、地下人であるため、昇殿は出来ないのでお庭に控える。
陛下からお口添えがあり、従五位下 宮内少輔を賜った。
いわゆる殿上人です。
摂関家からの儀礼、礼儀作法の指導を賜り。
後日、朝廷を再度訪問し昇殿した。
直接陛下よりお言葉をいただき、感動した。
後奈良帝は、清廉な人柄であった 。
「むりのない程度に、今後とも贈り物をさせていただく」旨、奏上し。
了承していただいた。
当初は、「無用である」と仰せられたので、陛下の、宸筆(天子の直筆)にて清酒の命名をしていただいた。
「湖水」「さざ波」は、こうして命名された。
事実上、皇室御用達のお酒である。
お礼の献金は無用とのお仰せだったので、後日、お世話になった公家衆に贈り物をした。
俺が指導した苗代での育苗と、正条田植えの効果はまずまず上々だったらしく我が領地は豊作だ。
脱穀も、秘密兵器千歯扱きが作業効率を飛躍的に向上してくれた。
収穫後の慌ただしい時期に、余剰人員を冬ごもりの用意などに回せそうだ。
作業にあたった農民の総てが、俺を尊敬してくれた。
「ほっほっほ~、みな俺を敬いたまえ」
和紙の方も道具や原料、製法を改良して美濃紙以上に良質なものを生産出来るようになった、江州紙として城下で座を作らせたい。
国友村には、以前より浅井家が鉄砲の見本を渡し、開発を依頼してた。
もちろん資金提供もして、浅井家御用達のお抱え鍛冶屋とする計画である。
見本をベースに量産が出来るまでになった。
基礎研究は大切だ。
国友村には、鉄砲生産量の二割を浅井家に納めるというのを条件に、基本売買には口を出さない。
まあ、実際初期のうちは浅井家が発注をするのだが、気は心である。
『鉄砲の販売の自由を保障する』という、朱印状をあたえた。
本来であれば堺・根来に比べれば後発だし、国友が本格的に完全独立・武装自治都市化していなくて助かった。
コイツらプライドが高く厄介だが「~の自由を認める」とか「お前達だけ特別」という言葉に異常に弱い。
「国友の鍛冶屋が日の本一だと云われるようにしろ」と、発破をかけておいた。
原材料の砂鉄や炭、木材についても、優先的に便宜を図ることを確約した。
当初は、虎御前山麓に遠藤隊を置き睨みを利かせた上で、爺と海北を交渉役に引き連れて行っての『砲艦外交』をする予定だったが…。
まあ一応、購入側には『浅井に銃口を向けないこと』という誓詞を出させるが、転売すれば判らんしな。
そこはそれ、「時代の流れだからと気にしないつもりだ」と言ったら安堵していた。
生産力さえ上がれば優先的に安く購入出来るし、大量発注もかけ易い。
何しろ放って置いても勝手に我が家の鉄砲が増えるのだからありがたい。
古式鉄砲の四分の一は国友製であったはずだから、これでさらに規模を拡大して増やせそうだ。
パイがでかくなれば数量も上がる。
まあ、うっかり狙撃されちゃいましたENDにならないようにしよう。
もちろん刀鍛冶も囲い込む。
「あまり歴史を弄りすぎても、後々苦労しそうだ」
そこら辺のさじ加減が、滅茶苦茶難しいな。
まあ、なるようになるだろう、必要以上に気にしないことにした。
虎御前山御殿の改築が完了した。
建設の話が固まった頃から資材を用意させ、縄張りを見届けてすぐに、普請に入ったから何とか冬までに間に合った。
一応、従来の『虎御前館』を表御殿として使用する。
山の麓に屋敷地および官舎を造り、自分の配下をまとめて住まわせるつもりだ。
まあゆくゆくはもっと拡張して真田丸バリの出城にするつもりである。
虎御前山は小谷城に近く重要地点だ、町にも国友村にも近く睨みを利かせるにはちょうど良い距離感なんだ。
虎千代(謙信)が、男子を出産した。
長男である。虎夜叉と名付ける。
可愛いではないか。
いずれ虎夜叉丸には、越後をやろう。
(虎千代が、切り取るはずだ!)
虎千代は誰にも渡さん!
信玄が攻めてきた時点で、謙信親子が、颯爽と登場して『越後を救う』という流れにしよう。
お礼に佐渡島をもらえば良い。
あそこの金はまだ知られていないはず、むふふ。
虎千代は、少なくともあと10年は越後に返さない。
古志?長尾家には充分な付け届けをしておこう、虎千代は今、武者修行中なんだ。
越後にしても滅亡の危機にでもならなければ、国人なんて言う事きかずやりたい放題だしな。
ある程度、見殺しにして潰しておいた方がありがたみが出る。
それよりも、柿崎景家、 斎藤朝信を味方に付けよう、あと誰だったかな?
トピックス
またもや将軍.義晴は近江に逃れる。
もはや、家出将軍だ。
信長上洛の時だけの特殊な事例かと思っていたが、六角氏にとっては恒例行事だったんだなぁ~。
どうりで、対応を間違えるはずだ。
信長が担ぎ出したことで、あまり重要視してなかったんだろうな。
「お好きにどうぞ~という感じか?」
天文13年(1544年)18歳
その後も欠かさず、新年のご挨拶を送った。
献金30貫と折々に必要な物、江州紙、米、塩、お酒、お茶、塩乾物、果物、木工品を献上した。
俺って本当にマメな男だな。
史実では、……
「京極氏の勢いに押され、苦慮した浅井(久政)氏は数年と持たずに六角氏に臣従する形となり、かろうじて家を保った。」とあるが……。ぷぷぷ、何それ!そんな事ナイナイ、こちらの都合よ!
今は、北国街道と塩津-敦賀の塩津街道、塩津-西の浜-佐和山間の琵琶湖水運を支配下に置いている。
俺は、京極氏の影響をかなり排除した。
柏原・米原あたりに残党がいるのがウザイが、これも徐々に排除していく。
いずれ中山道、北国街道脇往還を支配下に置きたい。
そろそろ長政?を、小野殿に仕込む時期かな?
トピックス
天文13年(1544年)8月、土岐頼純は朝倉孝景(宗淳)と尾張の織田信秀の支援を得て、美濃再入国を企てる。
しかし、斎藤道三は6月にはこの情報をつかんでいたらしい。
朝倉軍は朝倉宗滴が総大将となり、徳山谷を南下、9月19日に赤坂で斎藤軍と合戦、これに勝利し六角氏との連絡路を遮断した。
一方、織田軍は道三の籠もる稲葉山城を正面攻撃、9月22日に総攻撃を仕掛けたが、城下での斎藤勢の防戦もあり、夕刻になって攻撃を中止し、撤収にかかったところを攻撃され大敗した。
この敗戦によって頼純は、朝倉軍とともに再び越前に引き揚げた。
このどさくさの紛れて、『道中の治安維持』を名目にして、京極方の国人を各個に攻め服従させた。
圧力をかけ念入りに切り崩す。
京極高吉死亡。
何でだろうね~。
どうやら河豚を食べたらしい、さぞや上手かったことだろう。
男の子でした。
長政?のお兄ちゃんです。




