第7話 少女疾走
目を覚ますと、窓から差し込む太陽は大分高い位置にあった。
「…………」
寝すぎて気怠い身体をベッドの上に起こすと、ロザリンは暫く座ったままボーッとして、頭がゆっくり覚醒するのを待つ。
右目を隠した前髪を手櫛でほつれを解きながら、首を回して部屋の中を見回した。
三日目にして既に見慣れた室内は、住人が一人増えた以外に増える物も無く、変わり映えなく小ざっぱりとしている。
しかし、部屋の主であるアルトの姿は見えず、彼が座っていた椅子だけが、ポツンとベッドの横に置いてあった。
寝ぼけ眼でジッと椅子を見つめていると、不意にお腹が音を鳴らす。
「……お腹、空いた」
空腹感が、ロザリンの意識をはっきりと呼び戻す。
昨夜は体調を崩していたため、カトレアが用意した野菜スープを食べたっきり。
一晩たっぷりと睡眠をとったおかげで、身体の疲労も体調不良もすっかり良くなり、食欲が出て来たようだ。
「ご飯、食べたい」
騒ぎ立てるお腹を摩りながら、ベッドから抜け出る。
カトレアが着せてくれたピンクの寝間着は、寝汗を吸って肌に張り付き、気持ちが悪いので、直ぐに脱いでしまった。
安物の木綿のパンツ一枚になって、いつもの服はと首を巡らし探す。
机の上には水が入った桶と、綺麗なタオルが置いてある。多分、アルト……は、そんな気は利かないので、カトレア辺りが用意してくれたのだろう。
タオルの水桶の中で絞り、汗をかいた身体を丁寧に拭う。
冷たい水の感触に肌が粟立つけれど、拭った後の爽快感は起き抜けの身体に染みる。
腕や足、お腹まわりや腋の下を、ゴシゴシとタオルで擦る。
途中、胸部の慎ましさにため息を吐きつつも、足の指まで抜かりなく。
その内に肌寒さも気にならなくなり、全身を拭き終わる頃にはすっきりと眠気も、寝汗の気持ち悪さも、文字通り拭いさることができた。
「……うん、すっきり」
タオルを置き、枕元に置いてある服に袖を通して、最後にマントを羽織り、傘を手に取ると小走りに部屋を出て行く。
今日は何故か、無性にアルトに会いたかった。
階段を下りると昼食時だからか、漂ってきた料理の良い香りがすきっ腹を刺激する。
「あら、ロザリン。身体はもう大丈夫なの?」
香りと賑やかな喧騒に誘われた食堂に顔を出すと、ロザリンの姿に気がついたカトレアが、仕事をする手を止めて駆け寄ってきた。
「うん、平気」
店内を見回す。満員ではないが、客席の殆どが埋まっていた。
最初は心配そうな顔をしていたが、顔色などを確認して体調が戻ったことがわかると、安堵の息を吐いて笑顔を見せた。
良い人だなぁ。素直に感想を抱いていると、空腹を訴える腹の音が盛大に鳴り響く。
「……うぬぅ」
「あらあら。元気のいいお腹ね」
流石に恥ずかしくて、頬を赤くして目線を下げる。
カトレアは朗らかに笑った。
「お腹が空くのは健康な証拠よ。カウンターに座って待ってて。簡単なので良ければ、店長が作ってくれるから」
「でも、忙しいんじゃ」
「ピークは過ぎたから大丈夫。見た目ほど、バタバタしてないわ」
そう言って遠慮がちなロザリンの背中を押し、カウンターに座らせた。
傘を足元に置いて、奥のカウンター席に座ると、目の前にジュースの入ったコップが置かれた。
爽やかな柑橘系の香り。絞ったオレンジを、水で割った飲み物だろう。
「すぐ作るから、これでも飲んで待ってな」
「てんちょ、さん……ありがと」
ランドルフは痩せ気味の顔で笑い、料理のための材料を取り出す。
オレンジジュースに口を付けた。少し水っぽいが、寝起きの身体には染みる。
チビチビと飲みながら、店内に視線を巡らせた。
客層はガタイのよい職人風の男たちが多く、反対に女性は皆無だ。
恐らくは仕事の昼休みを利用して、食べに来ているのだろう。
大半はほぼ食べ終えていて、食休みをしながら他愛のない談笑に興じていた。
こうやって一人で店を見回すのは、王都に来てから初めてだ。
出会ってからずっと、ロザリンの側にはアルトがいた。
口が悪く態度も悪い、大人としては駄目な分類に入る人物であったが、彼の側は不思議と居心地が良かった。
「なんか、変な気持ち」
胸の奥がザワザワとする感覚が、いまいち自分で理解出来ないでいた。
賑やかな食事風景。森の中で祖母と暮らしていたロザリンには見慣れない。
あるとすれば、近くの村で収穫祭が行われる時くらいだ。
それでも人の少ない小さな村に比べれば、この王都は毎日は、お祭り騒ぎのような賑やかさだろう。
騒がしいのが好きか嫌いか、今まで考えたことは無かった……けれど、この街、この能天気通りに流れる雰囲気は、ロザリンの心をワクワクさせてくれた。
物思いにふけっていると、急にカトレアがエプロンを外して、横の席に腰を下ろした。
「はい、お昼の仕事はおしま~い。店長、休憩はいるわね♪」
「まぁだお客さん残ってるんだけど?」
「片付けだけでしょ。ちょっとお話したら、また戻るわよ」
カトレアの物言いに、やれやれとランドルフは肩を落とす。
仕事に対する責任感が強いカトレアが、こんな行動を取るのが珍しいことくらい、付き合いの短いロザリンにもわかる。
体調を崩していた自分に、気を使われているのかな。と、ロザリンは申し訳なく思う。
「あの、私、大丈夫だから」
「ん~? 何の話かしら。あたしはただ、疲れちゃっただけだって」
そう言ってカトレアは笑う。
やっぱりいい人だ。
率直な押しの強さが心地よくって、心の中だけで感謝を述べる。
横に座ったカトレアとお喋りをしている内に、ランドルフが「はい、お待ちどう」と湯気の立つお皿を目の前に置いた。
真っ赤なパスタから漂うトマトソースの香りが、何とも食欲をそそる。
ロザリンは、ゴクンと喉を鳴らす。
「これで大丈夫かな。消化の良い物の方かよかったら、他のに変えてあげるけど?」
「ううん、ありがとう。いただきます」
右目を輝かせフォークを手に取ると、先端に巻きつけて口に運ぶ。
トマトの甘味と酸味が口の中に広がる。パスタの湯で加減も絶妙で、程よい弾力が美味しさを更に演出していた。
「美味しい」
素直な感想に、ランドルフは照れ臭そうに鼻を掻いた。
小柄な身体に似合わず、健啖な食べっぷりを二人は笑顔で見守る。
暫くは無言で食べ進め、ようやく人心地ついたところで、不意に言いようのない寂しさに襲われた。
どうしたの? と、心配するように顔を覗き込まれ、ポロリと言葉が漏れる。
「あの、アルは?」
「ああ、アイツなら朝、あたしが来た時に出かけてったわよ。行先は言ってなかったけど、遅くなるかもとは言ってた」
「……そう」
無意識に、気落ちしたような声を出してしまう。
その姿に、カトレアとランドルフは顔を見合わせ、怪訝な表情をした。
(ねぇ、どう思うこの反応)
(ノーコメント。そういう勘ぐりをするのは、僕の好みじゃないなぁ)
「……ん?」
何やらこそこそと話している二人に視線を向けると、二人は咳払いと愛想笑いで誤魔化した。
お皿に盛られた、大盛りパスタも完食。
店内の客もそろそろ昼休みが終わるのか、次々と腰を上げて勘定を払い出て行く。
そろそろ昼時も終わり。
夜の業務のために、そろそろ一度店を閉めようかと、ランドルフが準備に取り掛かった時、入口から数人の男達が来店してきた。
「いらっしゃ……あれ?」
スイングドアを開いて現れたのは、かざはな亭の面々が見慣れた人物。
「クランド君じゃない。食事に来たの?」
カトレアが迎え入れると、警備隊のクランドが、少しバツの悪そうな笑顔で会釈をする。
「ああ、いえ、カトレアさん……あの、そうじゃないんです」
営業スマイルで出迎えるカトレアに困り顔で、クランドは歯切れの悪い態度を取る。
カトレアの眉間に皺が寄った。
「なぁに? クランド君らしくないわねぇ。男なんだからシャキッとしなさい!」
「は、はい! 面目ありません!」
一喝されて、クランドは背筋を伸ばした。
そして、真剣な顔立ちをする。
「こちらに、ロザリン殿はお出でになられますか」
「ロザリン? いるけど……警備隊があの娘になんの用があるのよ」
疑問に思ったことを普通に問いかけると、クランドはまた困り顔をして言葉を詰まらせるが、意を決するように厳しい表情を作った。
何やら不穏な空気が店内に流れる。
カトレアはカウンターに座っているロザリンに顔を向けて、無言のまま視線だけで「どうする?」と問いかけてきた。
ランドルフが用意してくれた手拭いで、口元の汚れを取ってから立ち上がり、トコトコとクランドの方へと歩み寄る。
「あの、何の用、でしょうか」
クランドとは既に面識がある。
その時は実直な印象を抱いたが、今日は随分と思い詰めたような表情をしていた。
強張った面持ちで、クランドは言い辛そうに言葉を搾り出す。
「ロザリン殿……貴女には、通り魔事件の容疑がかかっています」
「――なッ!?」
驚きにカトレアの眉が跳ね上がると、見る間に怒りの形相へと変わりクランドへと詰め寄る。
「ちょっと馬鹿なことを言わないでッ!」
「お、落ち着いて下さい! 何も自分達はロザリン殿を犯人と断定したわけでは……」
今にも噛み付きそうな勢いの、カトレアを宥めようとするが、後ろに控えていた鎧の男二人が割って入り、カトレアを突き飛ばすように引き離す。
「――痛ッ!? なにすんの……」
「止めないかッ! 市民に乱暴な真似をするなッ!」
青筋を浮かべたカトレアが怒鳴るより早く、クランドは二人の男の肩を掴み乱暴な行いを咎める。
よく見れば、前に出て来た二人と控えている男達の何名かは、身に着けている鎧が警備隊とは違っていた。
クランド達警備隊の鎧より、男達の装備の方がズッと豪華で高そうな印象を受ける。
何よりも顔つき。
警備隊らしき面々は、悔しさを噛み殺しているような表情をしているが、豪華な装備の男達は憮然としているか、自分達以外の人間を見下すような冷めた目付きをしていた。
クランドの主張に、二人の男は嫌味な笑みを浮かべる。
「お言葉ですが、我々が受けた命令は容疑者の速やかな確保。わざわざ庶民の顔色を窺っていては、任務に支障がきたします。警備隊の方々とは違い、我ら騎士は多忙な日々を送っていますゆえ」
「……しかし」
「文句があるなら、団長閣下に直接進言しては如何かな?」
言葉は丁寧だが、完全にクランドを下に見た口調に、クランドのみならず警備隊の面々も怒りを堪えているのか表情が険しい。
残っている客達も、騎士の傲慢な態度に腹を据えかねている様子。
だが、警備隊は庶民達の集まり。騎士階級の人間に、言い返せるはずも無い。
騎士と警備隊。力関係は明白だった。
「まぁまぁ、皆さん。少し落ち着いてください」
息が詰まる空気の中、割って入ったのはカウンターから姿を現したランドルフだ。
ランドルフは媚びたような笑みを浮かべて、怪訝な視線を向ける騎士の一人に、恭しく頭を下げる。
「騎士様に申し上げるのも憚れますが、何分、店も営業中でして……ここは、穏便に済ませては、頂けないでしょうか?」
「ちょ、ちょっと店長!」
「……カトレア、駄目」
情けない態度にカトレアが、柳眉を吊り上げ詰め寄ろうとするが、ロザリンはエプロンの裾を引っ張ってそれを制止し首を左右に振る。
「なぁんで止めるのよッ!」
行動を止められたことに不満げな顔をするが、ロザリンがもう一度強く首を左右に振ると、唇を尖らせ不満顔をするが、踏み出そうとした足を戻した。
そんな二人の様子に気づかず、騎士とランドルフのやり取りが続く。
「そんなことは我らには関係ない。いいから退け。退かねば、任務妨害と見なして制裁を加えるぞ」
静かな口調で恫喝する。
「いやいやいや! 任務妨害なんてとんでもない! 私どもはただ、平凡な暮らしがしたいだけでして、騎士様のお邪魔をしようなんて想像もしたことありません。えぇ、えぇ、騎士様あっての商売人ですから」
ランドルフは怯えるように、身を竦ませるが、騎士達の前から退く素振りは見えない。
恭順を示す姿勢を取りながらも、一向に指示通り動く様子が無く、見え透いたおべっかばかりを並べたてるランドルフに、騎士達は苛立ちを募らせた。
「おい、いい加減に……」
脅しのつもりか、騎士が腰の剣に手をかける。
すると、ランドルフは目を見開いて大袈裟に驚き、慌てた様子で両腕を振り乱しながら、剣を抜こうとしている騎士の間近まで歩み寄った。
「ちょちょちょ、勘弁して下さいよぉ……!」
「ええい、近寄るなッ、退け!」
オロオロと目の前で狼狽えるランドルフ。
騎士は剣を抜こうにも、目の前でこう動かれると抜きたくても抜けない。
苛立ちが限界に達した騎士は、ついに、
「庶民風情が、邪魔をするなッ!」
肘で押しのけるように、ランドルフの胸板を叩く。
苛立っていたので加減をしたわけではない。しかし、距離も近かったため大した一撃では無かっただろう。
なのに、ランドルフは後ろにバランスを崩し、面白いように吹っ飛んでいった。
「――うわぁ!?」
ランドルフは背中から、まだ食事中の客席に突っ込み、叫び声は破壊されたテーブルと、床にまき散らされた皿の割れる音にかき消される。
食事をしていたガタイの良い大男二人は、一瞬だけ顔を見合わせると、すかさず怒りの形相で同時に立ち上がった。
「――こいつッ!」
「――なにしやがるッ!」
建物が振動するような怒鳴り声と共に、苛立ちをぶつけるよう、座っていた椅子を蹴り飛ばした。
その椅子が偶然、様子を伺っていた他の客に直撃。「この野郎、痛ぇじゃねぇか!」と大男の一人に掴みかかり、また別の客席に倒れ込む。
そしてまた客が激怒。
連鎖するように騒動が広がり、気がつけば店内に残っていた客全員の、大乱闘に発展してしまった。
唖然とする騎士と警備兵達。
料理塗れになったランドルフが、クランドに目配せを送る。
それだけで状況を全てのみ込んだクランドは、素早くロザリンたちの側に寄る。
「二人共、ここは自分達に任せて外に逃げて下さい」
「……えっ?」
「貴様ら! 何をやっているかッ! 警備隊、暴れている連中を速やかに取り押さえろ!」
一瞬、何が起こっているか理解出来ずポカンとしていたが、クランドの声に意図を察して「はい!」と勢いよく返事をすると、大暴れで喧嘩を繰り広げる客達を止める為に一斉に走り出した。
「お、おいコラ待て! そんなくだらないことをしている暇は……!?」
慌てる騎士達を巻き込み、喧嘩の輪は更に広がって、もうどうなっているのかわからない状態。
騎士達の悲痛な悲鳴が、乱闘の音にかき消される中、客や警備隊がそれぞれ、ロザリンとカトレアに向けて、親指を立てたり似合わないウインクをしたりしていた。
胸の中が、ジワッと熱くなるのを感じた。
「みんな……ありがと」
何とも言えない気持ちを言葉にして、カトレアに手を引かれながら店の外へと飛び出す。
スイングドアを跳ね空けて、出て来た二人を待ち構えていたのは、念のために外で待機していた騎士と警備隊達だった。
騒動に戸惑っている様子だが、中に踏み込まないのを見ると、待機を命じられていたのだろう。
しかし、彼らの目的であるロザリンが出て来たとあっては話は別。
「――走り抜けるわよ!」
騎士達が行動を起こす前にカトレアが叫ぶと、手を引いたまま走り出す。
「――待て!」
騎士の一人が怒鳴り、間をすり抜けようとする二人に手を伸ばす。
寸前で膝を落とし、伸ばされた手が頭上をすり抜けた。
一瞬の隙を突いて、騎士と警備隊の隙間に突撃。
同じように捕まえようとする、騎士達の手をかわして一気に走り抜けた。
「逃がすなッ! 魔女に怪我をさせなければ、他には手荒な真似をしてもかまわん!」
待機している騎士のリーダー格らしき男の命令に、迷うことなく返事をしたのは同じ騎士達のみ。
中にはカトレアと顔見知りもいる警備隊の面々は、その命令に驚きと同時に怒りを滲ませていた。
その怒りには、追われる少女達の力になれない、不甲斐なさも交じっているのだろう。
迷わず二人の追う騎士達。
鎧を装備しているとはいえ、相手は日々訓練を積んでいる騎士。単純な脚力勝負で女子である二人に、劣るはずが無いだろう。
「ロザリン、足に自信は?」
「も、森の中なら」
「偶然ね。あたしも、椅子とかテーブルがある所なら得意なんだけッ、どッ!」
前を歩いていた通行人を、器用なステップで避ける。
せめて休日なら、人混みに紛れることも出来たのだろが、残念ながら平日の通りは、全力で走れるほど空いている。
体力はともかく、脚力の差は直ぐに現れた。
二人と騎士達の距離は、みるみる縮まっていき、あと少しで指先がロザリンのマントに触れそうだ。
絶対絶命。
しかし、ここは能天気通りだ。
乾いた音が鳴ると、真後ろまで迫っていた騎士が「ごがぁ!」と声を漏らし倒れ込む。
「――ッ!?」
何事かと思うと、上の方から呑気な声が聞こえた。
「すんませ~ん! 空の桶、落としちまいましたぁ! 大丈夫っすか?」
「……あの人」
声の主は前にアルトと歩いていた時に声を掛けてきた、ペンキ塗りの青年だ。
梯子に昇り、高い位置にある壁の塗り替えをしていたのだろう。
ぶつかったのは、彼が落とした塗料の入っていた空の桶。
しかし、青年が居る位置的に考えて、落としただけでは、桶が騎士の頭に当たるはずは無いのだが。
そんなことを考えていた所為か走る速度が緩み、別の騎士が追いついて来てしまった。
「コイツ、大人しくしろッ!」
「――あッ」
乱暴にマントを掴まれ、無理やり引き寄せられる。
「女の子に乱暴すんなッ!」
すぐさま振り向いたカトレアがそう怒鳴り、右拳を固く握りしめた。
若い騎士の顔面に拳を叩き込むより早く、真横から飛んできた頭と同じ位に大きな南瓜が彼の顔にぶつけられた。
「おっと、ゴメンよ」
軽い口調でそう言ってロザリンにウインクしたのは、八百屋のオバさんだった。
割れた南瓜に塗れて気絶する騎士。
偶然と呼ぶには強力すぎる一撃に、カトレアは苦笑を浮かべ、ロザリンはまた胸の熱い思いが沸き上がるのを感じた。
そして通りの住人達は口々に「手が滑った!」や「危ない!」と叫びながら、花瓶やレンガやぬいぐるみなど、その場にあった物を、無理やりな理由を付けて騎士達に投げつけ、彼らが二人を追い駆けるのを邪魔した。
「き、貴様ら……貴様らぁ! これは、なんのつもりだッ!」
住人達の手が激しく滑りまくるせいで、騎士達は動くことも出来ず怒りに満ちた声を張り上げる。
元々、この任務に協力的でない警備隊は、隊の安全確保を理由に、遠巻きで騎士達を見ながら「良い気味だ」とほくそ笑んでいた。
住人の一人、年上の女性が物を投げつけながら二人に近づく。
「後から騎士の偉い人が来るらしいから、今の内に早く逃げな」
「でも、こんなことしたら、危ないんじゃ」
心配げな表情を、女性は一笑する。
「大丈夫よ。手が滑っただけだし」
「そうそう」
自慢するように、カトレアはふふんと鼻を鳴らした。
「悪いのはアイツらなんだから、あたし達が下手に出る必要は無いわ。能天気通りの心意気は、こういう時にこそ発揮されるモノなのよ」
「カトレア……アンタ、だんだんアルトに似てきたわね」
「そんなわけ無いじゃない」
何故か、満面の笑顔で否定する。
二人を含めて、通りの住人達は気にした様子は無い。
心配するなと言われてもそれは無理。
出会ってから、数日しか立っていない。しかも他の住人に関しては、まともに会話をしたことも無いのに、危険を冒してまで自分を助けてくれる。
いや。彼らの言葉を借りるなら、そんなことは関係なく、困っているから助ける。
もしくは、アルトが助けたから、カトレアが助けたから。
それだけの理由でロザリンを信用し、助けてくれるのだろう。
なんたるお人好し。
都会者は冷たいのではと漠然に先入観を抱いていた自分が、馬鹿みたいじゃないか。
「さぁ、慌てず騒がず落ち着いて逃げるわよ!」
力強い言葉と共に、カトレアに手を引かれて再び走り始める。
すり違いに通りの人々が「ここは任せな」「気を付けてな」と、自分たちに声をかけてくれた。
「……カトレア」
「ん? どうした?」
「私、この街が、好きになりそう」
「ふふん。それは、ご愁傷様ね」
楽しげにそう言って、二人は走る足を速めた。
★☆★☆★☆
ランドルフやクランド、能天気通りの人々の手を借りて、何とか逃げ出すことに成功した。
路地裏を、表通りを、カトレアが知りうる限りの抜け道を利用し、角を何度も何度も右へ左へ巡り巡り、目が回りそうになりながらも、必死で騎士達の追撃を振り切ろうと、東街を疾走する。
もう一時間以上ノンストップで走っているが、まだ二人には余裕がある。
脚力は男子に比べれば落ちるが、流石は日々肉体労働に明け暮れるカトレアと、森育ちのロザリン。体力は男子と比べても遜色ないようだ。
それはカトレアにとっても、意外だったらしい。
「森の引きこもりかと思ったけど、ロザリン普通以上に体力あるじゃない」
「魔女は、意外と体力勝負」
修行のため工房の中に籠る時間は多かったが、同じくらいの時間、森の中で材料探しをしていたので、自然と鍛えられて健脚となっていた。
何とか逃げ切れそうだ。
「ここを抜けたら知り合いの家があるから、そこで休ませて貰って今後のことを考えましょ。……ったく、こんな時にアルトの奴、どこほっつき歩いているのよ」
背後から来る追手の気配は無い。
それがカトレアに余裕を生み出したようで、無駄口を叩きながら走る速度を緩める。
ロザリンもホッと胸を撫で下ろす。
とりあえずはあと一息。
狭い路地を走り抜けて出たのは、大河沿いの大通り。
昼時も終わり人通りが少ないため、通りの見通しは良い。
ロザリンは内心で、開けた場所に出ることに危惧を感じていたが、今は逃げ切ることを優先と、その不安を口にすることはなかった。
だが、直ぐにそれは失敗だったと、後悔することになる。
道行く通行人をかきわけるよう現れた一団に、走る二人は足を止めた。
「しまったぁ……油断しすぎよ、あたし」
表情に後悔を滲ませながらも、ロザリンを自分の後ろに隠すのを忘れない。
行く手を遮ったのは騎士達だ。
騎士達は二人の姿を確認すると、直ぐに捉えようとはせず、戸惑う周囲の人間を追い払いながら、グルリと取り囲んで逃げ道を塞ぐ。
強行突破しようにも騎士達に油断は無い。強引に抜けようとすれば、飛び込んだ瞬間に、力で無理やり押し潰されてしまうだろう。
カトレアが舌打ちを鳴らすと、どこからか人を小馬鹿にしたような笑い声が聞こえた。
悠々とした足取りで、騎士達を割って現れたのは、金髪の青年。
身に着けている鎧の悪趣味さと、腕の腕章を見ればわかる。彼がこの騎士達をまとめている人物だ。
金髪の青年はカトレアに目を止めると、大袈裟な素振りで驚いて見せる。
「おやおや。どこかで見た顔かと思えば、ルーシー伯爵家のご令嬢ではありませんか。いや、元伯爵家のご令嬢と、言った方がよろしいかな」
開口一番、青年は見下すような笑みを浮かべながら、カトレアに露骨な嫌味を飛ばす。
カトレアは嫌味に対して怒りではなく、呆れ顔を返した。
「テンプレ通りで芸の無い嫌味ね。どこの坊ちゃんか忘れちゃったけど、初対面のレディに対してはまず名前くらい名乗りなさい。男の格ってのが下がるわよ」
「没落貴族にそんなことを語られてもな……まぁ、いい。私はランディウス・クロフォード。王国独立騎士団の団長だ」
「クロフォードって、侯爵家じゃない。んなとこのボンボンが、なんだって騎士なんてやってんのよ」
「ちなみに君とは初対面ではないのだがね。挨拶こそしなかったが、パーティでは何度か顔を合わせている」
「んなこと覚えてないわよ。ボンボンの顔なんてどれも似たようなモンなんだから」
貴族らしく、悠然とした語り口調で話すランディウスに、いちいち小声で聞こえないようつっこむ。
恍けてはみたが、本当はカトレアには聞き覚えがあった。
家格で人を見る、古い貴族主義の権化の如き血筋を受け継ぐ、クロフォード家のお坊ちゃま。
正直、今の今で忘れていたし、このまま忘れていたかったが。
王国独立騎士団。
正規軍所属の騎士団では無く、戦後に若い貴族を発起人に結成されたエリート騎士団で、中心となり資金提供しているのが、クロフォード家だ。
エリート騎士団と言えば聞こえは良いが、出自を問わない実力主義の現騎士団のアンチテーゼのようなモノで、保守派の貴族主義が具現化したような一派。
貴族で構成されていることもあり、新参でありながら強い発言力を有している。らしい。
正直、良い噂など欠片も聞いたことは無い。
「まぁいい。そんなことより、今は仕事の話をしよう……そこの魔女を速やかに我々の元へ引き渡したま……」
「いやよ」
言い終わる前に断られ、ランディウスのこめかみがピクッと反応する。
「元貴族だからといって、手荒な真似をしない。とでも思っているのか?」
「女の子相手に武器を振り回して追いかけてくる連中なんかに、負けるはずが無いって言ってんのよお坊ちゃま。騎士の剣ってのはね、アンタみたいなボンボンが、ぶら下げてていいもんじゃないわよ」
罵声にも似た言葉を浴びせられ、ランディウスは不機嫌な表情で、首を左右に振る。
「……こちらの忠告に従えないとは嘆かわしい。ならば、お望み通り実力で任務を遂行させて貰う」
「やってやろうじゃない」
絶体絶命の状況にあって、やる気満々のカトレアは一歩前へ進み出ると、両足を肩幅に開いて拳をポキポキと鳴らす。
妙に喧嘩慣れしている佇まいは、思わずロザリンが引き止めることを忘れてしまうほど。
「ああ、言っておくけれど……」
ニヤッと嫌な笑みを浮かべ、カトレアの眉間に皺が寄る。
「手荒な真似をされるのが、自分一人だけだと勘違いしない方がいいぞ?」
「……アンタ、まさか」
あまりにも相手が小悪党すぎて、次に来るであろう言葉が何だか予想出来る。
カトレアの向ける視線が、心底軽蔑するかのように細まった。
「爵位を剥奪された身で養うには、君の家族は人数が多すぎるだろ? 口減らしだと思えば、そのちっぽけな正義感を満足させるには十分かもしれないな」
「……ボンボンなんて言って悪かったわ。アンタ、最低の屑野郎よ」
「口を慎めよ庶民……捕えろ。抵抗するようなら殺しても構わん。責任を取らせて、家族も後を追わせてやる」
怒りのあまり握り締めた拳が、バキバキと骨を軋ませる。
ランディウス以外の騎士達は、無茶な命令に若干の戸惑いが見て取れた。しかし、誰も意を唱えることなく、命令に従って取り囲んだ輪を徐々に狭めていく。
「……カトレア」
「ありきたりな言葉は、目の前の屑野郎だけで十分よ」
自分が大人しく捕まる。そう言う前に、ピシャリと遮られてしまった。
「大丈夫。お姉ちゃんってのはね、世界で二番目に強いんだから」
「……一番、は?」
「お母さん」
騎士達が手に持った槍の先端を、二人に向ける。
槍を持たない騎士は、腰の剣に手を添えていつでも抜けるように準備を始めていた。
鋭く光る刃に身を怯ませ、カトレアの腰に抱き着いてしまう。
そんな彼女を落ち着かせるよう、頭を一撫でして鋭い視線で騎士達を睨み付けた。
緊張感が高まる。
今にも爆発しそうな張り詰めた空気の中、口火を切ったのは、全く別の方向から聞こえてきた、不機嫌な青年の声だった。
「テメェら邪魔だよ通れねぇだろう、がッ!」
語尾が言い終わるのと同時に、包囲していた騎士二人が、打撃音と共に吹っ飛ばされた。
その場にいる者達、全員に動揺が走る。
何事かと全員の視線を浴びて現れたのは、頭をボリボリと掻きながら、不機嫌そうに欠伸を噛み殺して歩いてくる、貧乏臭い風貌の青年。
「あ~、疲れたなぁ、もう。汗掻いちまったじゃねぇか、クソッ」
涼しい気候なのに、青ことアルトは、面倒臭そうに額から流れる汗を拭く。
彼は剣呑な雰囲気など、どこ吹く風といった足取りで、唖然と固まる騎士達の横を素通りすると、これまた唖然とするロザリンとカトレアを視界に収め、呆れたように首を傾げた。
「なぁにやってんだよ。こんな天下の往来で」
「な、何ってアンタ……!?」
「――アルッ!」
唖然とした顔から、怒りを爆発させようとしたカトレアの言葉を遮って、自分でも驚いてしまうほどの大声を張り上げると、自然と動き出す足に任せて、闖入してきたアルトの胸に飛び込んでいった。
が、それは寸前で顔面を鷲掴みされて止められてしまう。
「――うにゅ!」
「懐いてくんな。暑苦しい」
「むぅ。失礼、だ」
顔を掴んだ手を引き剥がしながら、不満げな声を漏らす。
そんなロザリンから視線を外すと、アルトは驚きに止まっているランディウスら、騎士達を一瞥した。
不遜な態度にランディウスは顔を顰めるも、鼻から息を取り繕うように肩を竦める。
「やれやれ。庶民というのは、どうしても人の足を引っ張らないと済まない人種らしい」
「…………」
露骨な挑発に乗る素振りもなく、アルトは無言で視線だけを向けた。
聞いているのか聞いていないのかわからない態度に、ランディウスは苛立つよう舌打ちを鳴らした。
「無駄だと思うが騎士の礼節として、一応は警告しておこう……我らの目的はそこの魔女だ。怪我をしたくなければ、邪魔をしないで貰おう」
「ああ、勝手にすれば?」
腕組みをしながら頬を掻き、興味なさげに答えた。
意外な返答に、ランディウスの顔に驚きが浮かぶ。が、一番驚いたのは、てっきり助けに来てくれたと思っていたカトレアだ。
「――なッ!? ちょ、アンタ何を言い出すのよッ!」
「ロザリンへの借りは全部返した。後はどうなろうと知ったこっちゃねぇよ」
「……それ、本気で言ってんの?」
押し殺した声。本気の怒りがビリビリと伝わってくるが、アルトは意に返さず「ああ」と頷く。
「俺ぁただ、もう一つの借りを返しに来ただけだ」
そう言ってアルトは緩んでいた表情を引き締め、ランディウスを鋭い視線で射抜いた。
「背中に受けた傷、利子をつけてきっちり返させて貰うぜ……通り魔さんよ」
誰もが言葉を失う。
睨みつける視線に、嘘や冗談の色は全く見えなかった。