第5話 家族ってなんですか?
ルン=シュオンから情報提供を受ける約束を取り付けた翌日。
とりあえず明日まで待てば新たな情報、もしくは一気に、母親の居場所を特定出来るかもしれないのに、何故かアルトとロザリンは、能天気通りを並んでブラブラと歩いていた。
連日の晴れ模様で、ポカポカと温かい陽気のためか、人通りも多い。
しかし、アルトの表情は、そんな賑やかなお昼の雰囲気に、そぐわないだらけ切った顔をしていた。
「あ~……空が青いなぁ」
背中を丸めてだらしなく歩き、アルトは大きな欠伸を一つ。
表情には疲労の色が浮かび、その所為か目の下に薄らとクマが浮かんでる。
昨日は丸一日歩き通りだった上、その前日には背中をばっさり斬られての大量出血。その上、慣れない子守りに体力を大分消耗しているのだから、無理もないだろう。
今日くらいはゆっくりと休養と称して、惰眠を貪りたかったのだが、そんな怠惰な生活は、カトレア様が許してはくれなかった。
何でこんなことになったのか。
話は昨日の夕食後まで遡る。
★☆★☆★☆
どんなに疲れ切っていても、アルトの職業は用心棒。
食事と寝床にありつくには、疲労困憊でもこなさなければならない業務がある。
ちなみにロザリンは、部屋に戻ると早々に力尽きてしまった。
彼女一人のために客室を、無料で貸し出す訳にはいかないので、アルトの部屋で寝泊りしている。
店の端っこ。店内を見回せて周囲から目立たないテーブルに座り、重い瞼を必死で支えるため、グラスに注がれた景気づけの火酒をチビチビと飲んでいると、ついさっき休憩に入ったカトレアが近寄って来て、何の前振りも無く言い放った。
「明日、王都観光に行きましょう」
「ほぉ~。いってらっしゃ……」
「――フンッ!」
言い終わる前に飛んできた右フックを、顔面スレスレで受け止めた。
「あっぶね!?」
「目が覚めたところでもう一度……明日、王都観光に行きましょう」
「お前の暴力外交を喰らったら永眠してしまうわッ!」
毒づいて、拳から離した手で冷や汗を拭う。
「で? 観光? なぁんで今更、んなことしなきゃなんないんだよ」
「あたしやアンタじゃないわよ。ロザリンのため。当然でしょ?」
腰に手を当て、さほど膨らみの無い胸を張る。
「一応の目星はついた上、明日一日暇なんでしょ? せっかく遠方から王都に来たんだから、街の案内くらいしてあげたいじゃない。お店も定休日だから、あたしも時間があるし」
「んなの、母親と再会した後、親娘ですりゃあいいじゃねぇか」
全く乗り気でないアルトに態度に「わかってない」と、怒るより呆れた様子で、人差し指を鼻先に突きつけてきた。
「生き別れの親娘なのよ? 感動の再会なんだし、二人でゆっくりつもる話もあるでしょう。観光なんてしている暇、あるわけないじゃない」
カトレアらしいお節介な考え方に、頬杖をついて向けた横目を細める。
「……ま、言いたいことはわかるけどな」
「でしょ♪」
呟きを肯定と受け止めたようで、嬉しそうな声を出す。
確かにカトレアの意見は尤もだと思うが、アルトが頭に浮かべたのは全く別の事情だ。
カトレアは家族というモノに、幻想を抱き過ぎている節があるので、感動的な展開しか想像していないのだろう。
やむ得ない理由があって、離ればなれになったのなら、カトレアの意見にも素直に肯定できる。
しかし、話を聞く限り母親は、自主的にロザリンの元から離れている。
お腹を痛めて生んだ実子から、だ。
再会に一抹の不安を抱く方が、一般的な考えだろう。
「頭の回るアイツが、その可能性に気づかない訳がないか……」
カトレアに聞こえないほど小声で呟き、頬杖から顔を上げた。
「いいんじゃないか、観光。俺は留守番してるから、遠慮せず二人で行ってきてくれ」
「暇なんだからアンタも来なさいよ。無駄に美味しいお店とか、景色が綺麗な場所に詳しいって、あたし知ってるんだから」
「俺はほとんど利用したことないけどな……まぁ、確かにそういったことに疎いお前にゃ、街のアテンドなんて無理か」
はぁ。大きく息を吐いて、
「わかったよ。案内はしてやるが、面倒はゴメンだ。我がまま言い出したら、俺ぁ速攻で帰るからな」
「はいはいわかってるわよ。でも、男なんだから荷物持ちくらいしなさいよ?」
ウインクを飛ばすカトレアに舌打ちを鳴らし、弾むような足取りで向けた背中を眺め、面倒臭いなぁと火酒を一口含んだ。
★☆★☆★☆
と、いうわけで街に繰り出したのだが、並んで歩いているのはアルトとロザリンの二人だけ。
当のカトレアはというと、どうやら下の弟が熱を出してしまったらしく、看病のために同行できなくなってしまった。
申し訳なさそうに「ご、ごめんね」と、上目遣いに謝ってくるくらいの、乙女度を見せて欲しいのだが、男らしくパンと両手を合わせて、「ごめんね」と普通に言われると、アルトとしても「お、おう」としか返せない。
カトレアらしいと言えば、カトレアらしいが。
観光。と言っても、アルトにとっては歩きなれた能天気通り。
平日ではあるが、昼という時間帯もあって人通りは多い。
途切れることの無い人の往来に、横を歩くロザリンは戸惑っているようで、さっきからアルトの服を掴んで離さない。
そういえば、ロザリンがこの時間帯の能天気通りを歩くのは、初めてだった。
道行く人や店先に立つ人間は、顔見知りばかり。
早速アルトの姿を見つけた金具屋の親父や、目敏くロザリンの存在に気がついた、八百屋のオバさんなどが、威勢の良い声を掛けてくる。
「おうアルト。景気はどうだい?」
「よかった試しがねぇよ。貧乏暇ばかりだ」
「あらアルト。可愛い娘とデートかい? カトレアが泣くわよぉ。いえ、あの娘なら殴りかかっていくかしら」
「例えデートだとしても、泣かれる理由も殴られる謂れもねぇけどな」
「いようアルト。形が悪い果物でよけりゃ、持ってけ」
「サンキュ。連れがいるんで、もう一個くれ」
苦笑いを浮かべる果物屋の店主が、投げて寄越した南方の果実を両手で受け取ると、ロザリンの目の前に差出ながらもう一つに齧りつく。
酸味のある甘さが、眠気の残る身体に染み込むようだ。
受け取った果実に少し戸惑いながらも、同じようにロザリンも齧りついた。
「……美味しい」
「そりゃ、不味いモン売ってたら商売になんねぇからな」
「随分、通りの人に、慕われてるんだね」
「珍獣扱いだよ。剣持ってぶらついてんのが物珍しいのさ」
ロザリンは納得のいかないのか、微妙な顔をしていたが、慕われていると、恥ずかしげもなく肯定できるほど、アルトは肝の据わった人間ではない。
要するに照れ隠しだ。
「アルトは暇人だからね。能天気通りで揉め事が起こる度に、何かと首を突っ込んでいるから、自然と周りから頼られるようになってんのさ」
「うっせ。人の会話に聞き耳立ててんな」
たまたま二人の会話を聞いていた、梯子の上に腰を下ろすペンキ塗りの青年が、慣れた手つきで仕事をしながら、そう会話に茶々を入れてきた。
追い払うように手を振ると、青年は笑いながら仕事へと戻る。
面倒臭そうに肩を竦めると、真横から視線を感じた。
「……何だよ?」
ロザリンは少し間を置いて、小首を傾ける。
「お人好し?」
「そう見えるんなら、目玉を取り換えることをお勧めするな」
阿呆なことを言うなとばかりに、ハッと鼻で笑い飛ばす。
今度は反対側に顔を傾ける。
「変わり者の、方かな?」
「晴れの日に雨傘持ち歩いてる奴に言われなくねぇよ」
天気の良い日に、雨傘というだけでも異様なのに、黒いマントまで羽織っているのだから、目立ってしょうがない。
しかし、周囲から好奇の目があまり向けられないのは、この程度の変人なら、能天気通りの人間は見慣れているからだ。
「これ、便利」
そう言って急に傘を広げた。
ちょうど上から金槌と釘の束が降ってくる。
アルトはギョッと慌てるが、意外に丈夫な傘が落下物を跳ね返し、ロザリンを守ってくれた。
「す、すまねぇ!? 怪我とかしてねぇかっ!?」
屋根の上で作業していた大工の、慌てたような声を聞きながら、傘の下からロザリンが得意げな顔を見せる。
「どやぁ」
「…………」
凄いのか凄くないのか、いまいちわからなくなって、アルトは目頭を指で押さえた。
クイクイと服が引っ張られる。
「それで、どこに連れてって、くれるの?」
言葉は相変わらず抑揚が薄いが、見上げる視線にはどこか熱が籠っている。
思っていた以上に期待しているのだろう。
よく見れば、何を考えているかわからない普段の姿より、そわそわと落ち着かない様相だ。
年相応、子供らしい反応に、アルトは浮かんだ笑みを噛み殺す。
「王都は観光地としても有名だからな。全部見ようと思ったら、時間がいくらあっても足らない。だから、最初はお決まりのド定番から攻めてみようぜ」
そう言うと、ロザリンは期待を膨らませるよう、大きく息を吸い込んで唇に笑みを浮かべて頷いた。
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王都クロスフィール最大の目玉と言えば、やはり王宮だろう。
二つの大河が交差する王都の中央は、大きな湖になっている。
湖の名は『リュシオン』。
中央にある島に建てられているのが、この国を治める王侯貴族が住まう宮殿『水晶宮』だ。
宝石の水晶ではなく、水の結晶と称される宮殿は、美しさにおいて並ぶもの無し。そう大陸で囁かれるほど、高い芸術性を誇っていた。
広い湖に囲まれた島には、東西南北の街から大橋が伸びていて、それ以外で島に渡る手段は無い。
陽光を浴びて輝く湖面の中心部に居を構える水晶宮は、まるでそこだけ別世界のように美しく、そして神秘的だった。
東街の宮殿前広場に来たロザリンは、信じられないと驚きを隠せないでいた。
「…………ッ!」
欄干から身を乗り出し、ロザリンは感動のし過ぎで声も出せない様子で、風景に見入る。
湖面と欄干は距離があるので、どれほど身を乗り出し手を伸ばしても、水に手が届くことは無いが、わかっていても手を伸ばしてしまうほど、水晶宮を囲う湖の澄み切った水は美しかった。
覗き込むと、深い湖の底まではっきりと見え、清純な水の中を魚達が悠々と泳いでいた。
「……綺麗。この水、普通のとは違う、何か特別なモノを感じる」
「水神リューリカの加護、だな」
欄干から身体を離し、ロザリンがこちらに顔を向ける。
「エンフィール王国の、国家神。大河による恒久の繁栄を、王国にもたらした、守護神様、だね」
「大陸には大小様々な国があるが、大国に分類される国家は神と呼ばれる上位存在の守護を得ている。エンフィール王国が大河に寄り添った生活をしながらも、水害の類と無縁なのはその加護があるから……ってのが、この国の教義だな」
詳細は国家機密となっているが、リュシオン湖の湖底には、水神リューリカが眠る寝所が存在するらしい。
そこを中心に二つの大河と分岐する水路を伝って、国の全土に加護を行き渡らせている。
「私の故郷の森も、その加護のおかげ、だね」
「それだけじゃないさ。汚水とかの生活排水の浄化、水自体が加護を得ているから、魔物連中を近寄らせない結界のような役割を持ってる。もし、その加護が無くなっちまったら、この国は一月たらずで滅亡しちまうだろうな」
「それは、言い過ぎだと、思うけど」
ロザリンは困り顔。
こういう冗談を言った時、苦笑では無く困り顔を見せるところが、ロザリンらしいと不意に思ってしまう。
出会ってまだ三日目だというのに、馴染みすぎだろう。
代わりにアルトが苦笑を漏らした。
だからだろうか。何となくロザリンが、昨日までと少し違うと感じてしまうのは。
暫し無言で、湖面にそびえ立つ水晶宮を眺める。
今日は風が少ないから普段より暖かいが、水場だけにたまに吹き抜ける風が余計に肌寒く感じる。
ロザリンが肩を震わせるのを見て、アルトは公園に視線を巡らせた。
平日だが昼時なので公園内の人の出入りはまばらだ。昼をここで食べる人間もいるので、平日でもアレがいるはずだと。そう思って顔をグルリと回すと、目当てのアレが目に留まり、寄り掛かっていた欄干を肘で押して小走りに駆けだす。
「……アル?」
「ちょっと待ってろ」
向かった先は、小さな屋台。
人の良さそうな親父と二、三会話を交わして銅貨を渡して、親父から木製のコップを二つと紙袋を受け取ると、また小走りでロザリンの元に戻る。
「ほれ」
差し出したのは白い湯気を立てたホットミルクだ。
アルトの分はミルクでは無く、ホットワイン。時期外れなのは否めないが、屋台の親父の趣味でこの時期でも楽しめる。昼食として買ったチキンサンドと合わせたら、食事としたら上等過ぎるだろう。
「美味しい。甘い」
シロップの入った甘いホットミルクに、ロザリンはホッと息を吐く。
「これも食え。景色込みならこんな軽食でも、十分ごちそうになるだろ?」
「うん。でも、アル、お金、無いんじゃないの?」
「ああ、これ。カトレアから借りた」
「それは、凄く、情けないね」
チキンサンドを頬張る、ロザリンの顔は悲しげだった。
本当はどうせ金持ってないだろうと、カトレアに無理やり持たされたモノなのだが、借りたことには変わりはない。
後で少ない用心棒代から天引きされると思うと、なんだかやるせない気分になる。
金の貸し借りとは、世知辛いモノだ。
いや、金の貸し借りなど関係なく、世の中は世知辛いモノだ。
暫く欄干に寄り掛かり、時折、通りかかる遊覧船を眺めながら、チキンサンドを頬張っていると、頃合いを見計らってアルトが問いかける。
「……お前、何かあったか?」
ピクッと、チキンサンドを食べる手が止まる。
構わず、アルトは言葉を続けた。
「もしかして嫌になったか? 母親と会うの」
視線を落としたまま、ロザリンは首を左右に振る。
「そうじゃ、ない。そんなこと、ない。全然、アルの勘違い」
「それにしちゃ、浮かない顔じゃないか。運が良けりゃ、明日には母親に会えるかもってのに、嬉しいとか不安以前に、心ここにあらずって感じだぜ」
「勘違い。それに、私が、そんなわかりやすい変化、するはずがないもん」
ホットミルクを啜る。その表情は言う通り、普段と代わり映えがしない。
アルトは残ったチキンサンドを、全て口の中に押し込む。
「そりゃ、俺達は長い付き合いってわけでもねぇし、勘違いって言われたらそれまでだ。でもな……」
ゴクンと喉を鳴らして、視線をロザリンに向けた。
「ガキの変化くらい気づくのが、能天気通り住人の心意気ってヤツなんだよ」
「…………」
赤い瞳が、大きく見開かれた。
「カトレアも、同じこと、言ってた」
「俺もその場にいたしな。それでどうした。母親に関して、何か思うことでも出来たのか?」
優しく問いかけるのではなく、あくまでぶっきら棒な言葉を投げかける。
ロザリンは黙り込む。
一分、二分、三分。
遠くの話し声と湖面を流れる水の音。そしてホットワインを啜る音だけが、公園に響く。
やがて。
「……アルは、元騎士、なんだよね」
話を逸らしたわけでは無い。話すことを迷っていると言うより、口に出すことに戸惑いを覚えているような、そんな風に感じられた。
短く「まぁな」と答える。
「なんで、辞めちゃったの?」
ホットワインを口に含む。当然の疑問だ。
騎士はこの国の花形で、誰もが憧れを抱く存在。
相応の実力さえ持ち合わせれば、庶民でも高い地位につける完全実力主義の世界だ。それを自ら手放すなんて、普通の人間からすれば、とても信じ難い行為だろう。
「誰から聞いた」
「店長」
舌打ちを鳴らす。
「あの、お喋りめ……」
「それに、その剣の装飾の紋章。王国騎士の、証。本で見たこと、ある」
視線が腰のベルトに繋がれている、アルトのだらしない身なりには不釣り合いな、美しい装飾のある剣に落とされた。
ため息を吐く。
「別に大した理由はねぇよ。元々、俺にゃ合わなかったのさ、騎士なんつー真っ当な生き方は」
ホットワインを啜りながら、そううそぶく。
照れ隠しや誤魔化しではなく本心だ。
思想や信念や愛国、もっと単純な誰かを守るための剣になる。
そういった騎士として当然の意識が、人より欠落しているのだ。
それを自覚しながら未だ野良犬騎士を名乗り、腰の剣を捨てられないでいるのは、単なる未練以外の何物でもないだろう。
見上げるロザリンは、納得できないのか眉を潜める。
「でも、アルは、いい人、だよ。見ず知らずの私を、助けてくれて、今もこうやって、気遣ってくれる」
「最初に俺を助けたのはお前だろう」
苦笑を漏らす。
「それに、お前が俺に助けられてると思ってんなら、そりゃきっと勘違い、錯覚の類だ。俺は受けた借りを返しているだけ。見ず知らずの人間ならともかく、命の恩人くらい気遣えるさ。俺は大人なんでね」
「アルは、素直じゃない」
「それも勘違いだな」
肩を竦めて、ホットワインを飲み干した。
ロザリンは不満げな顔をしていたが、それ以上言葉を続けなかった代わりに、視線を湖に向けたまま独り言のように呟く。
「……常世の、秘薬」
聞き覚えのある単語。アルトは特に聞き返すことなく、次の言葉を待った。
「本来の用途は、解呪。経口投与で、かけられた呪いを打ち消す、特別な薬」
「飲んだだけでか? そりゃ凄い」
人によっては、胡散臭く思えるかもしれないが、呪いは割とポピュラーな魔術だ。
「道具を揃えれば子供だってかけられるし、教会とかで解呪するのも安くはねぇからな」
「うん。あまり強い呪いだと、対処できないけど……それと、この秘薬には、大きな問題があるの」
ロザリンは視線を落とした。
「……毒」
「毒?」
思わぬ単語に聞き返すと、ロザリンは神妙な表情で頷いた。
「口にする分には問題は、無い。けど、人間の血液が混じると、猛毒に変化するの」
「おいおい。飲み薬にしちゃ物騒すぎるじゃないか」
「魔女や魔術師の薬は、錬金技師や、普通の薬剤師が作る薬と、意味合いが、違うの。薬剤の処方自体が、魔術の術式になってて、過程によっては、全くの別物になる場合がある。それに、人間の血は、魔術的な意味合いも深いから……」
「なるほど、な」
ロザリンが何を言いたいのか、見えてきた気がする。
「俺が通り魔に喰らった毒は、その常世の秘薬なんだな?」
「…………」
問いかけに、ロザリンは悲しげな表情で、力なく頷いた。
浮かない顔をしていた理由は、恐らくそのことに関係しているのだろう。
探し求めていた母親は、実は通り魔なのかもしれない。
聡明なロザリンが導き出した可能性。決めつけるには状況証拠しか無いが、それでも馬鹿なことと笑い飛ばすには重過ぎる。
湖を見つめるロザリンの横顔は悲しげだが、その深い感情までは読み取れなかった。
「母親が通り魔かもしれない。お前は、そう考えているのか?」
だが、ロザリンは顔を左右に振った。
「その可能性は、あの夜、アルを助けた時に、考えていた」
「だったらなんで、お前はそんな顔をしてるんだ」
ホットミルクの注がれた木製のカップを、ギュッと両手で握りしめる。
「何も、感じないの」
小さな言葉は、少しだけ震えていた。
「お母さんが、通り魔かもしれない。人を、傷つけているかも、しれない。そう考えた時、私は何も思わなかった、感じなかった」
「……そりゃ、顔も見たことない、生き別れの母親だからじゃないのか?」
「それでも、親と子供なら、何か感じ取れるモノがあるって、思ってた。怒りでも、悲しみでも、憎しみだってかまわない。私は、欲しかったの。お母さんとの心の繋がりが。でも……ああ、そっか。常世の秘薬のことを、教えて貰って、最初に頭に浮かんだ言葉が、それだった」
アルトは何も言えず、辛そうなロザリンの横顔を見つめた。
「それって、さ。お母さんも、同じなのかな? 親子の絆なんて錯覚で、そんなモノ、最初から無かったの、かな……私のことなんか、どうでもいい。興味無いって、思われているのかな?」
見上げるロザリンの顔が、痛々しいくらいに歪む。
「ねぇ、教えてよアル。私にとって、お母さんって何なの? お母さんにとって、私って何なの? 親子って、家族って、そういうモノなの?」
「……そんなの」
ロザリンの頭に乗せようとした手を途中で止め、苦虫を噛み潰したような顔をしながら、その手で思い切り自分の頭を掻いた。
「俺だってわからんねぇよ。母親とか家族なんて、覚えてねぇんだから」
「……えっ」
「家族馬鹿のカトレアだったら、絆について長々とご高説頂けるんだろうけど、あいにく俺はその手の説教に不向きなんだよ」
バツが悪そうに視線を湖に向ける。
「俺に答えは出せない。お前が母親に感じてそう思ったのなら、きっとそれが真実なんだろうさ……でもな」
欄干に寄り掛かり、視線をロザリンに戻した。
「全部の答えを出す必要は、今は無いんじゃねぇか?」
「……アル?」
「結局のところ、母親の気持ちは母親にしかわからないんだ。だったら、それを聞いてからでも遅くはねぇだろ」
「で、でも、それで拒絶されたら……」
「怖けりゃ聞かなきゃいい」
事も無げに言うと、ロザリンは目を丸くした。
「別に無理して答えを知る必要もねぇだろうさ。嫌なことに耳を塞いで生きたって、明日は変わらずやってくるんだ」
「それって、問題を棚上げしてるだけじゃ」
「そうやって折り合いをつけていくのも、生きるのに必要なんだよ」
「大人って、汚い」
唇に微笑を浮かべてそう言うと、ロザリンは両手で持った木製のコップに口をつけると、頭を後ろに反らし喉を鳴らして、一気に飲むにはまだ熱いホットミルクを飲み干した。
若干、涙目になりながら、唇についた白い泡を袖口で拭い、持ったコップをアルトに突き出した。
「うん。じゃあ、明日のことは、明日考える」
「だな」
頷いて、アルトはロザリンが持っている、空のコップを受け取った。
屋台のコップは使い回し。飲み終わったら、店主の親父に返すのがルールだ。
「これ返したら、大河沿いの通りをブラブラ歩いてみっか」
本音を言えばこのまま帰りたいところだが、せめて日が暮れるまでロザリンを連れて歩かないと、後でカトレアから、何を言われるかわかったモノじゃない。
その場で待っているように言って、小走りに屋台の方へと向かう。
「ほい、ご馳走さん」
「はいはい、毎度ありがとね」
親父がにこやかな笑顔で、コップを受け取った瞬間、手の平に何かを握らされた。
表情を変えずに親父を見ると、親父は素知らぬ顔で受け取ったコップを片付けている。
「…………」
触った感覚から、握らされたのは紙切れ。
何も言わず屋台から離れ、ロザリンの元へと戻る途中、周囲に気取られないようさり気なく受け取った紙切れを確認する。
折り畳まれた紙切れを片手で器用に開くと、中には簡単な一文が添えられていた。
『小さな魔女殿は狙われている。留意するべし』
「…………」
無言で紙切れを手の平で握り潰すと、そのままポケットの中に突っ込んだ。
思っていたより早かったかもしれない。いや、ルン=シュオンにロザリンの正体を明かした時点で、こうなることは分かり切っていた。
それはルンが情報を漏らしたかどうかでは無く、漏れたことを想定しておくべきであった。
そう言うことだ。
「さて、どうしたモンかな」
傘の先端で地面を弄りながら待っているロザリン。
彼女の方へゆっくりと歩み寄りつつ、アルトはため息交じりに呟く。
これこそ棚上げしておきたい問題だが、そうは言っていられない。
大人は狡くて汚い生き物だが、保護者には責任が付きまとう。
それに、受けた借りは、金銭以外はなるべく返す。それがアルトの信条だ。
鬼が出るか蛇が出るか。
内心で強い決意を固めつつ、遅いと非難の視線を向けるロザリンに、片手を上げて挨拶した。