第47話 天の牢獄
目を覚ますと、まず最初に感じたのは全身の痛み、そして息苦しさ。
視界は酷く暗く、鼻孔を突く生臭さに、アルトは吐き気を催した。
頭がガンガンと鳴り響くように痛む。
次第に意識が鮮明になる同時に、自分の身体は寝そべっているのでは無く、椅子の上に座らされ、腕を後ろで拘束されていたことがわかる。
身じろぎすると、全身に激痛が走った。
「――ふぐっ!?」
その痛みで思い出す。気絶する直前、アルトは全身をボウガンの矢で貫かれていたのだ。
激痛に顔を顰めながら、自分の身体を見ると、何時ものコートは羽織っておらず、変わりに薄汚く黄ばんだ包帯が乱暴に、あちこちに巻かれていた。
「ふぁんふぁほぉれ」
呟いた言葉が妙に籠る。
「ふぁ?」
口を開け閉めして確認してみると、口元にまで包帯がグルグル巻きにされていた。
手当をしてくれたようだが、こんな不衛生な包帯で傷口を覆われて、逆に怪我が悪化しないか心配になる。
改めて周囲を見回すと、ここは壁や床が石造りで作られた部屋。
どうやら地下室のようで窓などは無く、壁にかけられた小さな蝋燭が、唯一の光源として淡く部屋を照らしている。
耳を澄ませば、ネズミの鳴き声と地面を走り回る音が聞こえた。
床には汚水なのか何なのか、どす黒い色の水たまり。
これが室内の異様な、生臭さの原因なのだろう。
壁には人を拘束する為の、太い鎖が。
他にも拷問器具や拘束具がその辺に、無造作に転がっていた。
何とも不気味な部屋だ。
とりあえず、後ろの拘束されている腕を何とかしようと動かすが、ジャリジャリと音を立てるだけでビクともしない。
拘束しているのは縄では無く、鉄板のような拘束具らしく、力づくで引き千切るのは無理っぽい。
どうしたモノか。
気絶してから今まで、どれくらいの時間が過ぎているかわからないし、ここが何処なのかも不明。
何か情報が欲しいのだが、怪我している上に拘束されている状態では、出来る事は少ないだろう。
夜までに帰ると言った約束を破ると、ロザリンはまた怒るだろうか?
そんなことを考えて、アルトは湿っぽく嘆息した。
「……ん?」
不意に足音が聞こえてきて、アルトは顔を正面に向ける。
薄暗かったので良く見えなかったが、アルトが座る椅子の真正面には、頑丈そうな分厚い鉄で作られた扉があった。
足音は扉の前で止まり、鍵を外す音が聞こえて、錆びついた音を軋ませ扉がゆっくりと開かれた。
室内に足を踏み入れた人物に、アルトは表情を険しくする。
髭面の巨漢。天楼の王シドだ。
「よう、兄ちゃん。怪我の具合はどうだい?」
「ふぇふぇえか、ふぃど」
「……あ~、何言ってっかわかんねぇな」
困り顔で頭を掻きながら、室内に足を踏み入れたシドは、近づいてきて指先を伸ばし、アルトの口元を覆っている包帯を下した。
「ぷはぁっ……ゲホッゲホ!」
新鮮な空気、とは言い難い、生臭い淀んだ空気を思い切り吸い込んでしまい、アルトは苦しげに咳き込んだ。
「おいおい、大丈夫かい兄ちゃん」
「大丈夫じゃねぇよ、糞っ。何だよこの臭い! ごみ溜めだってもう少しマシな匂いがすんぞ!」
「ああ、そりゃ血やら肉の匂いだな。ここは牢屋兼拷問部屋だからよ」
「……そりゃ、ゾッとしねぇ話だな」
深く追求すると嫌な気分になりそうなので、それ以上は聞かないことにした。
そして改めて、目の前に立つ男、シドを睨み付ける。
「テメェがあの屑野郎と狂犬女の飼い主か……少しは仁義ってヤツを弁えてるかと思ったが、大した狸じゃねぇか」
「否定はしねぇさ。だがよ、儂としてもボルドの件に兄ちゃんが絡むたぁ、予想外だったモンでよ。ま、許してくれや」
「……んな一言で、許されると思ってんじゃねぇだろうな?」
剣呑な気配を発して、突き刺すような視線をシドに向ける。
あの事件でボルドが残した爪痕は深く、決して許せるモノでは無い。
その件にシドや天楼が絡んでいるというのなら、それ相応の覚悟を決めなければならないだろう。
だが、天楼の王たるシドは、全て承知で、一切引くようなマネはしなかった。
部屋の隅に置いてあった椅子を引き寄せ、正面に腰を下すと、迷いなく断言する。
「思っておらんよ。思っておらんが、だからどうした? 儂は儂の目的を果たす為に、外道と言われようが畜生と罵られようが、構わず手を汚してやらぁよ。文句があるなら、喧嘩でも戦争でも吹っ掛けてくればいじゃねぇか」
シドは普段の明るい様相を消し去り、ドスの利いた表情でアルトを睨み返す。
「この世界は弱肉強食よ。弱い奴、関係無いとすっ呆ける奴は、食い殺されるしかねぇ。そして後で文句だけを一端に叩きやがる雑魚も、残さず食い尽くしてやるよ。潰すか潰されるか、儂の前にはその二択しか存在しねぇのさ」
暴論。人の本能を笠に着た、暴君の理論だ。
およそ、一般の社会生活では通用しない、北街のルールをさも世界の理の如く語る。
それが気に喰わず、アルトは不機嫌に舌打ちを鳴らした。
「訳がわからねぇよ。糞爺がッ」
「わからんか? んなわけがあるまい。オメェも戦場で血に塗れた身。儂の物言いが狂人の戯言かどうか、本当は理解出来てるだろう?」
「……随分と、ボケが進行してきてるじゃねぇか。歳は取りたくないねぇ」
皮肉交じりに笑って見せる。
だが、シドは諦めた様子は無く、ジッとアルトを見つめた。
「おうアルト。オメェ、やっぱり俺のところに来い」
「人を拉致監禁してといて、言うべき台詞じゃねぇな」
「悪いな。儂は欲しいと思ったモンは、是が日にでも欲しくなっちまうんだよ。どうやら儂は、本気でオメェが欲しいらしい」
真剣に言われて、アルトは思い切り顔を顰める。
「俺ぁそっちの趣味はねぇぞ」
「茶化すな。儂は本気で言ってんだ」
軽い冗談も、一言で切り捨てられてしまう。
アルトも表情を引き締め、ギロッとシドを睨み返す。
「何で俺なんだよ。爺んところにゃ、あのカリスマ屑野郎がいるじゃねぇか。人の上に立つにゃ、あの手合いが一番おっかねぇが、その分アンタの期待以上に活躍するんじゃねぇのか」
「確かにボルドは人心を掌握する能力に長けている。だがよ、儂が欲しいのはボルドやハイドのような、生まれ持ってのカリスマじゃねぇんだ」
そう言って、シドはアルトを指差す。
「オメェははっきし言って、どうしようもねぇ駄目人間だ。金も無く、地位も無く、向上心も野心も、カリスマ性とは真逆の人間性しか持ち合わしちゃいねぇ」
「喧嘩売りたいんなら、腕の拘束を解いてくれねぇか?」
「だが!」
額に青筋を浮かべるアルトの言葉を遮るよう、シドは室内に反響するほどの大声を張り上げた。
「オメェには不思議な魅力がある。人を引き付けるモンが、確かにオメェさんにはありやがるんだよ」
シドの眼差しに熱が籠る。
「オメェの生き様は人を魅了する。だが、ボルドやハイドと違って、自分に正直すぎる性根は敵を大勢作っちまう。だがよ、それと同じくらい、テメェの為に命張ってくれる仲間が、オメェさんの側にはいる筈だ」
視線が細くなる。
目の前に幻視した憧憬を慈しむような表情で、シドはアルトに言った。
「儂はよ、そんな男にこそ、儂の後を継いで欲しいんだよ」
「……この俺に、天楼を仕切れってか」
「違う。この国の王になれ。儂は、そう言ってんのさ」
重く、思いを乗せるよう、シドはその一言に心情を乗せた。
予想外の言葉に、アルトは反応に困ってしまう。
向けられる真剣な眼差しから、冗談や与太話の類では無いのはわかる。
だからといって、突拍子も無い言葉なのは変わらない。
笑うべきか、怒るべきか、呆れるべきか。
散々迷った挙句、アルトは普通に返答することにした。
「面倒クセェ。んなモン、金積まれたってヤダね。それに、本気で言ってんなら、テメェの目は節穴だよ」
「……そうかい」
残念そうに呟き、シドは椅子から腰を上げた。
扉の向こうから、軽快な足音が聞こえてきたかと思うと、鉄製の扉が思い切り外から蹴破られた。
現れたのはミュウだ。
ミュウはアルトが起きている確認すると、嬉しそうにニヤリと笑う。
「ヒャハ。起きてたぁ……さぁ、遊ばせて貰うわ、よ?」
嬉々として両拳の骨を鳴らすミュウは、すぐ側にいるシドの姿に気がつく。
途端に、眉間に皺を寄せ不機嫌そうな顔をする。
「なに? 私のオモチャに何か用? それとも、また私をここに閉じ込めておく算段? お生憎様。今、とっても楽しいところなの……邪魔すれば殺すわ」
ギロリと、殺気を込めて睨み付ける。
「例えアンタが、私の父親でもね」
「――マジで!? 似てねぇ!?」
思わずアルトは叫び、交互に二人の顔を見比べる。
武骨なシドに、見た目は美少女のミュウ。
母親の要素がどう組み合わされば、シドの濃く男臭い容姿がマイルドに薄まるのだろうか?
人体に不思議に、アルトは立場を忘れて感心してしまう。
シドは顎髭を摩りながら、何やら感慨深い表情のアルトにジト目を向けた。
「なぁんか、失敬なことを考えてやがるなぁ? ……まぁいい。ミュウ、遊ぶのは構わねぇが、壊さんようにな」
それだけ言い残し、出て行こうとするシドの背中を、「おい」と真剣な口調で呼び止める。
シドは振り向かず、足だけを止めた。
「テメェ、何をしやがるつもりだ」
「……儂はよ、取り戻したいだけだ。儂の愛した北街を、馬鹿共に奪われた昨日を。糞爺の下らない望郷と言われても、儂にゃ譲れねぇ、忘れられねぇモンが胸を燻ってんだよ。この、老いさらばえた魂にもよ」
トントンと、自分の胸を叩く。
最後に軽く手を上げると、シドは出て行き扉を閉める直前、チラッとアルトの方を向く。
「ああ、約束の金は貰っておいたぞ。これであの娘は自由だ、よかったな」
「地獄に堕ちろ糞爺」
悪態をつくと、含み笑いを漏らしながら、鉄製の扉は音を立てて閉ざされた。
室内に二人きり残る。
嫌な予感と共に、ピリピリとした殺気が室内に充満し始めた。
ようやく邪魔者がいなくなったことに、ミュウはニヤリと笑うと、ワザと足音を大きく立ててアルトに近寄る。
問答無用で、ミュウは右手を振りアルトの頬を張った。
「――痛ッ!?」
痺れるような痛みに顔を顰めると、振り抜いた右手の甲で、今度は反対側の頬を殴りつける。
「――ッッッ!?」
唇を固く結び、恍惚を噛み締めるよう、ミュウはブルッと身体を震わせた。
一方のアルトは口の中を切ったらしく、広がる鉄の味に不快感を覚えながら、血の混じる唾液をぺっと床に吐き捨てた。
「テメェ、いきなり何しやがるッ」
「ビンタ」
「んなこと、見りゃわかるわッ!」
全力でツッコムと、ミュウは面倒臭そうに顔を顰めた。
「うっざいわねぇ。いいから黙って殴らせなさいよ。何でか知らないけど、アンタを殴るのって、酷く気持ちいいの」
うっとりと、嗜虐心に満ちた笑みを浮かべる。
うっと息を飲み、椅子ごとズズッと後ろに下がった。
「冗談じゃねぇ。俺ぁ女に殴られて悦ぶ趣味はねぇんだ」
「アンタの趣味なんか関係無いわ。私が痛めつけて楽しいか楽しく無いかだもの。楽しければいたぶって殺す。つまらなければ、適当に殺す。それだけよ」
「どっちも結果が同じじゃねぇかッ!? 物騒すぎるだろテメェ。人の命ってのはな、ダニやノミとは違うんだぞ?」
「当然じゃない。人を殺すから楽しいのよ」
そう言って、ミュウはケタケタと笑う。
想像以上に、頭のネジがぶっ飛んでいる。
これは本気でヤバイかもしれないと、頭の中でどう切り抜けるか思考するが、思いつくまで待ってくれる筈も無く、ミュウは拳を硬く握ると大きく振り上げた。
「とりあえず殴るわ。もう、我慢しきれないからっ」
「ま、待て待て待て! 何でいきなり、俺を殴る話になってんだよ意味わかんねぇぞ!」
「ハァ!? そんなの、アンタを殴り殺す為に決まってんでしょ。その為にアンタをすぐに殺したがってた、ボルドの奴を無理やり黙らせた上、傷口に包帯まで巻いてやったんだ。感謝しなさい! そして、早く殴らせなさいよぉ!」
興奮気味に叫びながらミュウは拳を、顔面目掛けて振り落す。
それを自由の利く右足を上げ、足の裏で受け止めた。
拳から来る出される衝撃が、矢傷だらけの身体に響き、アルトは苦悶の表情を浮かべた。
「こっ、この汚ねぇ包帯は、テメェの仕業かこの野郎! 俺ぁ一瞬で傷が治っちまうような、非常識な身体してねぇんだ。破傷風になったら大変だろうがッ!」
「ハンッ、知るかそんなこと!」
拳と足裏を合わせたまま、二人はギリギリと力比べをする。
「そもそも、何で俺のことを助けた? 殺すつもりなら、あの場でも良かっただろ。正々堂々と勝負をつけたいってんなら、この拘束を解きやがれ!」
「勘違いしないでよ。私は強い奴と戦うのが好きなんじゃなくて、強い奴をいたぶるのが好きなのよ!」
「正真正銘のドSかよッ」
左の足でミュウの足元を払うと、油断していたのか、倒れはしないが彼女は軽くバランスを崩す。
その隙にアルトは体重を後ろに傾け、背もたれごと椅子を後ろに倒し、グルンと一回転して床に着地する。
「――このッ!」
「ほら、受け取れッ!」
目の前で倒れかけている椅子を蹴飛ばし、睨みつけて来るミュウにぶつけた。
勢いはあるが、所詮は木製の椅子。
ぶつかった所で大したダメージは無いが、僅かに隙を作り出し、その間にアルトは肩の関節を外して、後ろに拘束されている腕を上に回して前に持ってくると、外した関節を元に戻した。
「随分と、器用なマネが出来るのね」
目を細め、受け止めた椅子を、両手で挟み粉々に粉砕する。
「こういう小技は得意なんでね」
アルトは強がるが、呼吸は妙に荒かった。
見れば傷口が開いて来たらしく、巻かれた包帯の所々に赤い血が滲み始めていた。
座っている時は感じなかったが、少し動いただけで息苦しくなり、傷以外の痛みが全身を襲う。
恐らくは包帯を巻いただけで、消毒や傷薬などを施していないのだろう。
大量の血を流し体力が低下している所に、こんな不衛生な場所へ、こんな状態で放り込まれたのだ。体調を崩しても不思議では無い。
様子の変化に気がついたミュウは、訝しげな顔をする。
「ちょっと。私がつけた傷以外で苦しまれると、シラケるんだけど?」
「勝手なことほざいてんじゃねぇよ馬鹿女。腹減ってフラフラするだけだ……ぶっ殺してやるから、さっさとかかってこいよ」
「ハン! 言うじゃない」
「――ッ!」
ミュウが一足で間合いに踏み込む。
視線は動きを捉えるが、やはり体調不良の影響か、身体が反応しきれない。
放たれた蹴りが腹部に直撃する。
「――ぐふっ!?」
突き抜ける衝撃が背中まで達し、吹き飛ばされると、そのまま壁に激突する。
跳ね返り床へ落ちて手を付くが、力が上手く入らずガクッと崩れた。
今の一撃で、余計に傷が開いたらしい。
強がった手前、もう少しマシな動きを見せたいが、この怪我と体調の悪さでは、いかんともし難い。
「ヒャハ! 無様無様、恰好悪いわねぇ!」
近づいてきたミュウが、遠慮なくアルトを踏みつける。
硬い靴底が肉に食い込み、激痛が走る。
「――ギッ!? グッッッ……!」
「……違うわね」
苦痛から湧き出る悲鳴を押し殺すと、ミュウは何故か首を傾げた。
ミュウは呟くと踏みつける足を止め、座り込むとアルトの髪の毛を掴み、強引に顔を自分の方へと向けた。
「楽しいけど何か昼間と違うわ。ねぇ、何で?」
「……知るか、よっ!」
「――ッ!?」
問いかける為に近づけてきたミュウの顔面に、頭突きをかます。
不意の一撃に驚いたミュウは、表情を怒りに染めるかと思いきや、残念そうな眼差しを向けてきた。
流れ出る一筋の鼻血を、親指で拭う。
「あーっ。失敗したわね。他人がつけた傷で弱ってるアンタをいためつけても、楽しさが半減してるわ……その上、調子が悪くて反応が鈍いんじゃ、拷問にも満足に楽しめないじゃない。下がるわ」
「うるせぇよ。テメェが、下手くそな包帯の巻き方するからじゃねぇか」
言い返すと、ミュウは不機嫌そうな表情で舌打ちを鳴らし、掴んでいた髪の毛を離した。
立ち上がると、アルトを見下ろす。
「少し待ってな。逃げようとしたら殺すから」
そう言って、ミュウは小走りに部屋を出て行った。
残されたアルトは、重い身体を引き起こし、壁へと寄りかかる。
誰もいない今こそ脱出のチャンスだが、半死半生の身で天楼を突っ切るのは無謀だろう。
とりあえず、直ぐに殺される危険は去ったので、少し様子を見ることにする。
単純に、行動を起こせるだけの、体力が無いだけだが。
座っていれば、体調の悪さも差ほどでは無いが、ジクジクと痛む傷は何とも言い難い不快感だ。
ボンヤリと浮かぶのは、ロザリンや能天気通りの連中。
「……腹減ったなぁ。かざはな亭の飯が恋しくなるぜ」
引き籠っているロザリンはちゃんと食べているのか、自然と心配していまい、苦笑を漏らす。
これじゃ、まるで娘に嫌われた、父親のようでは無いかと。
暫くあれやこれや考えていると、足音が聞こえてきて、扉が勢いよく開かれた。
「ほら、さっさと来なさいよ」
「あ、あの……何の御用で、しょう」
ミュウは腕を引っ張り、一人の少女を暗く不衛生な室内に引きずり込む。
半ば無理やりに、しかもこんな場所に連れてこられて、少女の表情は恐怖と戸惑いで青ざめていた。
その少女に、アルトは見覚えがある。
「お前……エレンか?」
「――えっ!? あ、アルト、さん!?」
ミュウに連れてこられた少女は、ウェインのガールフレンドであるエレンだ。
エレンもアルトのことを覚えていたようで、驚きの表情を浮かべた。
一人事情を知らないミュウは、首を傾げるが気にしないことにしたのか、エレンの背中を小突くように前へ押し出す。
彼女の性格から考えて、目の前を偶然通ったエレンを、無理やり捕まえてきたのだろう。
「おら。コイツの怪我、何とかしなさいよ」
「け、怪我、ですか?」
戸惑いながらも、アルトがいることで少し安堵したのか、恐る恐る歩を進め近づく。
すぐ側に座り込み、アルトの容体を見たエレンが、その幼い顔立ちを歪めた。
「酷い傷。すぐにでも、手当しないと」
「ほら」
ドスンと、ミュウは手に持っていたカバンを投げつける。
「適当に薬とか持ってきたから、使いなさいよ」
「は、はい」
無遠慮に殺気を撒き散らすミュウに怯えながら、エレンは鞄を開いた。
エレンの眉間に、皺が寄る。
「……どうした?」
「い、いえ。渡された中身が、その、専門的すぎて私にはちょっと……」
重い身体を引き起こし、中を覗いてみる。
様々ならラベルの張られた、瓶や薬品が並んでいる。
これはちょっと、素人が手を出すには敷居が高いだろう。
戸惑ったまま治療を始めない様子に、ミュウは苛立った声を漏らす。
「なに? 出来ないの。役に立たないわねぇ、殺すわよ」
「――ヒッ」
「おいこらテメェ、物騒なこと言ってんな」
怯えるエレンを庇う。
今後のことを考えるとアルトとしても、このまま放置されるより、多少なりとも応急処置をして欲しい。
「出来る範囲で構わねぇよ。とりあえず、この汚ねぇ包帯じゃなけりゃ何でもいい」
「は、はい……でも、私じゃ傷口を洗って消毒薬を塗る程度しか……あ!」
「どうした?」
「私の知り合いに、お医者さん……では、無いんですけど、医療の心得がある方がいますから、その人なら……」
言いながら、エレンはチラッとミュウの方を見る。
視線の意味を察して、ミュウは舌打ちを鳴らす。
「ああ、もう面倒臭いわねぇ。さっさと連れて来てそいつを治しなさいよ! イライラするッ」
苛立ちをぶつけるよう、バリバリと頭を掻き乱す。
怯えながらも、エレンは「すぐに呼んできます」と、室内を走って出て行った。
今度は二人っきりで待つことになる。
苛々している所為か、ミュウは押し黙ったまま、貧乏ゆすりを繰り返す。
時間が立つにつれ、アルトの体調も悪くなる一方。意識が薄れ、何度か気を失いそうになった頃、エレンが一人の青年を連れて戻って来た。
「あの、怪我人がいると聞いて、来たんですけど……」
現れたのは、人の良さそうな黒髪の青年。
彼はそう言うと、気の弱そうな愛想笑いを浮かべていた。
「……ん?」
曖昧な意識の中、アルトは僅かな違和感を覚える。
しかし、最初に一瞬だけ感じたソレは、霞のように消え去ってしまった。
体調不良故の、幻覚だろうか?
腑に落ちない思いを懐きながら、アルトは現れた腰の低い青年を、ぼんやりと見つめていた。




