第4話 階段通路のルン=シュオン
王都クロスフィールは広い。
ただでさえ四つの地区にわかれているのに、大型の船舶が悠々と進入できる大河が、街を分断しているものだから、徒歩だと移動するのにも一苦労。街を一周しようと思えば、日付が変わってしまう。
外から来る人間には、不便に感じられるかもしれないが、実際はそれほどでもないからだ。
生活する上で、東西南北の地区が一つの街そのものの役割を果たしているため、基本的に他の街へ移動する必要性が無い。
仮に用事があって、他の地区に行く場合でも、徒歩以外に幾つか移動手段がある。
代表的なのは、簡易馬車と渡し船の二つだ。
中でも大河の国だけあって、渡し船は人気の業種で、専用の大きな会社まである。
住人向けの移動用から、観光客向けの遊覧船まで。水流を操る術式を搭載しているので、歩けば数時間かかる街の移動も、モノの数十分で目的地に連れてってくれる。
料金は術式の核となる、魔石の相場によって上下するが、戦後の供給は安定しているので、庶民の懐にも優しいお手頃価格だ。
もっとも、安定した収入のないアルトには贅沢な乗り物に違いない。
人間は年と共に足腰が弱っていく。
若い頃に怠けて、歩くことを疎かにすると、年を取ってから、トイレに行くのもままならなくなってしまう。
そうならないよう、魔術の恩恵に頼らず断固として二本の足を活用するべき。
自分に言い訳、いや、言い聞かせながら数時間。
日が沈みかけた頃、アルトとロザリンはようやく、目的地の北街にある階段通路にまで辿り着いた。
入口を前にして、アルトはドッと疲れた吐息を漏らす。
背中の怪我が完治しているとはいえ、昨日の今日では少しばかりしんどい。
「凄い、暗いところだね」
通路を覗き込むロザリンが、率直な感想を述べる。
ガラの悪い人間たちが往来する大通りの隅に、ポツリと空いた路地の奥。
石造りの高い壁に左右を囲まれた、人が横に五人は楽々と、両腕を広げて歩ける階段がある。
下りの石段は緩やかに伸び、踊り場的な広いフロアを経て、また同じような緩やかさで、今度は上りの階段が続いていた。
日が傾いてきているが、夕暮れにはまだ時間がある。
けれど、階段通路は薄暗く、日没が訪れればここは完全な暗闇と化すだろう。
大通りを行き交う人々は、階段通路の前に立つアルトたちに、怪訝な顔を向けるが、関わり合いを避けるかのよう足早に通り過ぎていく。
周囲が向ける視線の意味を察し、アルトはポリポリと指で鼻先を掻いた。
「子連れで尋ねるような場所じゃねぇことくらい、俺だってわかってるっつーの」
「そこは、美少女連れ、というのが、私的に嬉しい」
「……お前もだんだん図々しくなってきたな」
感情と表情の変化が乏しいだけで、人付き合いが苦手という訳ではないらしい。
「ま、肝が据わってんのはいいことだ。んじゃ、行くぜ。俺の側から離れるなよ美少女」
「うん」
頷き合って、二人は薄暗い階段路地に足を踏み入れた。
暗がりに身体を沈めた瞬間、明らかに周囲の気温が下がり、悪寒を感じたのか、ロザリンが猫のように身体を震わせる。
丸一日、太陽が当たらない場所だから、だけではない。
人の視線、それもあからさまな敵意の混じったそれが、空気を凍てつかせている。
「…………」
緊張からか口を閉ざすロザリンの肩を押し、自分のすぐ前を歩かせる。
視線を感じるのは左右と背後からなので、正面のすぐ手が届く位置を歩かせておけば、咄嗟の時に対処がしやすい。
言わずとも意図を察してくれたロザリンは、不自然ではない速度で慎重に階段を下りていく。
石造りの階段と靴底が、リズミカルな音を鳴らす。
嫌な雰囲気が冷気となって肌を突き刺して、自然と二人の緊張感を高める。
階段を真ん中辺りまで下りた時、背後の敵意が急激に膨らんだ。
「――止まれロザリン!」
大声に驚いてロザリンが足を止めるのと同時に、右腕を彼女の腹部に回す。
背後から抱き締める形になると、腰の片手剣を握り抜き放つ。
「うっ、はう!?」
素早い動きに自体が呑み込めないロザリンは、妙な声を出して目を白黒させている。
今度は逆の左手で腰を抱き込み、自分の下半身にくっ付くよう強引に引き寄せた。
小さな身体を片腕で宙に持ち上げると、その場で身体を半回転しながら、遠心力で剣を真横に薙いだ。
「に、にゃう!?」
猫の鳴き声みたいな悲鳴に構わず、銀色の刃が一閃に輝いた。
「「――ッ!?」」
背後に迫っていた棍棒や古びた短剣を持った男達が、素早いアルトの反応に驚きの表情を浮かべる。
タイミングが早い。
間合いはギリギリ届かず、片刃の剣先が男たちの腕を僅かに傷つけるだけだった。
しかし、それはアルトの狙い通りに、男たちを怯ませるには十分な一撃。
驚いて動きを一瞬止めた男たちの隙を見て、ロザリンを抱きかかえたまま、後ろ向きに階段を蹴る。
フワリと、二人の身体が空中に躍り出た。
「おお、おおおおおぅ」
「喋ると舌噛むぞぉ!」
跳躍から生まれる浮遊感に、ロザリンは感嘆を漏らした。
階段の真ん中から、一気に踊り場まで飛び降りる跳躍は、美しい曲線を描く。
着地の瞬間も、膝の屈伸を最大限に利用して衝撃を上手く殺し、人ひとり抱えながらとんだとは思えない身軽さで、殆ど音もなく地面に降り立った。
ロザリンを小脇に抱え直して、そのまま真っ直ぐ剣の切っ先を突きつける。
「にゅん」
軽く目を回したロザリンはそう鳴くと、両手足をブラリと下に垂らした。
階段には何時の間にか五人ほどの男達が、手にそれぞれ武器を持って、アルトに驚いたような視線を向けていた。
暗くて確認できなかったが、左右の石壁には人の出入りが可能な扉がある。
恐らく彼らは、アルト達が階段通路に足を踏み入れたのを見計らって、扉から背後へ回り込んだのだろう。
切っ先を相手の動きに合わせて牽制しながら、男達に視線を巡らせる。
「北街じゃ、通り魔が流行っていやがるのか? 暇だねぇ」
「ふみぃ、うぬぬッ」
抱えるため腰に回された手が、モゾモゾ動いてくすぐったいのか、変な声を漏らしながらロザリンは、身体を何度もくねらせている。
声と動きが小動物っぽいので、緊張感どころか色気すら無い。
「…………」
男達は何も答えない。
それどころか、今の動きに対して警戒心を強めたようで、更に扉から数人の男女が姿を現し、階段通路にちょっとした人溜りができる。
「おいおい。何人いやがるんだよ」
「ひぃふぅ……ざっと二十人はいる」
「お前は余裕があるなぁ、計算が早いぜ」
若干、呆れながら、小脇に抱えていたロザリンを地面に下した。
最初は男だけだったが、今度は女も混ざっている。
年齢層は様々だが比較的に十代、二十代らしき若者が多い。薄汚い身なりから見て全員、北街に住んでいる人間なのだろう。
無言のまま向けられる、敵意の籠った視線。
だが、不思議なのは、人がいるのはアルト達が下りてきた大通り側の階段だけで、後ろの娼館街に続く階段に人の姿は無かった。
訝しく思いながらも、今はそんなことを考えている場合では無い。
クランドから聞いた噂が事実なら、彼らの中にルン=シュオンがいるのだろうか?
「……とはいえ、話が通じそうな気配じゃねぇな」
「やる?」
「無駄に行動的だな、お前は。黙って見てなさい」
「うぃ」
素直にアルトの背後へと下がる。
アルトは威嚇するよう、剣を軽く左右に振るう。
「さぁて。人様に危険物を向けたとあっちゃテメェら、五体満足でお家に帰れると思うなよ……怪我したくなけりゃ、黙って回れ右しな」
警告、と言うより挑発に近い言葉。
しかし、その軽さとは裏腹に乗せられた殺気は本物で、気圧された連中の気勢が僅かに殺がれた。
それでも向けられる殺気に対抗するよう、連中も敵意を高め視線を険しくする。
階段通路を覆う冷気が、ピリピリと肌を差す緊張感を帯びる。
数秒、互いに睨み合っていると、
「――双方、そこまでだ」
唐突に、女性の声が響く。
ざわめきが走る。
張り詰めた敵意は、風船から空気が抜けるよう急速に萎えていき、手に持った武器を一斉に下した。
ひれ伏すように膝を折る姿に、ロザリンは目をぱちくりとさせる。
「……助かった?」
「さぁ、どうかね」
周囲の敵意は緩んでも、アルトは手に持った剣を下ろさず、そのまま背後を振り向いて、声をかけてきた女性に切っ先を合わせた。
階段を下りてくるのは、白髪で左目を眼帯で隠した女性が一人。
蜘蛛の刺繍をあしらった黒ずくめの男性用貴族服。手には革製の手袋を嵌め、足は編み上げブーツを履いていて、肌の露出を最大限まで押さえていた。
年齢は十代後半と一見若そうに見えるが、異様に青白い肌と整った顔立ちが、見た目の耽美さに言いようの無い不気味さを演出している為、正確な年齢は測り兼ねる。
アンティークドールが動いたら、きっとこんな雰囲気なのだろう。
眼帯の女性は、唇を歪めて笑みを覗かせる。
「おいおい。初対面の女性に対して、随分と乱暴じゃあないか」
舞台役者のような朗々とした語り口で、女性は言葉を発した。
「言うじゃないか。んじゃ、人様を背後から問答無用で襲ってくるようなのは、乱暴って言わないのか?」
「言うだろうな。しかし、そんなことは関係ない」
女性は大袈裟に肩を竦めて、首を左右に振った。
「なぜならこのルン=シュオンと、そこの連中は一切の関係がないからな」
歌い上げるような演劇調の言葉に、背後の連中が意気消沈する気配が伝わる。
だが、それ以上に気になることがある、
「ルン=シュオンって、お前が情報屋のルン=シュオンかよ」
「いかにも、ルンがルン=シュオンだ。お初にお目にかかる、能天気通りの野良犬騎士アルト殿」
まるで問われるのを待ってたかのように、ルンは恭しく一礼した。
警戒心はそのままに、剣だけを下げる。
「……ま、腕利きの情報屋っつーくらいだからな。俺のことを知っていてもおかしくはねぇさ。けど、関係無いんなら、こいつらはいったい何者なんだ?」
「さぁ? ルンがここを根城にしていたら、何時の間にか集まり出したのさ。嫌な客や不快な連中を勝手に追い払ってくれるから、中々便利だと思ってね。そもそもここは公共の場だ。根城といっても、ルンが独占しているわけではない」
背中越しに、悲しみの感情が伝わってくる。
恐らくは何等かの理由で、彼らはルン=シュオンに対して強い忠誠心を抱いているのだろう。
本人には主義なのか、性格なのか判断はつかないが、それを全く意に介さないのだから、何だか少し可哀想に思えてくる。
「普段だったらいきなり襲いはしないのだけれど、最近は物騒だからね。彼らも気が立っているのさ……勘弁できないというのなら、ルンは止めないからどうぞご勝手に」
「……別に喧嘩しに来たわけじゃねぇからいいさ」
「そう。それは実に、寛容だ」
剣を納めたアルトに、ルンは微笑を向けた。
人望はあるようだが、どうにも好きになれない。
表面上は友好的に接しているけれど、彼女の目は一切笑っていなかった。
アルトからすれば、後ろにいる二十人以上の連中より、ルン=シュオン一人の方が不気味で、恐ろしい印象を受けた。
「さて、面倒があったが俺たちは、アンタに聞きたいことがあって来た」
「うん。断る」
「実はこっちの……って、話を聞く前から断るんじゃねぇよ!」
怒鳴りながら指を突きつけると、ルンはつまらなそうに視線を細める。
「だって君、お金を持ってないだろう?」
「……グッ」
「ルンは情報を売る商売人であって、街の掲示板ではない。提供する情報への対価が支払われないのなら、情報を売ることは出来ない。そんなこと、子供でも理解が及ぶはずだ」
「は、話を聞くくらい構わないじゃねぇか! それに、何で俺に払えないって断言出来る!」
負け惜しみっぽいが、ここではいそうですかと引く訳にはいかない。
しかし、ルンのつまらなそうな表情を変えることは出来ない。
「聞くだけでいいのなら、どうぞ後ろの連中にでも語り聞かせてやってくれ。君の懐事情については、ルンの情報網はそこまで及ぶのだと、そう理解してくれて構わない。話は終わりで構わないかな?」
既にアルト達に対する興味を失いつつあるのか、ルンは退屈な表情を隠しもせず、今にもこの場から立ち去ってしまいそうな雰囲気を出していた。
その様子を見て、ロザリンはグッと拳を握り締めて断言する。
「駄目だ、アル。あの人、凄い情報屋だ」
「んなこと知ってっからここに来たんだろ。このままじゃアイツ帰っちまうぞ。おいロザリン、頭の回転が速いお前が、ここで一発逆転の心に突き刺さる弁舌で、相手の関心を引き戻してくれよ」
「無理。私、口下手だもん。目を見て、人と話せないタイプ」
「ああ、片目は前髪に隠れてるもんなーって馬鹿ッ!」
などとやっている漫才が興味を引いたのか、それともあまりにも哀れだったのか、ルンは嘆息しながら視線をアルト達に戻した。
「情報を得る対価として、金銭以外にもう一つある」
騒ぐのを止め、二人は同時にルンの顔に視線を集めた。
「情報の対価は、情報。ルンの知りえない情報を提供してくれるのなら、対価として欲しい情報を提供しよう」
ニヤリと唇を歪める姿に、アルトは内心で舌打ちをする。
「……にゃろう。結局、情報を渡すつもりがないじゃねぇか」
自分の名前はおろか、財布の中身まで把握されているのだ。アルトが知っていることで、ルンが知らないことなど皆無だろう。
彼女はそれを分かった上で、アルト達が困っている表情を見て楽しんでいるのだ。
この女、かなり性格の悪いドSだ。心の中で確信を持って断言する。
何も言えず白旗を上げるのは癪に障る。ニヤニヤとした愉悦の笑みを頭上から感じながら、何か無いかと必死で頭を回転させる。
不意に、ロザリンが前へと歩み出た。
「私は、魔女です……知ってましたか?」
「――おいロザリン!?」
いきなりの台詞に大声で咎めるも、ロザリンは大丈夫とアルトを制した。
ルンは笑みを止める。
「それは面白い情報だ……本当ならばね」
言うだけなら無料。
普通の人間なら魔女などという自己申告を、簡単に受け入れることはしない。情報を商品として扱うルン=シュオンならば尚のこと、言葉だけでその事実を信じることは無いだろう。
正直、ロザリンの正体を、得体のしれない情報屋に握られるのは、非常に不味い。
信じて貰えないならそれでいい。情報を得られるかも定かではないのに、魔女という事実を知られるのは、はっきり言って対価としてつり合いが取れない。
そんなアルトの心配を余所に、ロザリンは急に後ろに駆け出すと、事の成り行きを黙って見ていた連中に近づく。
その中で最初にアルトを襲った男二人。
腕を軽く斬られた男が動揺するのにも構わず、ロザリンは無理やり腕を取り、指先で傷口に触れた。
口の中で呪文を紡ぐと、指先が青白く光り切り傷は見る間に再生していった。
その光景を目の当たりにして、階段通路にどよめきが起こる。
「……これは」
流石のルンも、これには驚きが隠せない様子だ。
光が治まると戸惑いながらも「あ、ありがとう」と礼を述べる男達に、ペコリと頭を下げてアルトの元に小走りで戻ってくる。
自慢げな顔をするロザリンの頭頂部に、拳をグリグリと押し付けお仕置きをしておく。
色々と言いたいことはあるが、やってしまったことは仕方がない。
顔を顰めつつ反応を伺うため顔を上げると、バッチリ視線が合ってしまった。
浮かべている笑みに、嫌な予感しかしない。
「いいだろう。話してみろ。貰った情報の対価として、ルンも情報を渡そう」
「そいつは助かる。これで何も無かったら、俺はこいつのお尻をぺんぺんする所だった」
「……むむ」
軽口に反応して、ロザリンは自分のお尻を両手で隠した。
「では詳しく聞こうか。話はそれからだ」
「ああ、別に長ったらしい話じゃない。エリザベットという女を探してるってだけだ」
「ふぅん。エリザベットという人物は、この街に複数人いる。その女との関係は?」
「こいつの、ロザリンの母親」
横にいるロザリンの頭を、ポンポンと撫でる。
「なるほど、な……結論を先に言おう」
まだ名前を言っただけなのに早すぎる。驚くアルトに構わず、ルンは言葉を続けた。
「ルンが知る限り、エリザベットと名乗る女性でロザリンと言う名の娘を持つ人物は存在しない」
「……そんな」
ショックを受けて表情を曇らせるロザリンに、パチンと指を鳴らして注意を自分に引き戻す。
「慌てるな娘。話はここから……しかし、高い確率で君の母親はこの街に存在する」
「なんだと? 何故そう言い切れる」
問いに、ルンは視線をロザリンに向けて冷笑を浮かべる。
「常世の秘薬」
「――ッ!?」
息を飲み込む音が聞こえた。
「知っているのか?」
「……常世の秘薬は、魔女だけが調合できる、特別な薬」
平静を装いながらも、どこか固い口調で答える。
「ここ数日、とある場所でその秘薬が使用されたという情報がルンの元に届いている。一般に流通することは皆無なこの薬が、この街に存在する事実。つまり……」
「その持ち主が、ロザリンの母親である可能性が高いって訳か」
状況を繋げただけなので、確証がある訳ではない。
しかし、何も手がかりが無かったことを考えれば、調べてみる価値は十分にある。
そもそも、エリザベットの名前で見つからなかったのは、魔女との血縁を隠すため偽名を名乗っているのかもしれない。
唯一気がかりなのは、ロザリンの固い表情。
話を振ったルンは何か知っていそうなのだが、黙って微笑を浮かべている姿を見る限り、問い詰めても答える気は無いだろう。
ならば余計なことは後に回して、今は話を進めることが先決。
要は秘薬の出所を探れば、エリザベットに辿りつけるかもしれないのだ。
「情報屋。アンタに探し出せるのか?」
「この街のことでルンに探せない情報は無い。が、より正確な情報を提供するには暫し時間が必要だ」
前髪を掻き上げた手を前に出し、指を二本立てた。
「二日だ。それまでに詳細な情報を用意しておく。今日と同じ時間にここへ来るといい……では、その時まで、ご機嫌よう」
腰を折って、優雅な一礼を見せると、ルンは外套を翻した。
「って、言いたいことだけ言って終わりかよ。おい待て!」
最後まで自分勝手なルンの背中に声を荒げるが、片手を上げて挨拶するだけで何も答えず、階段の奥へと消えてった。
同時に、背後の気配も消える。
気がつけばその場には、アルトとロザリンの二人だけが残されていた。
静けさを取り戻した薄暗い階段通路は、最初に足を踏み入れた時に感じた、纏わりつく寒さは無く、かび臭く小汚い、北街ならどこででも見られる路地裏の風景だった。
一応は視線を巡らせながら周囲を警戒。
危険が無いのを確認すると息を吐き、今までの緊張感を解すよう大きく上へ伸びをした。
「やれやれ。これからまたあの距離を歩くと思うと、ゾッとしないぜ」
「歩くのは、健康にいいんだよ」
出発前の建前を蒸し返すが、疲れの溜まったアルトには右から左だ。
「大人になったら健康より優先すべきことがあるんだよ。さっさと帰ろうぜ」
「うん」
もうここに用事は無い。さっさと階段路地から出て、東街に戻ろう。
揃って歩き出しながら、アルトはふと、背後のルンが消えて行った階段を振り返った。
表情には出さないが、内心で苦虫を噛み潰す。
ルン=シュオンは、信頼を寄せるにはあまりにも腹の底が見えな過ぎる。情報の精度を上げる、と言えば聞こえは良いが、二日という期間も腑に落ちない。
そして何よりも、魔女であるという情報を握られたことも、正直痛かった。
これが致命的なモノに繋がらなければ良いのだが。
何にしろ、明後日は注意せねばならない。場合によってはロザリンをかざはな亭に置いて行くことも、視野に入れるべきだろう。
そんなことを考えていると、ロザリンが服の裾を引っ張ってくる。
「アル」
「ん?」
「明後日、置いてかないで、ね」
読まれていた。
察しの良いロザリンが、気づかないわけがない。
「……あ~。そうだなぁ」
アルトは口ごもりながら視線をさ迷わせ、誤魔化すように頭を撫でた。
「明後日、置いていかないで、ねっ」
二度目の「ね」は、今日一番の熱が籠っていた。
「うん。まぁ、覚えていたら……な」
とりあえず、曖昧な返事をしておく。
ロザリンは不満げに頬を膨らませて、左目を三角形にしているが、同じ台詞を三度は続けなかった。
色々あったが、今日は疲れた。後のことは、後で考えよう。
疲労の堪った身体を引きずるようにして、アルト達はかざはな亭のある東街への帰路についた。