第144話 束の間の休息
アカシャ・ツァーリ・エクシュリオールが、新皇帝として即位する。
処刑場での戦いから一夜明け、既に新皇帝の情報は首都イクリプス全体に、知れ渡っていた。
ミシェル・アルフマンを退け、一時的ではあるが、咢愚連隊のテロリスト指定は解除された。だが、息つく暇も無く、アカシャを初めとする咢愚連隊の面々は、騎士局長代行スズカノミヤと共に、継承の儀に向けての準備に追われていた。
処刑場の戦いから、二日後。共和国首都にある、旧皇帝居城。
敷地内にある、近衛騎士局の総本部と言える場所に、アカシャ達はいた。
つい昨日まで、咢愚連隊とは犬猿の仲であった組織の本拠地に、今はアカシャ達の安全を確保する為に留まっている。何とも微妙な気持ちになってしまうのは、アカシャ達のみならず、ここに詰めている騎士達も同様だろう。
総本部の最上階にある局長室。本来なら、局長であるシン・ハーン・エクシュリオールの執務室なのだが、現在ここの主は代行であるスズカノミヤだ。
とは言うモノの、スズカはこの数ヶ月、アルフマンに対抗する手段を探す為、各地を飛び回っていたので、総本部に戻るのも久しぶり。局長代行として部屋の椅子に座るのは、事実上今日が初めてだ。
戻って早々に、スズカは山積みになった諸々の問題に、忙殺される羽目になる。
「ふぅぅぅッ……幾ら私がドエムでも、デスクワークにだけは喜びを見いだせないわ」
珍しく疲れた表情をしたスズカは、局長の席に座り、目の前のデスクに山積みになった書類に、一々目を通しながら、羽ペンによるサインと印字による判を押していく。
継承の儀の準備に加え、アルフマン対策も確りと考えて、手回しをしておかなければならない。その上、近衛騎士局としての通常業務もあるので、まさに猫の手も借りたいほど忙しい。
現状、近衛騎士局の責任者は、スズカ一人だけ。
ジャンヌとヨシュアは命に別状は無かったモノの、戦闘による負傷で暫くは入院が必要で、継承の儀が始まるまでの現場復帰は不可能だろう。
特にジャンヌは怪我こそ大したことは無いが、咢愚連隊の隠れ里襲撃を指揮したのは彼女だ。色々と不幸な過去はあったが、状況が変わったので仲良く共闘しろ。と都合の良いことは言えない。
その辺りの確執は全てが終わった後、個人でつけて貰うとして、今はその手の遺恨は棚上げして、触れないようにすることにした。
そんな事情もあり、スズカの仕事は山積み。
後五日で全てを片付けなければいけないと思うと、ドエムのスズカですらゲンナリとしてしまう。
「……それで、そっちの方はどうかしら?」
目頭を指で揉みながら顔を上げたスズカは、部屋の隅へと視線を向ける。
床の上に直接座り込み、様々な書物や文献に囲まれながら、一心不乱に白い紙にペンを走らせるロザリンの姿がそこにはあった。
真横にはアカシャから借りた、皇帝の証も置いてある。
右手にはペンを持ち、左手で算盤を弾いている姿は、何とも鬼気迫る表情だ。
この二日、碌に寝ていない所為で目の下には隈が、くっきりと浮かんでいる。
ロザリンが書いた物だろう。周辺にはビッシリと数式や魔術式が書かれた紙が、何十枚と散乱していた。
四つん這いになった態勢で、算盤を弾きロザリンは紙から顔を上げず答える。
「……ようやく、三分の一」
「二日でそれくらいか……だったら、間に合うのかしら?」
「難しい、かも」
ペンを忙しなく走らせ、ロザリンは僅かに眉を潜めた。
ロザリンが現在計算しているのは、ウロボロスの公式の解答だ。
継承の儀でアルフマンと対峙した時の切り札であり、彼と人工天使計画を結びつける為に必要な、最後の一手。これの解が出るか出ないかによって、アカシャの運命どころか、この国の未来まで左右されてしまう。
「ここまでは、断片があったから、何とか解を出せた……けど、これ以降は、本当に未知の領域……どうなるかは、私にも、判断出来ない」
公式を紐解いていく度に、複雑怪奇さを増していく。
実際に一部とはいえ、公式を利用して焔ミュウを召喚させただけあって、魔術学の教授も舌を巻くほどの理解力だが、それでもウロボロスの公式を解くには、知識と根気、なによりも柔軟な発想力が不足している。
これを考案した魔術師は、紛れも無い天才だろう。
そしてアルフマンが解を導き出したという事実に、ロザリンは戦慄すら覚えた。
同じ考えに至ったのか、スズカも厳しい表情で、書類に走らせていたペンを止める。
「……少し、休憩にしましょう」
軽く吐息を吐いてからペンを置き、スズカは書類から逃げるように席を立ち上がる。
休憩の言葉は、自分だけでは無くロザリンに向けても言ったのだが、必死になりすぎて聞こえていない様子だ。
もう一度、スズカはため息を吐く。
「ロザリン。根を詰めるのも悪くは無いけれど、ドエムでも無い貴女が無理をするのは、身体に毒よ? 休憩を……いいえ。仮眠を取りなさいな」
「……でも」
顔を上げて眉を潜めるロザリン。
スズカは腕を組むと近づき、少し厳しめの口調で諭す。
「魔術で大切なのはインスピレーションよ。寝不足で鈍った思考で考え続けるより、僅かでもリフレッシュさせた方が、結果的に効率的なのでは無いかしら?」
無理をしているのは、傍目からもわかる。
言っていることも正しいが、解に一番近いのはロザリンとはいえ、彼女一人に負担を背負わせてしまうことに、スズカも申し訳なさを感じている。だからこそ、無理にでも休憩を取らせたいのだろう。
笑顔を見せない平坦な口調だが、心遣いはロザリンに届いたようだ。
「……うん。ありがとう」
礼を述べて、ロザリンは淡く微笑んだ。
指摘されてから、改めて自分が疲れ切っていることに気が付く。自分にしか出来ない役割が回ってきて、期待に応えたくて少しばかり張り切り過ぎたようだ。
ここは一端、気分をリセットして頭を切り替えるべきだろう。
「仮眠を取るなら、隣の部屋を使うといいわ。シーツも新しく取り替えたばかりだから、清潔よ」
「ん。それじゃ、お言葉に、甘えて……」
散らばった書類だけを片付け、ロザリンが立ち上がろうとしたその時、扉越しの廊下から、何やら騒がしい足音が聞こえてきた。
無くしたら不味いとペンダントを拾い上げ、振り向くと同時にドアが勢いよく開かれる。
「――てぇへんだッ!」
血相を変えたロックスターが飛び込んできた瞬間、頬の真横をペンが掠めていく。
鋭利なペン先故、掠めたロックスターの頬から、僅かに赤い血が流れた。
「…………」
まさかのお出迎えに、顔を青くして固まるロックスターに、ペンを投げつけた手で髪を掻き上げ、スズカはふんと厳しい視線を向ける。
「ノックくらいしなさい」
「あ、ああ……すまねぇ」
慌てた様子で、今更開きっぱなしのドアをコンコンと叩く。
「って、そうじゃなくって、大変なんだよ!」
そう叫んで、ロックスターは再び血相を変えた。
何とも騒がしい男だと、スズカは呆れ気味に手を前に組む。
「大変なのは何処の場所も同じよ。そもそも、何で貴方が私を訪ねてくるのかしら? 私達、会話を交わすのも今が初めてなのに」
「そりゃ、そうなんだけどさぁ。ウチの連中、特に禿げ茶瓶の野郎じゃ会話になんねぇんだよ! この一大事にッ!」
焦ったような剣幕で、ロックスターはズカズカと局長室に踏み入る。
その様子にただ事ではない気配を察知したのか、部屋を出るタイミングを逃したロザリンと視線を合わせてから、スズカは真剣な表情でロックスターに問う。
「何事かしら? 状況によっては、騎士局を動かすことも可能よ?」
「ああ、出来るならそうしてくれると、ありがたい」
協力的な言葉に、ロックスターは僅かに落ち着きを取り戻す。
これは、本当に何か不味い事態が起きたのかもしれない。
このクソ忙しい状況で、面倒事が増えるのは正直ゴメンだが、些細なことでも不確定要素を取りこぼしておくのは、相手がミシェル・アルフマンだということを加味すると、後々に致命傷に成りかねない。
真剣な眼差しを向けると、ロックスターは頷き、デスクへと近づいて片手を添える。
「ハイネスちゃんが……」
「ハイネスが、どうしたのかしら?」
一呼吸間を置いて、ロックスターは苦渋に満ちた表情を見せる。
「……あの野良犬野郎とデートするんだってよぉぉぉッッッ!」
「仕事しろ」
引出からもう一本、鋭利な先端を持つペンを取り出し振りかぶる。
ロックスターはデスクから飛び退きながら、慌てて両手を振りスズカを制止する。
「ま、待て待て待て待てぇい!」
「忙しいと言っているでしょ。くだらないことで業務の邪魔をすると言うなら、刑務所に送り返してもいいのよ?」
「いや、やっとシャバに出られたのに、それも勘弁だけど……代行さんよぉ。アンタ、本当にいいのかい?」
「……どういう意味かしら?」
ペンを振りかぶった態勢で、スズカは眉を潜める。
「だってよ、あの野良犬野郎はアンタの男なんだろ? だってぇのに他の女に……寄りにもよって、俺様のハイネスちゃんに手を出しやがったんだぜ? 放っておいてもいいのかってことだよ」
「わ、私の男?」
指摘され、スズカは意外にも動揺した様子を見せる。
頬が赤らみ表情が崩れかけるのを慌てて取り繕い、スズカは投げようとしたペンをデスクの上に置くと、誤魔化すようにワザとらしく咳払いをした。
「私とアルトはそのような関係では無いわ。あえて説明するのなら、奴隷とご主人様よ」
「……代行が、女王様?」
「いいえ……私は雌豚よ!」
決め顔でキッパリと言い切る。
室内に寒々し風と共に、沈黙が流れた。
これは深く追求しない方が良い。
ロックスターは瞬時にそう判断して、若干表情を引き攣らせながらも、何も無かった体で話を続ける。
「い、いやでもよぉ。忙しいってアンタも言ったばかりじゃん。こんな時に、特に男手が遊び歩いているなんて状況を、許しておけないと、俺様の義侠心が騒いでいるわけよ」
「彼はエンフィールの人間。元々、この国の諍いには関係の無い人物よ。共和国内の揉め事は、共和国人がつけるのが筋じゃないかしら?」
冷静な口調で最もなことを言われ、ロックスターは反論出来ない。
「それに、彼の本業は戦闘。継承の儀の流れ次第では、嫌でも彼に負担をお願いしなければいけない……今は、時間が許す限り羽を伸ばすべきね。アルトも、そしてハイネスも」
「…………」
最後は諭すような言葉に、ロックスターはバツが悪そうな表情で後頭部を掻いた。
反論は無い様子を見て、スズカはやれやれと息を吐き、背もたれに体重を預ける。
子供染みたやり方だったが、彼の気持ちもわからないわけでは無い。普段おちゃらけていても、ロックスターのハイネスに対する愛情は本物だ。それが、何処の誰ともわからない男にゾッコンだと聞かされたら、心中穏やかではいられないだろう。
耐え忍び、蔑にされることに悦びを感じる、ドエムのスズカには縁の薄い話だが。同じ恋する乙女として、ロザリンはどう思うのだろうかと、軽く興味が湧いてきた。
「やれやれ。ノーマルは難儀なモノね……ロザリン。貴女は……」
振り向くと、先ほどまでロザリンがいた場所には、影も形も無かった。
向けた視線に気が付き、ロックスターは「ああ」と、ドアの方を指さす。
「あのおチビちゃんなら、血相変えて廊下に出て行ったぜ?」
「……休みなさいって、言ったばかりなのに」
話の流れ的に、一足早く仮眠に行ったとは考え難いだろう。
しかも、大切な皇帝の証まで、勢いで持って行ってしまったらしい。
「ノーマルな恋って、難しいモノね」
そう呟いて、スズカは背もたれに体重を預け、深々とため息を吐き出しながら、両目を瞑った。
★☆★☆★☆
ラス共和国首都・イクリプス。
段々の斜面に作られた大きな都市は、秋も深まってきたこともあり、北の永久凍土から吹き込む風も厳しさを帯び始めていた。
来月の今頃は、チラチラと雪が舞い始めるだろう。
ここは首都の下層に位置する下町。中流より下の、あまり裕福とは言い難い低所得者達が、多く住む区域だ。
冬の足取りがヒタヒタと聞こえ始める中、斜面になった広い通りを往来する人々は、まだまだ薄着とも言える服装をしている。生まれてからずっと北国で暮らしている慣れもあるのだろうが、人手が多い屋台街の熱気は凄く、厚手のコートを着込んでいたら、汗でびしょ濡れになってしまうだろう。
ちょうど昼時で賑わう屋台街を、アルトとハイネスは並んで歩いて行く。
アルトは普段通りのコート姿。空腹を感じている為、湯気と共に美味しそうな香りで誘う屋台に、興味深げな視線を送っていた。
「串焼きか……おっ? あっちには焼き栗の屋台も。なぁんか、腹減ってきたぜ」
言いながら、アルトはペロッと唇を舐めた。
一方、横を歩くハイネスは、ガチガチに緊張している。
いい女を自称し、普段からアカシャや咢愚連隊の面々に、大人の余裕ある態度で接しているのだが、今のハイネスには見る影も無い。
顔は酒でも飲んだかのよう首まで赤く、騎士局の本部からここまで歩くのに、ずっと全身に力を入れていた為か、額には汗が浮かんでいる。おまけに、油断すると歩く足と手が同時に動いてしまい、全然冷静さを保てていなかった。
「あわ、あわわわわ……あ、ああアルトと、肩が触れ合う距離で歩いてる。し、幸せだけど上手く、呼吸ができねぇ……!」
ハフハフと、過呼吸気味に呟く。
完全に緊張し、舞い上がっていた。
そもそもにして、服装からおかしいのだ。
普段は短パンに黒いジャケットを羽織っているのだが、今日に限っては珍しく、スカートなんぞを履いて、ツバの広い帽子を被っている。
レース生地の花柄スカートに、ピンクのボレロを羽織ったお嬢様風コーディネート。
シックな服装を好むハイネスの発想には無い、何とも女の子っぽいチョイスは、多少、偏ってはいるモノの、趣味の良さが伺える。これがハイネスのセンスでは当然無く、選んだのはラヴィアンローズだ。
同じくファッションに疎いアカシャやファルシェラには頼めず、ハイネスの周囲で服装に関して相談できそうなのは、ラヴィアンローズくらいだったから。彼女のような奇抜な服装を選ばれたら、どうしようかと軽く思っていたが、用意されたのは思いの外、普通な洋服だった。
ただ、見た目が若すぎること以外は。
「こ、これはちょっと、気合入れ過ぎなんじゃないかなぁ? これって、十代の娘が着るような服で、あたしにゃちょっと、若すぎるんじゃないの?」
普段着なれない女の子女の子した服装の為、周囲とアルトの視線が異様に気になり、チラチラと挙動不審な態度を取ってしまう。
本人は気にしているが、ラヴィアンローズのチョイス自体は悪くなく、黒髪で喋らなければお嬢様っぽいハイネスの雰囲気に、とてもマッチしていた。しいておかしな所を上げれば、挙動不審な点と、季節的にちょっと寒そうな点だけだろう。
まぁ、挙動不審になっている一番の原因は、服装を見たアルトが、
「ああ。悪くないんじゃない、新鮮な感じだし。可愛い可愛い」
と、特に深く意味を考えないで発した一言の所為。
ハイネスの精神力は開始直後でゼロになってしまったのだ。
そもそも、何故、この二人が一緒に出掛けているのか。
一際大きく咳払いをしてから、ハイネスは申し訳なさげな顔で、アルトを見上げた。
「……えっと、ゴメンね、付き合わせちゃって」
「あん? ああ、別に構わねぇよ暇だったし……回りが忙しくしてる中で、ダラダラしてっと、周囲の目が痛くてなぁ」
「あは。わかるわかる」
軽い冗談に、ようやくハイネスは自然な笑顔を見せた。
「それにしても、どれくらいぶりなんだ? 自分家に帰るのって」
「ん~。アカシャが初めて家を訪ねてきて以来だから、二年? いや、一年半とちょっとくらいかな」
二人が目指しているのは、以前までハイネスが暮らしていた借家だ。
共和国の軍隊に狙われているので、攫われたアカシャを助けてすぐ、別な場所に雲隠れしてそれっきり。一応、何年かぶんの家賃は先払いしているので、大家が定期的に見て回ってくれているとは思うのだが、このまま放置しておくわけにもいかない。
手配が解けたこの機に、一度様子を見に、自宅に戻ろうと思いついたのだ。
それで朝方、顔を合わせたアルトに、世間話の延長でこのことを話したら「俺もついてっていい?」と聞かれ、今に至る。
「でも、あ、アルト。どうして、一緒に?」
「ん? まぁ、大したことじゃねぇさ」
何気ない表情で呟き、何時の間に買ったのか、袋に入った焼き栗を一つ口の中に放り込み咀嚼する。
「んぐんぐ……一度、確りと見ておきたかったのさ。この、ラス共和国の首都ってとこを」
「……あっ」
なんとなく、ハイネスは言葉の意味を察する。
帝国から共和国に変わっても、首都イクリプスの名は変わっていない。
久しぶりに帰ってきたとはいえ、ハイネスにとっては子供の頃から、見慣れた代わり映えのしない街の風景。しかし、この国と、この国を守る人々と戦ってきたアルトにとっては、何とも感慨深いモノがあるのかもしれない。
「……なぁんかさ、似てるよな」
「似てるって、何が?」
モグモグと焼き栗を食べながら、アルトは賑やかな通りを見回す。
「この街の風景っつーか、雰囲気っつーか」
「王都……能天気通りに、似てるってこと?」
「どっちかってーと、ゴチャゴチャした街並みは、南の工業地区に近いかもなぁ。んで、降りてきた上層は、西街の貴族街みたいなお上品な雰囲気があった……そんなとこ、見ているとさ、思うんだよ」
アルトは軽く顎を上げ、少し雲の多いイクリプスの空を見た。
「国や場所が変わったって、人の営みっちゅうモンは、変わり映えしねぇなって」
「……うん。それは、あたしも王都に行った時、感じたよ」
戦争時は、憎むべき敵同士であった両国。
だが、考えてみれば同じ人間であり、風土は違えと暮らしぶりに大差は無い。金持ちだけが上等な暮らしをし、貧乏人は貧困に苦しみながらも、日々を創意工夫でそれなりに、楽しく過ごしている。
わかり切っている筈なのに、実際に足を運んで初めて実感するとは、何とも情けない話だ。
両国の平和な暮らしぶりを見てきたハイネスは、改めて思う。
「……この街並をさ。アルフマンの人工天使計画が壊すかもしれないなら、あたしは命を捨ててでも止めたい……そう言ったら、大袈裟かな?」
「大袈裟だろうよ」
「でも……んぐっ!?」
自分の溢れる気持ちのまま、反論しようと顔を向けて口を開いた瞬間、アルトは手に持っていた焼き栗を無理やり押し込んだ。
香ばしい風味と、ホクホクとした甘い触感が口内に広がった。
「むぐむぐ……な、何をすのよっ!」
ゴクリと焼き栗を飲み込み、驚いたハイネスは非難めいた声を漏らす。
軽く頬を赤くする表情を見て、アルトは悪戯っぽく笑った。
「いいじゃねぇか。大袈裟だろうが、大袈裟じゃなかろうが。自分が戦う理由ってのは、自分だけのモンだろ? んな一々、他人に意見を求める必要はねぇって」
「で、でもあたしは、時々不安になるの。昔みたいに、思い込みだけで突っ走ってるんじゃないかって……アカシャのことを理由に、ただ、好き勝手やってるだけじゃないかって。そう思うと同時に、他人に頼られたくて戦ってる自分が、酷く浅ましく感じてしまうの」
悲しげに、ハイネスは視線を落とす。
騎士としての誇りに純粋な近衛騎士局の二人や、自らの欲望に素直なラヴィアンローズを見ていると、改めて思ってしまう。
ハイネス・イシュタールは、何の為に戦っているのかと。
始まりは、アカシャへの同情だった。それが何時しか、アルフマンに対する怒りだったり、人工天使計画を止める為の義務感だったりと、様々なモノに変化していく。その中で、ハイネスは気づいてしまった。
アカシャや咢愚連隊。彼らに頼られるのが、堪らなく嬉しいと思ってしまうことに。
「あたしは、さ。他の連中と違って自分が無いから……空っぽな自分に、生きるってことを教えてくれたのは、アル、トだから。ア、アルト、のマネをして、この七年間過ごして来たあたしが、頼られたり感謝されたりするのって、本当に正しいのかなって」
今まで誰にも、アカシャにすら打ち上げたことの無い心情を、ハイネスは自然と口に出していた。
アルトはただ黙って、焼き栗を食べながら耳を傾けている。
感情のまま、言いたいことだけを言い終え、ハイネスはバツが悪そうに笑う。
「は、ははっ。こんなこと、言っても困らせるだけだよね。ゴメン……忘れて。決戦を前にして、ちょっとナイーブになってただけだから」
「俺には、難しいことはわからんし、大層なことも言えん」
焼き栗を口に放り込んで、咀嚼して飲み込んでから、顔をハイネスに向けた。
「んでも、まぁ……頑張ってんじゃないの? お前さんは、ちゃんと頑張れる娘だよ」
軽く笑って、ハイネスの頭をポンポンと撫でた。
まるで、大人が子供を褒める時のように、優しい手つきだった。
「――ッ!?」
ハイネスの顔が通りの熱気とは別の熱で、首まで真っ赤になる。
慌てて撫でる手から逃げるよう、ぴょんと後ろへと飛び退く。
「な、ななななッ!? こここ、子供扱いしないでよ子供は欲しいけどッ!? って何を馬鹿なことを言ってるのあたしは今のは無しでッ!」
「……何を言っとんるんだお前は?」
首と両手を激しく、ブンブンと振るハイネスの姿に、アルトはジト目を向けながら、空になった焼き栗の紙袋を握り潰した。
アワアワと更に挙動不審な動きになったハイネスが、ワザとらしく声を上げる。
「あ~っと! 見えてきた見えてきた、あたしの住んでた家が! さぁ、ちゃっちゃと、ちゃっちゃと行きましょうね~っと!」
「はいはい」
完全に足と腕を同調させ、動揺が隠せてないハイネスの後を、肩を竦めてアルトが続く。
ちなみに、ハイネスの家はまだまだ見えておらず、この後三十分ほど、気まずい雰囲気のまま歩く羽目になった。
ハイネスも落ち着きを取り戻した頃、通りを抜け更に下町の下層へと出る。
民家も少なくなり、町はずれが近い場所に、ハイネスの家はあった。
「おっと。今度こそ本当に見えてきたわ……ふむふむ。大家の奴、割れた窓ガラスもちゃんと直してくれたみたいね」
ちゃんと舗装されておらず、荒れた道の先には一軒の木造建ての平屋が立っていた。
見た目、特に変わり映えしない建物が、ハイネスの暮らしていた家。
共和国軍が襲撃してきた時に割られた窓ガラスも、すっかり元通りになっていた。
「さぁ、遠慮せずに上がって。お茶くらい淹れるから……ちょっと、古くなってるかもしれないけど」
「あいよ」
言いながら、ハイネスは久しぶりに自宅のドアノブに手を伸ばす。
これってもしかして、自宅で二人っきり?
不意にそんな邪な思いが胸を溢れだし、吹き出しそうになる鼻血を必死で堪えながら鍵を開けドアを開くと、懐かしの光景が広がって……いなかった。
「……へっ?」
独身女の一人暮らしらしく、ちょっぴり荒れていた部屋は、まるで新築が如くピカピカに磨き上げられていた。
転がっていた空の酒瓶も、綺麗に処分されている。
「おおっ、帰ったかハイネス・イシュタール」
「はっ? ……あ、アンタは……!?」
無人の自宅から、ある筈も無い出迎えの声に、顔を向けたハイネスの表情が凍りつく。
モップを持って立っていたのは、オレンジ色のボサボサ頭に、トラ柄のド派手なフード付きシャツを着た、チンピラ風の青年。
共和国軍軍曹の、バルトロメオだった。
まさかの人物の登場、いやこの場合は不法侵入か。に、ハイネスの思考は凍りつき、暫し茫然と固まっていた。




