第135話 最凶、再び
纏わりつく氷結のシャボン玉が、二体目のゴーレムを氷漬けにして粉砕する。
所詮は土塊で構成されたゴーレム。余計な儀式を省いて、ほぼノータイムで生み出されただけで、さほど強大な力を持つわけでは無い。それでも、こうも容易く打ち倒せるような大きさの敵では無い。
残ったシャボンを周囲に飛ばし、ロザリンは魔術の成功に、ほっと息を付く。
「いやはや……これは、驚きましたな」
驚愕しきった様子で、パスカリスは禿げ頭を撫でる。
「拙僧の見立てでは、小さなシャボン玉に強力魔力を濃縮させている……しかしながら、普通の魔術師にそのような芸当は不可能。果たして、どのような術式で、そのような複雑な術式操作を、可能としているのかな?」
興味深げに問いかけるが、自らの手札を簡単に明かすわけがない。
シャボン玉を飛ばしつつ、ロザリンは首を左右に振る。
「教えない」
「ま、でしょうな」
残念そうな顔をする。
「ならばせめて、その術の名を教えて頂けませぬかな?」
興味本位の問いかけ。
何故かロザリンは、ウッと顔を顰め、
「……しまった。格好いい、名前を考えるの、忘れていた」
迂闊だったと半目で、口の中の水神の雫をコロコロ転がす。
ふむと、パスカリスも再び、残念そうな顔をした。
「なるほどなるほど。土壇場で、仕上げたばかりの術式を持ってきた。そういうところでしょうな」
「……鋭い」
「そして」
ニヤリと頬を吊り上げ、片目を閉じる。
「シャボン玉の仕掛けは、小瓶に入っている石鹸水と見ましたが、如何かな?」
「…………」
何も答えず、警戒するように数歩後ろに下がる。
その姿を肯定と受け止めてか、パスカリスは満足そうに頷いた。
パスカリスの見立ては正しい。シャボン魔術の胆は、石鹸水にある。
石鹸水に使っている水はただの水では無く、ルン=シュオンがわざわざ用意してくれが、エンフィール王国の、リュシオン湖の水を使用している。つまりはリューリカに祝福され、水神の雫で操作可能な水なのだ。
とはいえ僅か少量。戦闘に使える量では無い。
そこで考えたのが、水に石鹸を混ぜシャボン玉として操るという方法だ。
ガーデンで貰った魔術書などで、ロザリンは新たに特別な術式を学んだお蔭もあって、水の性質はそのままに、低温術式を付与し、相手を一瞬に凍結させるシャボン玉を作り出せることに成功した。
水を操り術式に干渉することが出来る水神の雫。ガーデンの特殊な魔術知識。そして魔眼による繊細な術式操作の三つが合わさって、シャボン魔術は初めて実現する。
ヒントをくれたのはルン=シュオンだが、彼女もここまで完成度の高い術式に仕上げるとは、想像していなかっただろう。
左手を振るうと、呼応するように、シャボン玉達は独特の動きを見せる。
「この、シャボン魔術なら、ここの、結界魔術にも、遅れはとらない」
「なるほどなるほど。エンフィール王国の国家神は、水の精霊。恐らくはその力を一部、使役しているのでしょうなぁ」
凄むロザリンに対して、パスカリスは落ち着き払った様子で、シャボン魔術を分析していた。
この余裕たっぷりの態度は、油断ならない。
シャボン魔術を脅威と思ってないのか、更なる奥の手があるのか。
どちらにしても、魔術戦はここからが本番だ。
「一部とは言え、上位精霊の力を相手取るには、少々骨がおれそうですなぁ」
顎を手で摩り、ふむと頷きながら、パスカリスは両目を閉じる。
すると何と思ったのか、真横に錫杖を突き刺して手を放すと、唐突に着ていた法衣に手をかけて脱ぎ出す。
豪快な脱衣に普通の女の子なら、キャッと頬を赤らめるところだが、ロザリンにそんな様子も無く、露わになる上半身に、嫌なモノを見せるなと不快感を露わにするが、直ぐにその表情は絶句へと移り変わる。
「な、なに……その、身体」
「ほっほっほ。いやはや、うら若きお嬢様には、少々刺激が強すぎましたかな?」
豪快に笑いながら、パスカリスは露わとなった上半身を、ペシッと手の平で叩く。
老人とは思えない、筋骨隆々の上半身。腹回りなどには脂肪がたっぷりついていて、丸みを帯びているが、それが不健康に思えないほど、特に肩回りの筋肉は隆起しており、彫刻の如き造形美を生み出していた。
ロザリンが絶句したのは、年齢に不釣り合いな筋肉だけでは無い。
「す、凄い、傷だらけ……」
思わず、ポツリと感想が零れる。
パスカリスの上半身には、至る所に傷痕が存在していた。
剣や槍による裂傷や矢傷。魔術を受けたであろう火傷の痕や、何やら筋肉がごっそり抉られたらしき、痛々しい傷まで残っている。
身体の傷を驚いた視線で凝視され、パスカリスは照れるように禿げ頭を掻く。
「いやはや。僧侶としても、騎士としても、全くもってみっともない身体でしてなぁ。これで背中に逃げ傷が無ければ、恰好もつくのでしょうが、生憎と拙僧は臆病者故。全身がこのありさまでございます」
と言って、パスカリスは豪快に笑った。
一方のロザリンは、とても笑い飛ばせない。
傷痕に驚いたのもあるが、アレだけの傷を全身に受けて尚、パスカリスは現役で戦うことが可能である、ということだ。
もしかしたら自分は、相当な化物の相手をしようとしているのではないか?
今更ながら、ロザリンは現状の恐ろしさを、再認識していた。
「――ッ!? 駄目。コイツを、倒して、アルを助けるんだっ」
そう言って自分を奮い立たせると、取り出した小瓶から石鹸水を補充する。
左手を振るい、更に生み出されたシャボン玉が、ロザリンの周囲を静かに漂う。
パスカリスもスッと笑みを消し、真横の錫杖を手に取る。
暫し、無言のまま視線が交錯する。
一秒、二秒、三秒……緊張感に満ちた沈黙の中、先に痺れを切らせて仕掛けたのは、ロザリンの方だった。
「――行けッ! シャボンスノウ!」
即興で付けた名を叫び、傘の先端を向けると、無数のシャボン玉が一斉に襲い掛かる。
その数は十や二十ではきかない。パスカリス一人くらい、簡単に氷漬けに出来るだろう。
しかし、パスカリスは逃げる素振りも見せず、悠然とした態度で、迫りくるシャボン玉を待ち構えていた。
その余裕に満ちた態度に、ロザリンに僅かな動揺が走る。
「確かに良い発想、良い魔術。しかしながら、あまりに稚拙……お忘れかな?」
持ち上げた錫杖を、強く地面に叩きつける。
瞬間、パスカリスの前方に魔法陣が浮かび上がり、三角柱の形をした巨大な土塊が複数隆起してきて、襲い掛かるシャボン玉を全て破裂させてしまった。
弾け飛び内包していた氷結の魔力が、冷風となって周囲に飛び散る。
シャボン玉に触れたことで、隆起した土塊は凍結したが、ただそれだけ。
パスカリス本人は、悠然とした佇まいで、掠り傷一つつけることは出来なかった。
「ほっほっほ」
笑いながら錫杖を真横に振るうと、凍結した土塊達は崩れ、目の前に氷の混じる土砂が広がる。
「この場は既に、拙僧の領域。花鳥風月全てとは言い得ませぬが、地面の土塊程度なら、自由に扱えるのですよ」
「……くっ」
魔術師としてのポテンシャルが違いすぎると、ロザリンは悔しげに唇を噛む。
本来なら、あのような強力な魔術を行使するには、幾つかの手順を踏まねばならない。しかし、この結界内でパスカリスはそれらを省略し、最短の術式構成で強力な魔術を行使することが出来る。
水神の雫を使えば、ロザリンがエンフィール王国内の水を、自由に操れるのと近しい理屈だ。
これは魔術戦において、非常に強いアドバンテージを、相手が握っていることになる。
「けど、幾ら結界内だって、万能では無い筈。私が水しか操れないよう、きっと何か限定された、制限がある」
「ふむ。いい目のつけどころですな」
感心したように、パスカリスは頷く。
「正解ですよ。確かに拙僧の力には、ある程度の制限がある。まぁ、大袈裟なモノではありませよ。魔女殿が水に特化しているよう、拙僧の魔術も土に特化している。それだけのことです」
「……そんなこと、バラして、いいの?」
自らの弱点とも言えることを、アッサリと口にするパスカリスに、ロザリンは疑わしげな視線を向ける。
その視線を受けて、パスカリスは心外とばかりに首を左右に振った。
「これでも僧侶の端くれ。若人が悩んでいる姿を見ると、助言を口にしたくなるのが悪い癖でしてなぁ」
手の平で禿げ頭を叩き、小気味の良い音を立てる。
「……んんっ」
何とも調子の狂う態度に、ロザリンは困惑を深めた。
敵であることは間違い無いのだが、パスカリスは終始この調子で、どうにも緊張感に欠ける。その所為かロザリンの思考に、妙な雑音が混じってしまう。
もしかしたら、事情があるだけで、本当な良い人物なのでは無いか?
そんな考えがロザリンの脳裏に掠めた瞬間、パスカリスの視線が鋭くなる。
「……ふむ、魔女殿。もしやとは思いますが、拙僧のことを善人だとか。話せばわかるのでは無いかと、思ったのではありませぬか?」
「……んぐ」
見透かされている言葉に、ロザリンは思わず言葉に詰まる。
パスカリスは、大きくため息を吐き出した。
「いやはや、これは拙僧が悪いのでしょうな。悪党のつもりは無いのですが、どうにも身に染みた性分から、相手に、特に幼子に殺気を向けるのはとんと苦手でしてなぁ……しかしながら、話せばわかるなどと、傲慢な勘違いをされてしまうのは、困りものですなぁ……これでは」
向けられる視線が、酷く冷めたモノに変わる。
「拙僧や閣下の思想が、間違っているようではありませぬか」
「……!? ま、間違ってるじゃない!」
反射的に、大声を張り上げる。
ミシェル・アルフマンが企てる人工天使計画が、実際のところどれほど危険なのか、ロザリンには理解出来ていない。けれど、あのアルトが本気で怒るほどのこと。何より、彼をあんなに悲しげな顔にさせる計画が、正しい筈が無い。
ロザリンはそう思っていた。
その思いを、パスカリスは瞬時に見透かす。
「魔女殿の年齢から考えると、七年前の戦争に深く関わり合いがあるわけでは無いでしょう。つまりは、その感情は受け売り……魔女殿が信じる主張は、本当に正しいモノなのですかな?」
「それは、わからない……でも、一つだけ、わかっている、ことがある」
不信感を煽り、動揺を誘って集中力を乱すつもりだろうが、その程度の言葉で揺らぐほど、ロザリンのアルトに対する信頼感は柔では無い。
逆に冷静な口調で、人差し指を突き付け、パスカリスを糾弾する。
「貴方達は、大勢の人を、デニスを殺している……そんなこと、絶対に許さない」
「ああ、そんなことですか」
「……えっ?」
軽い。あまりにも軽い言葉に、一瞬ロザリンの頭が真っ白になる。
「そんな下らないことに、ミヤ様を初めとした皆様は、怒っていたのですか」
にっこりと笑みを浮かべ、悪戯をした子供を諭すような、凄く優しい口調で言う。
全く見当違いの怒りだとでも言いたげな言葉に、ロザリンは続く言葉を失ってしまう。
絶句するロザリンに気づいているのか、それともワザと無視しているのか。満面の笑顔で、パスカリスは流暢に説法じみた言葉を垂れ流す。
「いいですかな? 人の世というモノは、犠牲の上で成りっている。しかも、その多くの場合は、無駄な犠牲を積み重ねるばかり……しかし、デニス中尉の犠牲は違う。彼の死こそは、未来へと希望、明日への礎なのです」
何を言っているんだ、この男?
胸を張って自慢げに語る言葉は、右から左へと抜けている。
ロザリンはパスカリスの説法を、まるで未知の言語を聞いているかのような気持ちで、ただ聞き流していた。
そんなロザリンの気も知らず、パスカリスの言葉は徐々に熱を帯びていく。
「拙僧とて破戒僧と忌み嫌われていても、人の世に平和を求める気持ちは変わりませぬ。人の死は悲しい。それが、言葉を交わしたことのある者なら、もっと悲しい。けれど、悲しみの果てに、屍を積み重ね、積み重ね、積み重ね積み重ね積み重ね積み重ねた果てに、真の平和があるのならっ!」
ヒートアップしきったところで、一度言葉を切り、冷静さを取り戻す。
「……人の世に恒久な平和が訪れるのです」
「――ッ!?」
次の瞬間、ロザリンは怒りに任せ、地を蹴っていた。
これ以上、パスカリスの妄言に付き合う必要な無い。
話しても無駄。恐らくは、互いに同じ気持ちだろう。
「魔術戦で、不利でも、私には、水神の雫の、ブースト効果がある!」
勢いよく地面を踏み込んで、天高く飛び上がったロザリンは、石鹸水で濡れた左手を構える。
確かにパスカリスの身体つきには驚いたが、水神の雫さえ使えば、互角とはいかなくとも、上手く立ち回れる自信があった。何よりも、アルトの矜持を汚すような言葉を吐くこの男を、どうしても許してはおけない。
「空中からなら、土に邪魔されず、間合いを詰めれる」
「なるほど。多少は戦い慣れしているようだが……」
パスカリスは軽く屈むと、足元の草を一本引き抜いた。
それを無造作に、ロザリンへ向かって投げつけようとする。
なんのつもりだと左手を構えながら、眉を顰めるロザリンの姿を見て、パスカリスはニンマリと笑った。
「油断大敵ですな。操れるのは、土だけとは限りませぬぞ?」
「……えっ?」
手から草が放たれる瞬間、パスカリスは錫杖で軽く、地面をコンと叩く。
投げつけられた草が、ロザリンと同じ高さになった瞬間、何の変哲も無い青々とした雑草は、生き物のようにその葉っぱ部分を幾つも伸ばすと、空中で無防備なロザリンの身体を絡め取り、拘束してしまう。
「し、しまった!?」
大きさは変わらず、葉っぱの部分だけ伸びて、ロザリンの手足を中心に縛り上げる。
魔力を帯びて強化されているのもあるが、空中で足の踏ん張りが無い所為で、思うように力が入らず、絡みつく草を解くことが出来ない。
「ほっほっほ。青い青い。軽く煽った程度で冷静さを失うとは、まだまだ魔女殿は幼いですなぁ」
余裕の態度で、パスカリスが笑う。
このままでは、身動きが取れない状態で地面に落ちるだけ。
まだ終わるモノかと、ロザリンは何とか無理やり左手を動かし、マントの上から内側に入っている固い物体を握り、魔力を込めた。
「……焔っ!」
魔眼が淡く輝きロザリンが呟くと、ほんの僅かだが、周囲に火花が散った。
完全には操れないが、炎神の焔で、この程度の火花なら出現させられる。
バチバチと音を立てる赤い火花は、一瞬にして消えてしまったが、それでも小さな雑草の葉を焼切るには十分。黒く焦げて脆くなった部分を引き裂き、ロザリンは空中で一回転し態勢を直すと、パスカリスに向かって右手の傘を振り上げた。
これは予想外だと、パスカリスは大きく目を見開いた。
「――ずぇぇぇいぃぃぃッ!」
「ほっ!? なんとなんと!」
頭上からの一撃を、パスカリスは片手に持った錫杖を翳し受け止める。
「――むぅ!?」
頑強な傘から伝わる圧力に、錫杖と身体の骨が軋み、パスカリスの表情に驚きが浮かぶ。
その動揺が隙となる。
見逃さずロザリンは、シャボン玉を生み出す為、左手を振るおうとする。
が、次の瞬間、ロザリンの意識が白くなって途切れた。
「――えっ?」
混濁する意識が現状を正しく認識出来ず、背中から伝わる強い衝撃に、視界にノイズが走った。
背中から地面に落下した。辛うじて、それだけが認識出来た。
意識と無意識の狭間を、数秒ほど漂い、ロザリンは急速に思考を取り戻す。
「――ハッ!?」
視界が開けると、岩山に囲まれた青空が見えた。
仰向けに倒れているのを理解すると同時に、今が戦闘中であることも思い出す。
慌てて立ち上がろうとするが、
「……あ、れ?」
腹ばいになり、身体を起こそうと腕に力を込めるが、脱力して全然力が入らない。
まるで他人の腕かと思うくらい、腕は全く自分の思い通りにならなかった。
意識はドンドンと鮮明になり、落下の衝撃で受けた背中の痛みと、顎の骨に響く鈍痛にロザリンは顔を顰める。
口の中に鉄っぽい味が広がり、吐き出した唾液は、真っ赤に染まっていた。
どうやら、口の中も切れているらしい。
「殴られた、の?」
視線の先には、剥き出しになったパスカリスの背中が見える。
シャボンアイスを打ち出そうとした瞬間、空いている左手で顎を殴られ、真後ろまで吹っ飛ばされたのだ。
痛みも感じさせぬ間に、意識を刈り取る一撃。
よくぞ、顎が砕けなかったモノだ。
落ちた場所も草むらだった為、背中のダメージも大したことは無い。
「運が、良かった、かな?」
「いやいや。良かったのは運では無く、魔女殿の執念ですなぁ」
そう言って振り返ったパスカリスの左腕は、甲から肘にかけて凍結による凍傷が出来ていた。
「おっ?」
思わず自分の左手を確認してしまう。
「その反応を見る限り、意識的にやったのでは無く、条件反射でシャボン玉を打ち出したのでしょうな……先ほどの火花もそうですが、魔女殿は咄嗟の発想力というモノが、常人より優れている様子だ」
「お世辞、ありが、とう」
喋っている間に感覚が戻ってきて、ロザリンは礼を述べながらヨロヨロと立ち上がる。
若干の皮肉も込めているのだが、パスカリスは柔和な笑顔で、とんでもないと凍傷で自由の利かない左手を振る。
「いえいえ、世辞ではありませんよ……ただ、それ故に未熟すぎる精神が惜しい。知識も知恵もあり機転も利く。だからこそ、瞬間的に熱くなりがちなその感情は、冷静さを尊ばれる魔術師には、あまりにも不釣り合いだ」
残念そうに、ゆっくりと首を左右に振った。
普段はのんびりとしていて、感情の起伏が薄いと思われるロザリン。だが、その内面は他の誰よりも熱い激情を持ち、今のように感情が高ぶると、大声を張り上げたり攻撃的になったりすることが、これまでにも何度かあった。
本人も直さなければと、常々思っているロザリンの弱点。
しかし、一度感情を爆発させれば、直ぐに冷静さを取り戻すのも、ロザリンの特徴の一つだ。
「一つ」
「ん?」
顎を摩って首の動作を確認しながら、ロザリンは指を一本立てる。
「一つ、気が付いたことが、ある」
「ほう? 何ですかな?」
「その、錫杖」
立てた指で、パスカリスが持つ鋼鉄製の錫杖を指す。
「それ、魔導器だね?」
「…………」
「この結界と、リンクしていて、土やその属性にある物体を、自由に操作することが出来る術式が、刻まれている……発動条件は、地面との接着」
「……むぅ」
「だから、飛んでくるシャボン玉を、凍傷になるとわかって、左手で潰さなくちゃならなかった。錫杖は、傘を受ける為に、地面から離れていたから」
確信めいた言葉で、眼光を鋭く光らせる。
パスカリスも笑顔を消し押し黙ると、周囲に沈黙が訪れた。
奇妙な沈黙の中、睨み合う魔女と僧侶。
均衡を破ったのは、パスカリスがよくやる動作。禿げ頭をペシッと手の平で叩く音だ。
「寄る年波には勝てんと申しますが、いやはや、年は取りたくないモノですなぁ……相手を格下と侮り、痛い目にあってようやくとは……いや。年齢を言い訳にするのでは無く、拙僧もまだまだ未熟者。そういうことですかな?」
何度も頷きながら、禿げ頭を左手で撫で回す。
凍傷は見た目以上に酷いのだろう。指や手首は、ほんの僅かしか動かせない様子だ。
「幼子かと思いきや、全く鋭い洞察力……偉そうに魔術師としての在り方を説きましたが、末恐ろしい逸材です。魔女殿のような方なら、もしや……」
「もしや?」
問い返すと、パスカリスは出かけた言葉を飲み込み、首を左右に振る。
「いやはや、何でもありませぬよ……まぁ、そんなことより続きと参りましょう。たかだか左手一本。勝負はまだついておりませぬよ?」
「……ッ!?」
笑顔の中に宿る、鋭い眼光を浴びて、ロザリンは咄嗟に身構える。
距離を取り、錫杖を警戒しながら石鹸水を補充する為に小瓶を取り出す。
「ほぉら、油断大敵。自分が今、何処に立っているのかお忘れかな?」
「えっ?」
コンと、錫杖が地面を付いた瞬間、慌ててロザリンは背後へと飛び退くが、予想していた土塊などの攻撃は無く、代わりに草むらの草が一気に成長して、ロザリンの身体を包み込んだ。
「――し、しまった!?」
急速に成長する草が視界を覆い、薄く鋭い葉っぱが肌を浅く切る。
視界を遮るだけで、幸いなことに直接的なダメージや、身体を拘束するような動きは無いが、この状態ではシャボン玉が草に阻まれ、直ぐに割れてしまう。
「火花で、焼き払う?」
それほどの火力は、まだ操作出来ないが、視界が塞がれている以上、行動が遅れると命取りになる。
無駄に身体を傷つけぬよう、マントで露出した部分を隠しながら、ロザリンは左手でマントの内側を探る。
瞬間、目の前の草が伐採されると同時に、左腕に激痛が走った。
「……痛ッ!?」
炎神の焔に触れていた、指先の感覚が消える。
いや、肘から先の部分、全ての感覚が消失していた。
反射的に向けた視線に、ロザリンの呼吸が止まる。
「う、腕、が……腕が……」
身体の奥から怖気が走り、熱い汗が全身から吹き出す。
知らずに握っていた傘を零し、右手を左腕の方へ持っていくと、あるべき場所に腕は無く、変わりに生温かい液体の感触が、絶え間なく伝わってくる。
「左腕一本。これにて、引き換えですな」
「あ……ああっ」
切り裂かれた草むらの先には、柔和な笑顔を湛えるパスカリスの姿が。
彼の右手には一本の剣。恐らくは錫杖が、仕込み剣となっていたのだろう。
急速に血の気と体温が引いていくロザリンに、パスカリスは諭すように、酷く優しい声色で言い聞かせる。
「残念でしたなぁ。こちらから、物理的な攻めは無いと思いましたか? それとも姿が隠れ、正確な位置は読み取れないとでも? 残念ながら、魔女殿が火で草を焼こうとするのは読んでいました。拙僧も僧侶であると同時に、騎士でもあるのです。術式を紡ぐ一瞬さえあれば、十分に斬り込めるのですよ」
草を伸ばしたのは、視界を奪う為と、ロザリンに魔術を使わせ隙を作る為。
まんまと、パスカリスの策略に乗せられたのだ。
顔色を真っ青にして、ロザリンは切断された左腕を押さえながら、両膝を付く。
吹き出す鮮血に塗れた草は、腕を失ったショックで戦意を消失しつつあるロザリンの身体を、埋葬するように覆い始める。
剣を片手に持つパスカリスが、慈悲の籠った視線で、ロザリンを見下ろす。
「さて、終わりですかな。せめてもの慈悲。失血死は辛いでしょうから、ひと思いに拙僧がその首を、落として差し上げよう」
祈りを捧げるかのような一礼と共に、パスカリスは仕込み剣を振り上げた。
ロザリンは恐怖と混乱で、ガチガチと歯を鳴らし動けない。
抱きかかえる左腕から流れる、とめどない出血が服とマントに染み込み、生温い嫌な感触を与えていた。
ショックの所為か、痛みは差ほどでも無い。
けれど、明確な死の恐怖に、ロザリンは動けなくなるくらい震えていた。
押し潰されそうになる恐怖の中、脳裏に浮かぶアルトの姿に、ロザリンは懸命に己を奮い立たせる。
「だ、駄目……駄目、駄目っ。こんなところで、終われ、無いっ……まだ、アルを、助けて、無いのに……アルの、為に、何一つ、成し遂げて無い、のにっ!」
噛みあわない歯で、必死に身を捩る。
しかし、身体は恐怖に屈服していて、ロザリンの命令を無視する。
必死で恐怖に抗おうとする姿に、僅かだがパスカリスの動きが鈍った。
が、それも一瞬のこと。
「お見事な意地……しかして、ここまでですな」
「動いて。お願い……私の、身体、動いて、よぉぉぉ!」
目尻にジワッと、熱い涙が溢れる。
諦めたくない。もう駄目だ。
相反する二つの感情を引き裂いて、聞き覚えのある声がロザリンの脳裏に響く。
『ウロボロスの公式』
「……えっ?」
『炎神の焔……ウロボロスの公式』
ノイズに塗れる声は、その二つの単語だけを繰り返す。
意味がわからない。恐怖でついに、幻聴が聞こえてきたのだろうか?
問答のする間も無く震える右手でマントの内側から、血に塗れる炎神の焔を取り出し、ロザリンの本能が前髪に隠れた右目の、魔眼を発動させて干渉する。
脳裏に描くのは、ウロボロスの公式と、その解の一部。
「ふむ、悪あがきですか……興味深いですか、この絶望的な状況。ただの魔術で、覆せますかな?」
余裕を表すように、パスカリスはゆっくりと剣筋をロザリンの首に定め、振り上げた仕込み剣を握る手に力を込める……だが、その動きは何故か鈍い。本来なら、もう振り下ろしている筈の剣は、まるで何かを待ちわびるように、迷うよう揺れ動いていた。
「…………」
「ぐっ……ぐっあああッッッ!」
気力と声を、ロザリンは必死に絞り出した。
術式が完成して、魔眼から魔力を炎神の焔に注ぎ込まれる。
同時に、刃が打ち下ろされた。
瞬間、火柱がロザリンの姿を包み込む。
螺旋を描き渦巻く炎は、どす黒いまでの赤。凶暴な肉食獣のように荒れ狂い、轟々と慟哭のような音を鳴らし生命を威嚇する。生きているかのような、明確な殺気を宿す炎。いや、実際に生きているのだろう。
なぜならば。
首を狙った斬撃は炎から伸びた腕によって、弾き飛ばされてしまったのだから。
腕は業火を纏い、空気と風を焼き焦がす。その勢いに吹き飛ばされ、パスカリスはバランスを崩すよう、大きく後ろへと下がらされた。
何とか倒れずに踏ん張ったパスカリスは、目の前の光景に絶句する。
炎は弾け飛ぶように四散し、中から炎に焼かれた様子の無い、ロザリンの姿が。
そしてもう一人、あり得ない姿をした少女が、だらしのない猫背で立っていた。
「――な、なんですとぉ!」
『熱い……滾るわぁ。初めて体験するのに、なんて清々しい気分なのかしらぁ』
気怠い声が、ロザリンの真後ろから聞こえる。
唖然とした様子で振り向くと、ロザリンの背に浮くようにして、一人の少女が炎を纏っていた……いや、より正確に表現するのなら、少女こそが炎だった。
「ほ、炎の中位精霊、ですと? ま、まさかこの土壇場で、そのような存在と契約を果たすとは、ありえませんッ!」
流石のパスカリスも、動揺した口調で捲し立てる。
現れた炎の中位精霊。しかし、その姿には見覚えがあった。
「……ミュウ」
純白の髪の毛と肌を持つ少女は、かつて呼ばれた狂犬の名に相応しい、凶暴な眼光をギラギラと周囲に撒き散らしていた。
この凶悪さ、この凶暴さ。忘れられる筈が無い。
狂犬ミュウ……炎を纏って今再び、最凶が蘇る。




