第129話 涙
顔を上げたデニスの瞳には、まだ僅かながら理性の光が見えた。
苦しげな呼吸を繰り返し、変質が止まらない肌が、パリパリと音を立てて結晶化し剥がれ落ちる。その繰り返しがデニス本人に苦痛を与えるのか、荒い吐息の中に呻き声が混じり、大きな羽を震わせていた。
アルトは向けた切っ先を下し、硬い口調で問いかける。
「……デニス。俺の声が聞こえるか」
「あぁ……うぅっ。がぁ……」
口をパクパクと開くが、漏れ聞こえるのは、苦しげな呻き声だけ。
反応は示しているけれど、デニス自身の意思があるかは、微妙なところだ。
いや、と、アルトは室内に視線を巡らせて、そんな甘い考えを否定した。
警備の兵隊諸共、研究者まで皆殺しにされている。既にこの場でデニスは、暴走を引き起こしているのだろう。
今の様子を見る限り、人物を認識しているかも怪しい。
「さっきの攻撃は、警戒する俺の殺気に反応したのか」
刺激しないよう、ゆっくりとデニスに近づく。
震える天使デニスから流れる魔力は、時間が経過するごとに強大に、そして禍々しくなっている。
此方に視線は向けているが、動く様子は無い。
意識を警戒に回し過ぎた所為か、足が床に落ちて割れたガラス片を、不用意に踏み砕いてしまう。
室内に鳴り響く、ガラス片が砕かれる音。
刹那、その音が天使デニスの防衛本能を刺激し、羽が大きく真横に開く。
「――なにッ!?」
開かれた羽の内側、その根本から突き破るようにして、数本の触手がアルトに目掛けて伸びてくる。
素早くアルトは真横に転がるようにして飛び、蹴り上げたテーブルを遮蔽物にして身を隠した。
目標を失った触手は、倒れた死体に突き刺さると、まるで養分でも吸い取るかのように、瞬く間に死体は干からびたミイラのような状態になる。
すると、崩壊しかけた肌の結晶化が止まり、息遣いも徐々に穏やかなモノへと変わる。
「死体の術式を取り込んだのか? ……おいおい。洒落にならんぞ」
予想外の光景に、呟く声も上擦る。
数体の死体から体内術式を吸収し、力を得た天使デニスは翼をはためかせると、ゆっくり立ち上がった。
触手の数は計八本。
その先端は、兵士達が使っていたのであろう、剣が同化していた。
アルトの背筋に、寒いモノが走る。
「やべぇ!?」
叫び、思い切り床を蹴り跳躍する。
一瞬遅れて、高速で飛んで来た触手が、遮蔽物として使っていた、木造のテーブルを粉々に引き裂く。
寸でのところで宙に飛び逃れたアルトだったが、四本の触手が追尾してくる。
「んにゃろッ!」
跳躍し、上下逆さになった状態で剣を振るい、触手と同化している刃を打ち落とした。
見た目は細い触手ながら、斬りつける圧力は意外なほど強力で、剣戟こそ防いだモノの受けた衝撃にバランスを崩し、アルトは床へと転がるように着地する。
素早く床を手で弾き態勢を直すが、既に触手が目の前まで迫っていた。
「――チッ」
舌打ちを鳴らし、剣で弾きながら低い態勢で後退。
入室する時に弾き返し、床に突き刺さった槍を素早く片手で抜くと、長柄のリーチを生かして触手を絡め取る。
「力と速さは大概だが、動きが単調過ぎるぜ!」
槍を器用に振るい、乱れ飛ぶ触手を掻い潜ると、周囲に目掛け剣を舞わせた。
無軌道に舞い踊り、刃が触手達を切り裂いて、どす黒い血液を撒き散らす。
「――ッッッ!?」
苦痛を感じたのか、天使デニスの身体が大きく仰け反った。
その隙を狙い、アルトは攻勢へと転じる。
「とりあえず、その動きを止めるッ!」
左手に持った槍を回転させ振り被ると、天使デニスの翼目掛けて投擲した。
打ち出された槍は一直線に、天使デニスの一翼を狙う。
このまま貫き、壁に縫い付けて動きを止める作戦だ。
槍が直ぐ側まで近づいた瞬間、天使デニスは大きく吸い込んだ息を吐き出すように、ぽっかりと口を限界まで開いた。
次の瞬間、発せられた音により、目の前の空間が歪む。
「――……ッ! ……ッ!」
「――ぐあッ!? 何て音だッ!?」
鼓膜を突き破るような甲高い音が、天使デニスの口から放射されたのだ。
視界が歪んで見えるほど、強力な魔力を帯びた音波。
音は衝撃波となり、迫りくる槍を空中で停止させ、一気に押し返した。
甲高い音に共鳴して、波状に生み出される衝撃波は爆音となり、空気を震わせ、空間を歪めながら、アルトの身体も吹っ飛ばして、背中から壁へと叩き付けた。
「――ぐわッ!?」
激しい衝撃が全身を打ち抜き、壁にぶつかった反動で、アルトは前のめりに床へと四肢を突く。
天使デニスの生み出した衝撃は凄まじく、アルトだけで無く、他の死体や実験機材までも壁際まで吹っ飛ばし、入口方面の壁際は、衝撃波で押し流された物体で、瓦礫の山を築いていた。
「クソッ。何てデタラメな力だッ」
毒づきながら、アルトは立ち上がる。
全身に痛みはあるが、ダメージはそれほどでも無く、戦闘続行は可能だ。
天使デニスは今の一撃で疲れたのか、肩を上下させて大きく呼吸を繰り返している。
強い。天使デニスは、圧倒的な強さを有していた。
だが、
「……以前、やりあった人工天使よりは、何とかなりそうだな」
確かに人知を超えた強さだが、アルトにはさほど絶望感は無かった。
北方戦線で戦った人工天使は、天使デニスよりも絶望的な強さを誇り、それに比べれば大人と子供ほどの差があるだろう。
しかし、アルトの攻め手を鈍らせる原因は、他にあった。
構えようとする剣の切っ先が、僅かに揺れる。
「クソ……クソッ! 俺は、何時からそんな甘ちゃんになった!」
アルトは自身を叱責するよう、吐き捨てる。
天使デニスは強い。だが、それ以上に、アルトが戦うことに戸惑いを見せていた。
投擲した槍は、迷わず天使デニスの急所を狙うべきだった。
結晶化が進み、自我も薄く、大勢の人間達を無作為に殺す存在。最早、デニス・グロスハイムの存在は、あの天使の中には皆無な筈。なのに、いざ、その刃を向けようとすると、グロスハイム姉弟の顔が脳裏にちらつく。
「出会って数日。情が移るほどの年月を重ねたわけでもねぇのに、何だって俺は、こんなにも戸惑ってやがるんだ」
言い知れぬ違和感に、アルトは悔しげな声を漏らす。
不意に思い出すのは、竜姫ハルルの後ろ姿。
今も尚、鮮明に焼き付く女性の姿がフラッシュバックし、アルトは激しく首を左右に振った。
「……馬鹿を言うな。俺が、自分とデニスを重ねてるとでも言うのか?」
自分に問うよう呟いてから、首を左右に振って否定する。
だが、幾ら否定しても、胸の中の違和感は、消えてくれない。
尊敬する人を失い、愛する人に手が届かない。けれど、愚直なまでに前へ進もうとするデニスの姿は、愚かしくも眩しく映っていた。
だからこそアルトは、柄にも無く頼み事を了承し、彼に剣の手ほどきをしたのだろう。
何故、急に感傷的な気持ちが湧き出したかと言えば、ガーデンで、会話が交わせなくても、在りし日の竜姫をその目で見てしまったからに他ならない。
甘っちょろい感情だ。
浅く呼吸を繰り返し、頭の中でスイッチを切り替える。
迷う事など無い。こんなこと、昔は何度も繰り返してきたことだ。
剣を構え直し、摺り足で天使デニスに近づく。
研ぎ澄まされた殺気を浴びてか、天使デニスはビクッと身体を震わせ、僅かに、本当に僅かだが、瞳に意思の光を戻した。
「……アル、ト、さん?」
「――ッ!? デニス!? 聞こえるか、デニス!」
警戒は緩めず、アルトは必死の声で叫ぶ。
声に反応して、天使デニスは苦しげに身を捩りながらも、怪物じみた声では無く、人の意思を持つ声が搾り出される。
顔を上げたデニスは、困ったような笑顔をアルトに向けた。
「は、あはは……アルフマン、閣下の、実験に協力、した、ら……こんな風に、なって、しまい、ま、した」
「アルフマンの実験だと!? 馬鹿野郎ッ! 何だって、そんなことに協力しやがった!」
アルトが怒鳴ると、デニスは羽を震わせ、肩を竦める。
「仕方が、無かった……何て、言い訳を、する、つもりは……ありません」
途切れ途切れの言葉。
喋るだけでも、意識を保っているだけでも相当体力を消耗するのか、語る口調はとても苦しげだ。
「自分は、ただ……軍人と、して、アルフマン閣下の、忠臣と、して……最善を、尽くした、のみ、です……閣下を、敵としか、見ない、咢愚連隊には、り、理解でき、ないかも、しれま、せんが」
「……やっぱり、聞いてたのか」
アルトの指摘に、ほんの僅かだが、デニスは悲しげに微笑んだ。
「勘違い、しな、いで、ください。べっ、別に、怒ったり、しているわけじゃ、ありません。貴方達に、悪意が、無い……ことくらい。この、数日で、十分に理解、できま、した」
「お前、アルフマンに俺達のことを、告げてないのか?」
「そん、なこと、し、したら……義姉さんが、悲し、む、じゃ、ないですか」
荒い息遣いをしながらも、デニスは冗談めかした言葉を発する。
この数日間、生真面目な表情で、口を開けば説教じみたことしか言ってこなかったデニスには、似合わない冗談だ。
「……ギャグのセンスがねぇよ。お前には」
顰めた表情から、そんな憎まれ口が零れる。
デニスは「ははっ」と、力無く笑った。
「信じたかった、んです。閣下の、進む道は、正しい、物だって。正しければ、自分は、胸を張って、義姉さんに、言える……貴女は、自分が守ります。って……でも」
ぷるぷると震える腕を、両脇に広げた。
「失敗、しちゃった、みたい、です……人工、天使化……で、でも、後悔は、して、いません。閣下の、お力に、なれ、たん、ですから」
「後悔が無いだと? ふざけたこと抜かすなっ! お前がそんなザマで、誰がマルティナを守ってやるんだ!?」
「……閣下が、約束、して、くだ、下さいました」
その一言に、怒りでアルトの全身が粟立つ。
「お前をそんな姿にした奴のことを、まだ信じるのかッ! どこまでお人好しなんだよテメェはッ!」
全身を溢れる怒気が言葉となり、研究室をビリビリと震わせた。
怒りに任せて怒鳴り、大きく肩で息をしながら、アルトはデニスを睨み付ける。
睨まれても、デニスは怯まない。アルフマンを、心の底から信じているからだ。
「自分は、閣下を、信じています。けれ、ど、この行いが、正しいとは、思いません……人工天使、計画は、この世にあっては、いけない、計画だ……この身が、天使となった今、はっきりと、それだけは理解、出来ます」
「なに? どういう意味だ?」
問いかけに口を開こうとするが、デニスは苦悶の表情を浮かべると、結晶化した身体の一部が弾け飛んだ。
強引に意思を取り戻そうとしているから、天使化した身体が拒否反応を起こしている。
肉体的にも限界が迫っている。けれど、デニスは懸命に、力を振り絞ってアルトに何かを伝えようとしていた。
「閣下は、ある意味で、深く、人類を、愛して、います……だからこそ、天使の意思は、閣下の思惑から、大きく外れる……て、天使の存在意義、は……グギッ!?」
「――デニスッ!?」
身体を貫くように、巨大な結晶が内部から肌を突き破る。
溢れ出る魔力が身体を食い破り、徐々にデニスの全身を浸食していく。
最早、デニス・グロスハイムという存在が、消滅するのは時間の問題だ。
けれど、デニスは最後の力を振り絞り、懸命に言葉を続ける。
「ガガッ……ここ、この研究所に、計、かくを、示す証拠、は、ありません。だだだ……だから、もう、時間が、あり、ません。ギギッ……自分の、記憶を、メモリーとし、て、のこ、します……」
「記憶? メモリー? 何を言っている!?」
「だ、だか、だか、だから、はは、早く……自分を、ねねねね……」
呂律が回らなくなっていく言葉。
デニスは右手を振り上げると、翼の根本から生える触手が、うねうねと獲物を探す。
しかし、最後の意思を振り絞って、デニス自身が抵抗している所為か、触手はあらぬ方向へとさ迷っていた。
「義姉、さささんの、おとうとのまま、で、おわら、せ、てくだ、さ、い」
「――ッ!?」
大きく目を見開いた後、アルトは音が鳴り響くほど、奥歯を噛み締める。
そうして、脇構えの態勢を取り、次にデニスへと向けた視線は、冷徹さを帯びていた。
「デニス……最後に言い残すことはあるか?」
微かに残った瞳の光が揺れ、デニスは振るえる唇を動かした。
――ごめんなさい。
ただ一言、デニスはそう口を動かして、酷く悲しげな笑顔を向けた。
直後、デニスの瞳から光が消え去り、獲物を求めて一匹の獣と化した人工天使がアルトへと襲い掛かる。
アルトは構えたまま、真っ直ぐと迫りくる人工天使を睨み付ける。
触手が群がるように襲ってくるが、既に理性は皆無。棒立ちのアルトを正確に貫くことは出来ず、肌や服を掠めるだけ。
僅かに血を流し、冷静に、冷徹に、アルトは目の前の人工天使を視線で射抜く。
「……あばよ、デニス」
最早、人としての原型を止めぬ怪物に、アルトは一足、前へと踏み出すと跳躍し、すれ違いザマ、人工天使を横真一文字に斬り裂いた。
手応えは十分。
胴体から真っ二つに切断された人工天使は、断末魔の叫びも無く崩れる。
切断という外からの衝撃で、術式バランスを崩した身体は、まるで砂上の砂が崩れるように崩壊していった。
一切の生体反応を感じさせない、鉱石の砂山。
その丁度真上に、拳ほどの大きさの、緑色をした宝石が落ちていた。
「…………」
アルトは振る抜いた剣を鞘へと納めると、長く息を吐きだした。
言葉は無い。勝利した満足感も無い。
ただあるのは、胸の奥にある染みるような、苦さだけだった。
★☆★☆★☆
一日の終わりが来る。
太陽はとっくに沈み、後数分で日付は変わるだろう。
普段だったら夢の中にいる時間帯の筈なのに、マルティナは私室のベッドの上で上半身を起こし、ジッと窓の外を眺めていた。
何のことは無い。ただ、家族の帰りを待っているのだ。
病弱なマルティナが、深夜遅くまで起きているのは、体調的によろしくない。
明りがついているのに気付いたスズカが、何度か部屋を訪れて、眠るように促したのだが、マルティナは首を縦に振ることは無かった。
最後にはスズカの方が折れ、出来る限り、無理はするなと言い残して、部屋を後にした。
何をするわけでも無く、マルティナは外の風景を眺めている。
これから、ラス共和国は長い冬に入る。
そうなれば、ここいら一帯は春が来るまで、真っ白な雪景色へと変わるだろう。
「昔、あの人やデニスと、よく雪で遊んだりしたっけ」
思い出して、マルティナは薄く微笑む。
病気になる以前から、マルティナは身体が強い方では無かった。
なのでグロスハイム兄弟と、雪の中を日が暮れるまで遊び歩いては、その日の夜から暫く熱を出して寝込んだりしていた。
「あの時、二人は両手に抱えきれないほど、お見舞いの品を持ってきてくれたんだっけ」
その日だけでは無く、グロスハイム兄弟がマルティナに贈り物をするのは、頻繁だった。
今から考えると、マルティナの収集癖は、兄弟の贈り物攻勢によって、養われていたのかもしれない。
まだ秋めいた気配の残す外を眺め、マルティナは楽しかった思い出を振り返る。
そうでもしないと、不安で心が押し潰されそうだったからだ。
「――ッ!?」
不意に廊下の方から物音が聞こえ、マルティナはドアを振り返る。
数回、ドアがノックされ、思わず叫んでしまった。
「――デニス!? デニスなの!?」
僅かな沈黙の後、ドアが開かれた。
現れたのは、気まずそうな笑みを浮かべた、アルトだった。
「……あっ」
思わず落胆の吐息が漏れ、慌ててマルティナは自分の口を押えた。
直ぐに表情を戻し、ぎこちなく笑顔を送る。
「ご、ごめんなさい……つい」
「気にするな」
アルトは短く言って、三脚の椅子を片手に持つと、ベッドのすぐ横に座った。
流行る気持ちで、マルティナは身を乗り出し問いかける。
「デニス……デニスはどうなったの? 今、何処にいるの?」
「…………」
何も答えず、ただ寂しげな笑みを向けるだけ。
それだけで、マルティナは全てを察した。
凍りつく思考の中、言いたくない言葉が、ポツリと口から零れる。
「死んだのね」
「……ああ」
短く頷いた。
マルティナの心が、急速に冷めていくのを感じる。
涙は出ない。悲しみも無い。
大切な義弟の死は、ただマルティナの心を、氷のように凍てつかせた。
辛そうな表情で、アルトは頭を下げる。
「済まない……俺がもっと早く辿り着いていれば」
「ううん。アルトさんの所為じゃないわ」
顔を伏せて、マルティナは首を左右に振った。
俯き、ベッドの上で、マルティナは空虚な気持ちのまま、言葉を滑らせる。
「……結局、私は、あの子の為に何一つしてやれなかった。あの子の力になれないどころか、負担ばかり押し付けていた……義弟が、デニスが、間違った道の進もうとしていることに、気づいていたのに」
自嘲するよう、マルティナは呟く。
アルトは黙って、それを聞いていた。
否定したところで、何一つ慰めにもならないのだから。
「誰の所為でも無いわ……私達が悪いの。私が一番悪いに決まっている……けれど、けれどね。理屈ではわかっていても、感情が溢れ出して来るの」
言葉が震える。目尻には、僅かずつ光るモノが溜まっていた。
掠れる言葉が、口から零れる。
「デニスを斬ったの?」
「ああ。俺が殺した」
ハッキリと、アルトは肯定した。
大きく息を吸い込む音が聞こえる。
勢いよく開いた口から出かけた暴言を、無理やり飲み込むと、顔をくしゃくしゃにして、マルティナは両手で顔を覆い隠した。
「ありがとう。ごめんなさい……でも、もう二度とここには来ないで」
「…………」
無言のまま、アルトは椅子から立ち上がり、ドアの方へと向かう。
もう二度と、二人は顔を合わせることは無いだろう。
ドアのノブに手を掛けた瞬間、アルトの背中に、顔を手で覆ったままのマルティナが、嗚咽の混じる声で問いかけてきた。
「ねぇ……教えて。デニスにとって、私は何だったのかな?」
「決まってるだろ……この世で一番大切な女さ」
僅かに振り返り、アルトは微笑みかけた。
「命を懸けるに値するほどな」
それだけ言って、アルトは部屋を後にした。
デニスは最後の最後まで、マルティナの心配をしていた。例えそのことが彼女の重荷になろうとも、決して彼の命は一人の野望の為に磨り潰されたわけでは無い。デニス・グロスハイムは、義姉を想い、兄を尊敬し、その生涯を家族の為に費やしたのだ。
断じて彼の最後は、ミシェル・アルフマンに捧げられたモノでは無い。
ドアを閉めると、中から堰を切ったようにマルティナが泣き声を上げる。
その声に、アルトはギリッと奥歯を鳴らし、滲み出る怒りを噛み殺しながら、静かに廊下を歩いて行く。
階段に差し掛かると、壁に背を預けるようにして、ロザリンが立っていた。
「……よぉ」
「――ッ!?」
軽く挨拶すると、ロザリンは泣きそうな顔をしてアルトに抱き着き、顔を腹の部分に押し付けて来た。
グリグリと押し付けられる顔は、僅かだが湿った感触が伝わる。
「お、おい。お前、泣いてんのか?」
「泣いてる。アルが、泣けないから、代わりに泣いてる」
そう鼻声で言い、更に強く顔を押し付けた。
ちょっとだけ驚いたアルトは、突き放そうと手を伸ばすけれど、やっぱり止める。
代わりに、その手を頭の天辺に置いて、ポンポンと叩くように撫でた。
最後にデニスが言ったように、研究所に人工天使計画に繋がる証拠品は、一切残って無く、ミシェル・アルフマンの姿も既に無かった。
彼はデニスで実験を行い、すぐさま研究所を後にしたのだ。
恐らくはデニスの来訪で、研究所視察の情報が漏れたことを知ったからだろう。
本来ならこれで計画は失敗。けれど、アルトにはデニスが最後に残してくれた、記憶メモリーがある。
頭を撫でながら、アルトはコートのポケットを手で探る。
取り出したのは、緑色に輝く宝石だ。
「……デニス。頼りにしてるぜ」
祈るように呟き、アルトは握る手に力を込める。
「アルフマン……テメェは俺を本気で怒らせた。この借りは、ふざけた計画を叩き潰すのと一緒に、十倍返しにしてやるぜ」
アルトの心に、怒りの炎が宿る。
人工天使計画を潰すのが目的で、ミシェル・アルフマンの存在など二の次だった。
けれど、今は明確に彼と戦う理由が生まれた。
新たな決意がアルトの胸の中に宿る。
ここからが、アルトとアルフマンの、本当の戦いの始まりだ。




