第114話 少年は月へと手を伸ばす
石造りの地下室は、激しい揺れに襲われ、少女達の悲鳴が響く。
陰気で不衛生な場所ではあるが、作り自体は確りしているらしく、多少は揺れたモノの崩れたりはせず、天井から埃が落ちる程度ですぐに治まった。
「……なに? 地震?」
鉄格子の前で四つん這いになるアルトを庇いながら、ロザリンは身体を起こして、そう呟いた。
少女達も、安堵の息を漏らしている。
けれど、アルトは微動だにせず、何の反応も見せなかった。
心ここにあらず。そんな風に、アルトは虚ろな目で、床をただ見つめていた。
「……アルちゃん」
ロザリンは悲しげに呟く。
自分が起こした行動が原因で、彼女達を追い詰めてしまった。
その事実に、心がポッキリと折れてしまったのだろう。
何も知らず、何も持たないアルトの空っぽな心を、突き動かしていたのは、人に対する善意のみ。
何故、そんな風になったのか、ロザリンは原因を知らない。
けれど、決して幸福とは言えない彼の過去に、一筋の救いがあったとしたら、自分を助けてくれた善意に縋りたいと、アルトは考えてしまったのだろう。
結果、アルトの目指した善意は、人を不幸にした。
「け、結局、私には何も出来ない……何かをやろうとして、このザマだ」
自嘲するように、アルトは呟く。
肩が小刻みに震えている……泣いているのだろうか。
「アルちゃん」
「こんなことなら……」
何かをしなくてはと、ロザリンは手を伸ばすが、アルトは独り言のように呟き続ける。
顔を覗き込んだロザリンは、言葉を失って、唇をキツク噛む。
泣いているのかと思ったアルトは、無表情のまま、虚ろな視線で床を……いや、虚空を見つめていた。
「こんなことなら、ずっとあの部屋に閉じ込められていればよかったんだ……耳と目を塞いで、嫌なことにジッと耐え続ければ、届きもしない月に手を伸ばそうなんて、馬鹿なマネはしなかったのに……」
感情の薄い言葉を、アルトは口から発する。
その虚ろな響きが、ロザリンは堪らなく、悲しかった。
これは過去の出来事で、過ぎ去り乗り越えたことだと理解はしていても、アルトという人物の口から、そんな諦めに満ちた言葉を聞くのが、ロザリンは自身のことのように辛く、そして何も言葉をかけてやれない自分が、とても力無く思えた。
こんな時、どんな言葉をかけてやれば良いのか?
憧れの背中を追いかけるだけの、未熟な魔女であるロザリンには、自信を持って語れる言葉を、持ってはいなかった。
自分な何て無知で、無力なのだろう。
ロザリンは手の平に爪が食い込むほど、強く握り締めた。
その時、閉じていた鉄製の扉が、勢いよく弾け飛んだ。
「――なにっ!?」
反射的に、ロザリンはアルトを隠すように前へ立つ。
鉄製の扉はくの字にひしゃげ、蝶番を破壊してガランゴロンと、石造りの床の上を転がった。
何事かと、ロザリンの表情に緊張感が差すが、暢気な声にその気配は直ぐに消え去る。
「おおっと。ちょっぴり、力を入れすぎたかな?」
姿を現したのは、大きく足を蹴り上げた態勢の竜姫だった。
肩には傷だらけのハイネスを担いでおり、驚くロザリン達を尻目に、堂々と部屋の中へ足を踏み入れる。
室内をキョロキョロと見回すと、不衛生な環境に眉を顰めた。
「随分と薄汚いところねぇ……ま、地下なんてどこも一緒か、っと」
「――痛っ!?」
抱えていたハイネスを、乱暴に地面へと投げ捨てる。
思い切り尻を打ちつけたハイネスは、痛がりながら竜姫を睨むよう見上げた。
「ちょっと! その薄汚い場所に、怪我人を放り投げんなっ! こっちとら、まだ清らかな乙女なのよ!」
「んなモン、わたしは興味ねぇわよ……ああ、いたいた」
抗議を軽く受け流した竜姫は、すぐに視線で蹲るアルトを捕えると、軽快な足取りで歩み寄る。
「竜、姫?」
「ちょっとそこ、どきなさい魔眼の小娘」
唖然と前に立つロザリンに、指を振りつつ竜姫はそう言う。
口調こそ軽いが、向けられる視線には、真剣な光を帯びていた。
それを感じ取ったからロザリンは、一回コクッと頷いて、道を開けるように横へとずれた。
すぐ前にまで近づき、竜姫はアルトを見下ろす。
「よぉ、小動物。ご主人様の命令を無視して、なぁに一人で黄昏てんのよ」
まるで、道で偶然出会った知人に話しかけるように、竜姫は気軽な口調で問いかける。
けれど、アルトは蹲ったまま、微動だにしない。
竜姫は軽く目を細め、鼻から息を抜く。
「口も聞けなくなりましたか……ペットからついに、お人形さんになっちゃった?」
「……その方が、よかったんです」
「ん?」
ようやく発した言葉にも、感情は虚ろで、何の色も宿してはいなかった。
「届かない月に手を伸ばして、一人前の人間になろうと頑張ってみても、私には何も出来なかった……いや、余計に、物事を悪くしただけ。本当に、無様ッ」
「そうねぇ」
絞り出すような掠れた声に、興味無さげに竜姫は言葉を返す。
「ま、仕方ないわね。アンタ小動物だし、一人前の人間になろうなんて、夢見がちも良いところよ。だからさ……」
竜姫は背中の竜翔白姫を抜き、アルトの目の前に投げて寄越す。
音を立てて転がる剣に反応するよう、アルトの肩がピクッと震えた。
「一人前に人間になる前に、とりあえず、一端の男になってみたら?」
「……えっ?」
そこでようやく、アルトは顔を上げた。
言葉の意味は理解出来ない。けれど、何か心に届くモノがあったのか、アルトの瞳にはほんの僅かだが、光が戻っていた。
竜姫は人の良さそうな笑顔など浮かべない。何時だって、不敵に微笑むのみ。
この時も、竜姫は見上げるアルトに、真っ白い歯をニッと見せていた。
「アンタの人生だ。自分で決めて、自分で動きなさい」
「でも、でもっ! それで何も出来なかったらっ、もっと酷いことになったら、私はどうすれば……!」
「そんなのわたしは知らないわ」
キッパリと言い放つ。
言葉に詰まるアルトを睨み付け、自分の胸をトントンと叩く。
「自分で決めろ。責任も自分で取れ……それが男ってモンよ」
竜翔白姫を足で踏むと、地面を滑らせアルトの目の前に。
白い剣に視線を落としたアルトは、何かを考えるように俯き、黙り込む。
重い沈黙が、地下室に流れる。
長い長い沈黙の果てに、アルトは大きく息を吸い込む。
取り巻く全てを振り払うように、勢いよく剣を手に取って、自分の長い髪を後ろに束ね根本に刃を添えた。
「――ッ!?」
ブチブチと、嫌な音を立てて、長い髪の毛が切断される。
剣としては鈍同然の竜翔白姫。
斬る、というより、引き千切るといった方が正しいだろう。
切った髪の毛をばら撒くように投げ捨てると、立ち上がったアルトは、鉄格子の方を振り向いた。
唖然としている少女達。
アルトは手に持った竜翔白姫と、硬く握り締め構える。
「……竜翔、天を頂き、白姫、人知を導く」
静かだが、確りとした口調で、ワードを口にする。
その声色は、ドレスを着た外見とは似つかわしく無い、男らしさを帯びていた。
言霊に反応し、竜翔白姫は強制的にアルトの魔力を吸い上げる。
「我が御霊を……」
「――小動物ッ! ……十分よ。それ以上は、死ぬわ」
珍しく慌てた様子の声に、アルトは言葉を途中で止めた。
真っ白な刀身は淡く発光し、魔力を帯びていた。
それを、アルトは鉄格子に向けて振るう。
剣など碌に振るったことが無い所為か、その姿は酷く不格好で、とてもじゃないがまともな剣術とは呼べなかった。
けれど、振り抜いた白い刃は、アッサリと鉄格子を切り裂く。
鋼鉄の格子はバラバラと崩れ落ち、少女達が檻の中から出るには、十分な大きさが生まれた。
魔力の消費に少しだけふら付きながら、アルトは少女達に力強く言う。
「ここから、出るんだ」
「……あなたっ!? 私達の話を聞いてなかったの!?」
少女の一人が、激昂したように声を荒げる。
また、同じ議論が始まるのかと思いきや、アルトはクルリと背を向けてしまった。
「聞いてた。聞いた上で、わた……俺はアンタらを助けることにした」
「同情のつもり? 馬鹿にしてッ! 誰が助けてくれって言ったのよ!」
「誰かに言われたからやったんじゃない……俺が、俺自身が、やりたいことをやっただけだ……それ以上でも、以下でも無い」
自分に言い聞かせるよう、大きく息を吸い込む。
「何も出来ない俺も、一歩だけ前に進めたんだ」
竜翔白姫を肩に担ぎ、後ろを振り向く。
少女達に向けた視線には、確かな意思の光が宿っていた。
「俺より強いアンタらなら、まぁ、大丈夫だろう、さ」
口調は無理やり、竜姫に似せようと努力しているのだろう。
どこかぎこちなく、そして不自然だった。
発する言葉は無責任で、とてもじゃないが理解の及ぶモノでは無い。けれど、善意溢れる言葉よりは心に届いたようで、少女達は皮肉めいた言葉を発するのを止め、困ったような視線を交わしていた。
「……この館、バランが、逃げたんだから、無人なんだろ? 適当に金目の物を見繕って、別の町へ行きな」
それだけ言って、アルトは少し恥ずかしげな表情で、竜姫を見上げた。
「ちょっとは、竜姫様の背中に、手が届いたかな?」
「違う」
しかし、竜姫は厳しい視線と言葉を返す。
えっ? と、戸惑うアルトの鼻先を、指でピンと弾く。
「始めて会った時に、名乗ったでしょ? わたしの名前は?」
「は、ハルル、様?」
「様はいらない。そしてもっと、親しみを込めて呼びなさい」
「えっと、じゃあ……ハル?」
戸惑い気味の言葉。
竜姫……ハルルは満足げに、鼻の穴を大きく膨らまし、胸を反らした。
「ふん。馴れ馴れしいわね」
素直じゃない言葉を吐きながらも、その表情はとても嬉しそうだった。
釣られて、アルトもぎこちなく笑顔を見せる。
きっとこの顔が、この記憶世界に来てからロザリン達が初めて見る、彼の本当の笑顔だったのだろう。
「ああ、そっか」
不意に、頭の中で思い出されることがあった。
直前、心を折られたアルトが、自重気味に呟いた言葉は、初めてロザリンがアルトと喧嘩した時に、発した台詞とそっくりだ。
いや、ロザリンだけでは無い。
アカシャやハイネス、今まで出会った人々もまた、似たような悩みに直面した経験が、きっとあるのだろう。
この世界ではそれがアルトだった。それだけの話だ。
「ここから、始まったんだね。アルちゃん……アルの、生き方が」
今はまだ、決意しただけで頼りなく、そしてぎこちない。
これから幾多の喜びと悲しみを経験して、ロザリンの知る野良犬騎士アルトが誕生するのだろう。
それをロザリンが知るのは、きっとまた別の話。
穏やかなロザリンの視線に気が付いて、アルトが振り向くと、彼は少しだけ照れ臭そうに視線を伏せた。
「……ふふっ」
「あの~……盛り上がってるところ、恐縮なんですが」
何となくロザリンが、頭の中で今回の件を纏めていると、ハイネスが力の無い声で片手を上げた。
座り込んでいるハイネスの表情は、青を通り越して土気色になっていた。
「そ、そろそろ、手当なりなんなりしてくれないと、あたしマジで死ぬっ」
そう言い残し、ハイネスはパタリと目を回して床へと倒れる。
一瞬の沈黙の後、慌ててロザリンが駆け寄り、治癒の魔術を施した。
★☆★☆★☆
ハイネスの治療を終え、一行は地下から館の外へと出た。
ほぼ半壊状態の館に、ロザリン達は驚きと共に原因である竜姫にジト目を向けたが、当の本人は素知らぬ顔で、鼻歌混じりに上機嫌だ。
一方、あれだけ強気だった少女達は、肩を寄せ合って泣いていた。
口では諦めたようなことを言っていても、牢から自分の足で踏み出し、こうして外の新鮮な空気と風に触れたことで、安堵と共に生きたいという意思が沸き起こり、涙となって溢れたのだろう。
瓦礫の中から、適当に換金しやすそうな貴金属を掘り出し、それを少女達に渡す。
まだ嗚咽に肩を震わせる少女は、アルトから貴金属を受け取ると、頭を下げ「ありが、とう」と、何度も掠れる声で礼を述べた。
アルトは照れ臭そうに、指で頬を掻いてから、今度はロザリン達の方に身体を向けた。
「お姉さん達も、ありがとう。迷惑ばっかりかけちゃったけど……」
「なぁに、お子様が遠慮なんかしなくていいのよ、アルトたぁん!」
そう言って、ハイネスはだらしない表情で、頭をポンポンと撫でる。
竜姫は腕組みをして、呆れたようなため息を一つ。
「アンタ、あの陰気野郎にボコられてただけで、何の役にも立って無いじゃん」
「……うぐっ!? そ、そう言われると、微妙に言い返せない」
「アルは、これからどうするの?」
ロザリンの問いかけに、アルトは力強い視線を返す。
「はい。ドラン商会の、バランを追い駆けます」
「バランを? どう、して?」
「ケジメです」
真剣な表情で一言。
「自分で始めたことには、最後までケジメをつけなけりゃって……それに、バランに舐められたまま、終わりたくはありません。奴にはキッチリ、わた……俺を嵌めた落とし前を、つけてやろうと思います」
男らしいと呼ぶには、まだまだ初々しさが残っているが、瞳に宿る確りとした意思の光を見る限り、今度は早々に心が折れたりはしないだろう。
アルトは後ろの竜姫を振り返る。
「ハルも、手伝ってくれるよ、な?」
「なぁにそれ? お願い? 命令?」
「どうせ、暇でしょ?」
その返しに、キョトンとした後、竜姫は笑みを零した。
「そうねぇ。ま、いいんじゃん。そろそろこの埃っぽい町にも、飽きてきたところだし」
「サンキュ……そういうわけで、俺達はこのまま、夜が明ける前に町を出ようと思います」
「そう……そっか」
ロザリンは嬉しそうに、視線を細めた。
自分達はどうするか。
ハイネスが言いかけると、急に視界がグラッと揺れる。
「あ、あれ? 血、流し過ぎた?」
こめかみを押さえるが、頭痛や脱力感などは無い。
見ると横のロザリンも同じ症状なのか、戸惑ったように頭を押させている。
しかし、目の前のアルトはハイネス達の異変に気が付かない様子で、笑顔をことらに向けていた。
この感覚、もしかしたらと、一つの可能性を思いつく。
「これって、元の世界に戻る前兆?」
何の前振りも、試練終了の実感も無い二人は、唐突な出来事にただ戸惑うばかり。
徐々に白んで世界の中で、アルトと竜姫の声だけが、鮮明に聞こえた。
「ありがとう、お姉さん達。一杯迷惑かけて、ごめんなさい。もしも、次にまた会うことがあったら、もっと頼れる人間に慣れるよう頑張るから」
「ま、実際、もう会うことは無い気がするけどね。バイバイ。人間は嫌いだけどアンタらのことは……ああ、別に好きでも無いわね」
最後まで辛辣な言葉を投げかけ、最後は声も聞こえなくなった。
世界が白く反転する。
意識が一端途切れる最後の瞬間まで、二人の脳裏には、幼き日のアルトの姿が、鮮明に焼き付いていた。
★☆★☆★☆
目を開くと、二人は歌劇場の舞台の上に立っていた。
まるで、長い夢でも見ていたかのような感覚に、二人は暫しぼんやりしていると、上から優しい声色が語りかけてきた。
『如何だったかしら、過去と記憶への旅路は?』
見上げると、女神マドエルが優しい眼差しで、二人を見下ろしていた。
「あ、ああ……えっと」
ハイネスは頭を押さえ、ハッキリとしない頭を必死で動かそうとする。
気分を落ち着かせるよう、数回深呼吸を繰り返したところで、ようやく靄のかかっていた意識が鮮明さを取り戻し始めた。
「そっか。あたしら、帰って来たんだね」
夢現な気分で、ハイネスは呟く。
何とも不思議な経験に、まだ実感が沸かないのだ。
竜牙ラインハットとの戦いで、ズタボロになった身体も、今は掠り傷一つ残ってはいない。一応はロザリンに、魔術で治療して貰ったとはいえ、傷口を塞いだだけで、満身創痍には違いなかったのに。
ロザリンも目をパチクリさせ、ハッキリとは状況を認識していない様子だ。
ようやく思考が回るようになったハイネスは、マドエルを見上げた。
「えっと、これはつまり、竜の試練は終わりってことで、いいの?」
『はい。その通りですよ……試練の全工程は、終了いたしました』
「……それって、やっぱ、不合格って、こと?」
恐る恐る問いかける。
竜姫にも言われたことだが、結果、ハイネスは特別なことを何一つしていない。
それどころか、竜牙ラインハットを追い込むも、結局は破れてしまっているので、どう贔屓目に見ても不合格にしか思えない。
しかし、マドエルはニッコリと微笑む。
『この試練の合否を決めるのは、ハイネス。貴女なのです』
「……は?」
ハイネスは首を傾げる。
『竜の試練には明確な合否は存在しません。過去の記憶世界に赴き、自らに足りないモノ、欠けているモノを見極め、過去の人物と対話し、己を見つめ直すのが、竜の試練の意義なのです』
穏やかな口調で、マドエルは語り続ける。
『何故この試練が、再選の為に存在するのか……今の貴女になら、多少なりとも、理解出来るのではないでいしょうか?』
「再選の、意味」
思い起こすよう、ハイネスは胸の辺りをギュッと握り締める。
竜牙ラインハット。確かにハイネスとは相容れぬ思想の持ち主ではあったが、自分の持つ矜持には、確固たるプライドを持っていた。わかり難かったが、竜姫もきっと同じなのだろう。
彼らは竜であるから強いのでは無い。強いから、竜なのだ。
胸から手を離し、自分の手の平を見た。
「……へっ。まだまだ、あたしも未熟者ってわけか」
戦う力だけでは無い、心構えもだ。
今の自分は、まだ歴代の竜達に及ばない。
悔しくもあり、嬉しくもある。
何故ならば、手を伸ばすなら、より高みの方が伸ばし甲斐があるからだ。
「マドエル。不合格よ……まだまだあたしは、竜の名には相応しく無いみたい」
清々しい笑顔で、迷いなく言い切る。
マドエルも笑顔に答えるよう、穏やかな表情で頷いた。
『そうですか。残念な結果ですが、過去と己に向き合うことで、貴女はより深い愛を知った……それは称号を得るより、もっともっと価値のあることでしょう。愛の女神の名の元に、それだけは断言します……それでは』
両手を上から舞台を覆うように広げ、マドエルは歌うように宣言する。
気が付けば、楽団の人形達も、ハイネスの結果に賛美を送るように、賑々しく警戒な音楽を奏でていた。
『ハイネス・イシュタールの不合格を持って、竜の試練はこれにて終了とする』
その一言に、ハイネスはちょっぴり残念そうな、安堵の息を吐いた。
「残念、だったね」
「ま、少しだけね……でも、いいのさ。竜の称号があろうと無かろうと、これからやることには、何一つ違いは無いんだから」
堂々と胸を張って、ハイネスは横のロザリンに視線を送る。
二人は顔を見合わせて、微笑み合った。
と、そこで、一つ思い出したことがある。
二人がそれぞれ片手を置いている先には、もう一人、記憶世界で以外な過去を晒した人物が存在するのだが、戻って来てから一向に口を開かないどころか、存在も忘れてしまうほど、微動だにしていなかった。
目の前には、大人の姿をしたアルトが、座を下している。
恰好は包帯塗れの寝間着姿。女物のドレスなど、身に着けている筈も無い。
「アル?」
「…………」
問いかけにアルトは、ピクリとも反応を見せない。
嫌な予感がしつつ、二人は問いかけるような視線を、ニコニコと笑顔を浮かべ続けているマドエルに向けた。
「あの、記憶世界の出来事って彼は……?」
『勿論、覚えていますよ。今回の記憶世界の構成には、彼の記憶が大きな鍵となっていましたから。貴女方からは確認できませんでしたが、私と共にお二人をちゃんと見守っていました……少々、取り乱し気味でしたが』
予感が的中して、二人は恐る恐る視線をアルトに戻した。
今の話を聞いてか、身体が小刻みに震えている。
「……ろせよ」
「へっ?」
「――いっそ殺せよ! いや、殺して下さいお願いしますッ!?」
やけっぱちに叫んで、アルトは頭を抱えながら、床をゴロゴロと転がった。
あの女装は、本人にとっても、恥ずかしい黒歴史だったのだろう。
「マジかよどんな精神的拷問だこれッ!? 若気の至りなんてレベルじゃねーぞ! 純情素直な女装姿のアルト君だなんて、ワイルドナイスガイな今の俺の完全なイメージダウンじゃねぇかッ! しかもそれを他人に見られるなんて、恥ずかしすぎて口から内臓を吐き出しそうだぁッ!」
「大丈夫っ、可愛かった、よ!」
「――うわぁぁぁん! 死にたい! 誰でもいいから、俺を殺してくれぇぇぇッ!」
無駄なロザリンの慰めがトドメとなり、大人の男が本気で泣きだしてしまった。
ハイネスはオロオロとしつつも、可愛い過去のアルトを見られて、すげぇラッキーとか思っている。
そんな三人の様子を見下ろして、女神マドエルは満足げに頷いた。
『では、試練も終了したことですし、元の場所へと皆を戻しましょう……皆の胸に秘めた愛、とても素晴らしモノでした。願わくば、何時いかなる時と場所でも、その愛を見失わぬように』
勝手にまとめて、騒ぐ三人に構わず、マドエルは祈るように両手を組んだ。
すると、再び世界は白く反転する。
今度は意識が真っ白になって、持って行かれるような感覚は無かったが、次の瞬間には歌劇場は影も形も無くなっていて、元の一面ピンク色に染まったら、ヴィクトリアの学長室に戻っていた。
唐突な周囲の変化に、騒いでいたアルトも、声を潜めた。
座してマドエルを顕現させていたヴィクトリアが、ホッと息を付いて、閉じていた瞳を開く。
「……ふぅ。お疲れ様」
額に汗を浮かべ、ヴィクトリアは疲れた表情で微笑んだ。
何度経験しても、不思議な現象だと、三人は顔を見合わせた。
アルトはまだ若干、不機嫌な表情を晒していたが、これでガーデンを訪れた目的は全て果たしたことになる。
特にハイネスは、大きく安堵の息を漏らした。
「とりあえず、これで一段落ついたってわけね」
「……俺は大火傷だけどな」
拗ねるような呟きに、ロザリンとハイネスは顔を見合わせ、苦笑い。
あまり突っつくと、本気で怒り出しそうなので、記憶世界での出来事は、二人の心の中に閉まって置くといいう結論に、無言のまま同意した。
「……んん?」
記憶世界の出来事を知らないらしいヴィクトリアだけは、場の奇妙な雰囲気に、後に指を添えて不思議そうに首を傾げた。
と、ちょうどその時、学長室のドアがノックされる。
まるで皆が戻って来たのを、見越していたかのような、タイミングの良さだ。
「どうぞ」
「――失礼します」
ヴィクトリアの許可と共に、聞こえて来たのは、クルルギの声だ。
ドアを開け、一礼と共に入室してきたクルルギの姿に、アルト達はギョッと息を飲んで驚く。
「このような恰好で失礼。何分、着替える暇も惜しいモノでな」
恰好は何時ものメイド服。
だが、全身が血のような真っ赤な液体で、汚れていた。
驚いたヴィクトリアは、口元を手で覆って、小さな身体をぴょんと跳ね上げた。
「た、大変! 早く手当しなくっちゃ……」
「ご心配無く。これは全て返り血です……我自身には、掠り傷一つありませんので……それより」
クルルギは視線をアルト達に向ける。
「貴様ら。早々に王都へと戻れ……不味いことになっているぞ」
「……どういう意味だ?」
その言葉に、アルトの視線に真剣さが帯びた。
「ラス共和国が、エンフィール王国に特命の大使を派遣し。目的は……」
嫌な予感に、肌が粟立つ。
「アカシャ・ツァーリ・エクシュリオールの引き渡し要求の為」
「――ッ!? 何ですって!」
思わず、ハイネスは大声で叫んだ。
試練が終了し、安堵の息を吐いたのもつかの間。
どうやらアルト達には、休憩をしている暇など、無さそうだ。




